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曹利用「澶淵の盟」をまとめた功労者が自害に追い込まれたのはナゼ

宋 4.3 宋の臣下と人々

曹利用は10世紀の北宋の武人で重臣。

1004年に宋と契丹(遼)が戦争したとき。遼との交渉を担当。
和平交渉をまとめました。このときの条約が澶淵の盟です。

無事に和平をまとめた曹利用は真宗から信頼されました。

ところが仁宗の時代、劉太后とその取り巻きの宦官たちとは仲が悪く。劉太后派によって降格、左遷され自害に追い込まれます。

 

史実の曹利用はどんな人物だったのか紹介します。

 

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曹利用の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1029年

姓 :曹(そう)氏
名称:利用(りよう)

国:宋(北宋)

父:曹諫
子供:曹淵

彼は3代真宗、4代仁宗のときの人物です

日本では平安時代になります。

 

おいたち

曹李の父、曹克斎は科挙の明経の試験を受け、右補闕に任命されたが、その後、武勇を認められて崇禎使に再任された。

若い頃の曹李は、おしゃべりで雄弁、おおらかで大志を抱いた人物でした。 父の曹克亭の死後、蔭襲で官職につき殿前承旨、左僕射兼侍中になりました。

 

契丹との澶淵の盟をまとめる

景德元年(1004年)。契丹(遼)が河北に攻めてきたので、宋真宗 趙恒が澶州まで遠征しました。真宗は王継忠に契丹と和平交渉を命令。

枢密院は曹利用を使者に指名しました。

真宗から和平交渉を任される

真宗は使者に決まった曹利用をにこう言いました。
「遼人は南に侵入。土地を奪っている。これ以上、土地をやることはできない。しかし漢の時代に匈奴の単于に玉帛を与えたことがある。今回もそうしようと思う」

すると曹利用は成功するまで生きて帰ってくるつもりはありません。と言い。真宗は曹利用の心意気を高く評価し。100万以内で交渉をまとめるように言いました。

曹利用が交渉に向かおうとすると大臣の寇準が「30万を超えたらお前の首を斬る」と脅してきました。

蕭太后たちと交渉

曹利用は契丹の陣営に到着。聖宗 耶律文殊奴の母・蕭太后と会いました。

蕭太后は曹利用に一緒に食事をするよう招かれました。食事の後、曹利用たちは関南の地の割譲について話し合いましたが、曹利用は領土の割譲を拒否しました。曹利用は一旦、宋側に戻され何度か往復しました。

蕭太后は「関南の地を暮れた後普には感謝している。ところが後周が奪ったのだ。今、それを返すべきではないか」と言うと。

曹利用は「後晋が契丹に土地を与え、後周がそれを奪い返したが、それは宋の知るところではない。そこで毎年、金銀玉絹を軍費の補助に出そうと思うがいかがでしょうか?」

すると契丹の役人・高正始が「我らは土地を取り戻すため兵を率いて南下してきたのだ。 金、銀、玉、絹だけを持って帰るのでは我が国の恥になる」と言いました。

すると曹利用は「遼国のためによく考えてみてはいかがでしょうか。遼国があなたの言う通りにしたら我が国と戦争になります。遼国の民や国にとっても良いことではありません」

最終的に聖宗と蕭太后は金銭での決着を認め。
銀十万両、絹20十万匹(宋太宗、真宗の時代。絹一匹の値段は一千文銭)で合意しました。

この条約を「澶淵の盟」と言います。

真宗に報告、皇帝の態度は?

曹利用は帰って真宗に報告しました。

真宗が「いくらだ? 」と聞くと。曹利用は指を三本立てました。真宗は300万だと思い「多すぎる!」と叫びました。でも真宗は続けて「金額が多すぎるが、早く終わらせたのは良かった」と言いました。

曹利用が正確な額面を伝えて30万だとわかると真宗はホッとしたのでした。

真宗は喜んで曹利用に褒美を与え、枢密使、中書門下平章事になり、左僕射兼侍中も追加されました。

真宗の信頼を得て出世

嶺南の平定

その後、南方で反乱が起こりました。宜州知事の劉永規は横暴で残酷だったため守備隊の兵が反乱を起こし劉永規を殺害。さらに柳城県を攻撃、象州や広州でも略奪を行い嶺南は混乱しました。

真宗は曹利用を広南総督に任命。反乱鎮圧を命令しました。

曹利用は現地に向かうと反乱を鎮圧しました。

出世

大中祥符7(1014年)。枢密副使になりました。
その後、枢密使に昇進。中書門下平章事も兼ねました。

北宋は「二府三司制」を採用していました。
中書門が行政、枢密院が軍事、三司が財政を担当していました。

「枢密使」は枢密院の最高の地位(長官)。国防大臣です。
中書門下平章事は行政組織の高い地位です。

天禧2年(1018年)。輔佐大臣の丁謂と李迪が真宗の前で口論していました。
李迪は丁謂が奸臣だと批判。丁謂と曹利用は共謀していると言いました。

すると曹利用は「私は文章での才能では李迪には及ばない。だが李迪は危険で予測不可能な戦場で自分の命を危険にさらすことについては私に及ばないだろう」と言い返しました。

結局、李迪は罷免され。曹利用は検校太師兼太子少保になりました。

曹利用は大きな功績を残し真宗からは頼りにされていました。

真宗の時代。宋の朝廷でも契丹と澶淵の盟を結ぶことを屈辱に思う人はいましたが。少ない負担で交渉をまとめた曹利用には高い評価が与えられていました。それだけに、曹利用はその功績を自慢して態度も傲慢になっていきました。

契丹の使者を追い返す

あるとき。契丹の使者・蕭従順がやってきました。彼は扱いづらい人物で、病気を理由に宋の大使館に滞在していました。朝廷は何人もの使者をお見舞いに送りました。曹利用はそれを止めさせ、蕭従順を帰国させました。

 

仁宗の時代

劉太后派と対立

1022年。真宗が崩御。
仁宗が即位しました。仁宗は幼かったので劉太后の垂簾聴政が始まりました。

劉太后のまわりには宦官や外戚がいて。彼ら威張り散らして手に負えなくなってきました。

曹利用は国に貢献した重臣としてのプライドがあるので彼らの行為が許せません。劉太后が身内や親しい者を重用するたびに注意しました。

曹利用は宦官、外戚たちと対立しました。劉太后は宦官や外戚の話を信用して曹利用を嫌いになっていきました。劉太后は曹利用を名前や名字では呼ばずに「侍中」とだけ読んでいました。

曹利用は武人としては優れていましたが、学識は限られています。無骨者で気遣いのできる人ではありません。過去の手柄のために態度に横暴なところもありました。曹利用に味方する人も少なく、劉太后の勢力には抵抗できなくなっていきます。

 

曹利用の最期

天聖7年(1029年)正月25日。宦官の羅崇勳が犯罪を働きました。曹利用が羅崇勳の調査を命じられ罰しました。曹利用は長い時間、羅崇勳を叱り続けました。

甥の事件で連座

そのころたまたま、曹利用の甥の曹汭が犯罪をはたらいていると報告があり。羅崇勳が率先してその件を調査。すると曹利用の甥が酔っ払って黄色い服を着て人々に「万歳」と呼ばせているのがわかりました。「黄色い服」も「万歳」と呼ばれるのも皇帝だけに許される特権です。羅崇勳はこれを利用して曹利用に報復しました。曹汭は杖刑になって殴り殺されました。

曹利用は連座で左千牛衛将軍に降格になり、隨州知事(今湖北省隨州市)に異動になりました。

宦官たちに自害に追い込まれる

2月14日。景霊宮の役人から私的に借金したとして崇信軍節度副使に降格。房州(現在の湖北省房県)に異動が決まりました。家財を没収され、息子たちは二階級降格になり、親族十数名が職を奪われました。

宦官の楊懷敏が曹利用の護送を担当しました。羅崇勳はこの機会に復讐を企みました。曹利用を嫌っている宦官は大勢います。

曹利用は房州に到着。ところが楊懷敏たちは帰らずに曹利用を脅迫。曹利用を首吊り自殺に追い込みました。

楊懷敏は曹利用が急死したと報告しました。

頑固な曹利用が首を吊るとはいったい何をされたのでしょうか。虐待や酷い追い込まれ方をしたのかもしれません。

 

死後に名誉回復

曹利用の子や親族たちは鄧州への移住を希望。仁宗は彼らに同情して息子の曹淵を鄧州税監に任命して移住させました。

曹利用は態度に傲慢なところはあったものの死罪になるほどの犯罪はしていません。

明道2年(1033年)。劉太后の死後。
政治の権力をようやく手にした仁宗は曹利用の名誉を回復。罪人から節度兼侍中に戻し「太傅」を追加。家は息子たちに戻されました。

さらに仁宗は慰霊のための記念碑を作り自ら「旌功之碑(功をあらわすための記念碑)」と書き、曹利用から没収した財産を息子たちに帰しました。

 

テレビドラマ

孤城閉  2020年、中国 演:何正峰
大宋宮詞  2021年、中国 演:李彦明

 

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