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李用和・李宸妃(宋真宗の妃)の弟

宋 4.3 宋の臣下と人々

李用和は10世紀から11世紀の宋(北宋)の役人。

3代皇帝 真宗 趙恒の側室・李宸妃の弟です。

姉の李宸妃は4代皇帝 仁宗 趙禎の生母です。李用和は仁宗の叔父になります。

でも李宸妃は生前は生母と認められませんでした。趙禎は劉皇后の子供として育てられたので仁宗も母親の存在は知りませんでした。

劉太后の死後、仁宗は李宸妃が生母、李用和を叔父だと知りました。

李用和は貧しい生活をしていた庶民でしたが。劉太后によって下級武官として採用されました。劉太后の死後、仁宗によって様々な役職を与えられ出世します。

史実の李用和はどんな人物だったのか紹介します。

中国ドラマ「大宋宮詞」では李載豊(り・さいほう)の名前で登場します。

 

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李宸妃(宋真宗の妃)の弟・李用和

いつの時代の人?

生年月日:988年
没年月日:1050年

姓 :李(り)氏
名称:用和(ようわ)
字:審禮(しんほう)

国:宋(北宋)

父:李仁徳
母:章氏
妻:荣国夫人 王氏

姉:宸妃

子供:李璋、李瑋、李珣。

彼は3代 真宗~4代 仁宗時代の人物です

日本では平安時代になります。

 

おいたち

祖先は杭州の出身。

祖父の李延嗣は科挙に合格して呉越国の金華県で主簿をしていました。呉越国が宋に滅ぼされた後。

父の李仁徳は一家をひきつれて開封に移住しました。都の開封で紙銭作りをして生計をたてていました。紙銭作りは低賃金の労働で家は貧しく、李用和は子供の頃から紙銭作りをしていました。

姉の李氏は家系を助けるために宮中に入り宮女になりました。

真宗の時代

李氏は真宗 趙恒に気に入られました。

大中祥符3年(1010年)。姉の李氏(後の宸妃)が皇子 趙禎を出産。

ところが真宗は側室の劉氏は李氏から趙禎を取り上げ、劉氏の子供にしてしまいます。
章献皇后 劉氏は趙禎を自分の子供にしてしまいました。

李氏はそのまま後宮で暮らし、真宗の側室になりました。

父・李仁徳は正九品左班殿直になり、紙銭作りをする必要はなくなりました。

劉太后摂政政治の時代

乾興元年(1022年)。真宗が死去。仁宗 趙禎が即位しました。劉氏は皇太后になり。李氏は順容になって真宗の陵墓の墓守を命じられました。

劉太后は劉美と張懷徳に李氏の弟の李用和を探させ、役人に採用させました。

李用和は三班奉職になり。その後、右侍禁、合門祗候になりました。下級武官の役職です。

その後、権提點在京倉草場、考城県兵馬都監に昇進しました。

しかし公式的には姉の順容 李氏は仁宗 趙禎の生母とは発表されておらず、李用和も仁宗の叔父とは認められていません。

天聖10年(1032)。姉の順容 李氏が死去。「宸妃」の称号が与えられました。

李用和は禮賓副使(葬儀機を行う役人)として葬儀に出席しました。

仁宗親政の時代に待遇改善

明道2年(1033年)。劉太后が死去。
仁宗 趙禎の親政治が始まりました。仁宗は生母が李宸妃だったと知り、生母の生前に親孝行できなかったことを非常に悔みます。

仁宗は李用和が叔父だったことも知りました。そこで仁宗は李宸妃の唯一の兄弟の李用和とその一族を優遇します。

仁宗は李用和を崇儀使、賀州刺史、寧州刺史などに任命しました。

景祐3年(1036)。寧州刺史,澤州刺史,本州的團練使になりました。

それと同時に李用和の父祖三代にも官位を与えました。

景祐4年(1037)。慶州刺史、防禦使、鄜州観察使などを歴任。

当時、刺史に与えられた費用は私的に流用することが慣習になっていましたが。李用和はすべて公務のために使い称賛されました。

擢升為殿前都虞候、鄜州路馬步軍副都總管、鄜州觀察使,未行拜永清軍節度觀察留後。

康定元年(1040年)。侍衛親軍步軍馬軍副都指揮使に任命されました。

慶曆2年(1042)。建武軍節度使、殿前副都指揮使になりました。

李用和は歳をとって病気がちになると辞職。

すると仁宗は宣徽北院使、彰信軍節度使、同中書門下平章事、景霊宮使に任命しました。

仁宗 趙禎の李用和への重用ぶりはすさまじく次々と役職を与えました。

なにしろ仁宗 趙禎は李宸妃が生きている間は生母とは知らず、なにひとつ母として接することができませんでした。そうした後悔が李用和を大事にする理由になったようです。

李用和は名家ではありませんし科挙にも受かってません。庶民の出身です。他の重臣からは贔屓し過ぎではないかと不満も出ましたが仁宗 趙禎ははおかまいなしでした。

李用和自身は真面目に仕事をしていたようです。

皇祐2年(1050年)。李用和は病になって寝込みました。すると仁宗 趙禎は自らお見舞いに来ました。「侍中」の役職を与えました。「侍中」は長官クラスの高い地位の役職名ですが宋では実権はなく名誉職でした。

そして李用和が死亡。享年62歳。

仁宗は李用和に太師、中書令、隴西郡王の称号を贈り。朝廷の仕事を5日間休みました。

李用和には3人の息子がいました。それぞれ節度使などの要職を与えられました。

とくに次男の李瑋には仁宗の長女・福康公主を嫁がせています。

 

 

テレビドラマ

孤城閉  2021年、中国 演:董龍斌
 仁宗が即位後の話なので。仁宗が李用和に気を使って昇進させようとする様子が描かれています。

大宋宮詞 2021年、中国 演:強川 役名:李載豊
 李婉児の弟・李載豊として登場。「載豊」の名は字(通称)の「審禮」をアレンジしたもの。姉が趙禎を出産した後。不名誉な噂をたてられ冷宮送りになると姉の名誉を復活させようと訴えます。真宗、劉娥が無視。蘇義簡によって遠ざけられてしまいます。大宋宮詞は史実無視の滅茶苦茶な内容が多いので李用和も大幅にアレンジされています。

 

 

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