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曹評 ・慈聖皇后(宋仁宗の正室)の甥とは

宋 4.3 宋の臣下と人々

曹評(そう ひょう)は11世紀の北宋の政治家。

第4代皇帝 仁宗の正室・慈聖皇后(曹皇后)の甥です。

父・曹佾は慈聖皇后(曹皇后)の弟。

父の曹佾は皇后の弟(外戚)ということで高い地位にいましたが、地位を乱用することもなく温厚で真面目な働きが皇帝からも高く評価されていました。曹評も父と同様に役人になり朝廷の要職を歴任。哲宗、神宗の時代には重臣になり皇帝からも信頼されました。

とくに事件を起こすわけでも、歴史に残るような功績があるわけでもありませんが。皇帝から信頼される臣下として仕え、平穏な生涯を終えました。

ドラマ「孤城閉」では公主の趙徽柔に想いを寄せる人物として描かれ、重要な立場にある人物です。

史実の曹評はどんな人物だったのか紹介します。

 

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曹評の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明
享年:66歳

姓 :曹(そう)氏
名称:評(ひょう)
字:公正

国:宋(北宋)
父:曹佾(そう・いつ)
母:不明
妻:不明

子供:不明

日本では平安時代になります。

 

おいたち

生年は不明。
父は 曹佾(そう・いつ)
慈聖皇后(曹皇后)の弟。殿前都虞候などを務めています。
音楽と囲碁、弓が得意。温厚な人物でした。
道教の伝説では八仙(仙人)のひとり「曹国舅」のモデルになった人物です。
 
曹評は長男でした。
 
知審官西院、積遷温州防禦使などを務めています。
 
哲宗の元祐年間(1086~1094年)には提挙万寿観になりました。その後、哲宗が「先帝は慈聖皇后(曹皇后)の一族を厚遇していたので、彼が役職に付くのはふさわしい」と言い。枢密院、白為真定路の鈐轄(軍政官)になりました。
 
 
徽宗の時代。
相州観察使になりました。殿前都虞候、平海軍節度使、佑神観使などを歴任。
地方の軍を管理したり、査察したりする役が多かったようです。
 
4回、使者になって契丹に行ったことがあります。
12回、館伴使(使者の宿泊先の案内役)
弓矢が得意。契丹の使者と一緒に射的を行ったとき、曹評の上手さに契丹の使者も驚いたといいます。
 
曹評は朝廷内でも12年間働き、様々な制度の改善を行いました。
 
曹評は文学や歴史に興味を持ち、書道も得意でした。慈聖皇后(曹皇后)の命令で屏(飾るための文字、壁や衝立に貼ってある事が多い)を書いています。神宗からは褒美として玉帯を与えられました。
 
詳しい没年は不明ですが、享年は66歳だったといいます。
 
死後、「開府儀同三司」の称号が与えられました。
 
 
 

テレビドラマ

孤城閉 2020年、中国 演:丁嘉文

史実と同じ曹丹姝(曹皇后)の甥。

仁宗 趙禎の娘・趙徽柔(福康公主)のことが好き。徽柔と親しくなりますが。
仁宗によって趙徽柔が李瑋と結婚させられたため。趙徽柔とは引き離されます。

福康公主との関係は架空。

 

 

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