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王継恩・宋の太祖や太宗に信頼され、皇帝の即位に影響を与えた?宦官

宋 4.3 宋の臣下と人々

王継恩(おう・けいおん)は10世紀の北宋の宦官。

後漢、唐、明の時代には、宦官の独占権の問題がより深刻でしたが、北宋時代には宦官も比較的大きな権力を持っていました。彼らは宮中や後宮で仕えるだけでなく、政治に干渉したり、軍を指揮したりしました。

中には歴史に影響を与えた宦官もいます。

北宋の王継恩もそのひとりです。

王継恩は北宋の太祖 趙匡胤、太宗 趙光義の信頼を得ていました。宮中の仕事だけでなく軍を指揮することもありました。

太祖 趙匡胤の死後、宋皇后の命令を無視して趙光義を呼びに行き、太宗 趙光義の即位に貢献しました。太宗の死後は李皇后とともに趙元佐を次の皇帝にしようとしましたが失敗しています。

史実の王継恩はどんな人物だったのか紹介します。

 

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王継恩の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:999年

姓 :王(おう)氏
名称:徳均→継恩(けいおん)

国:後周→北宋

父:不明
母:不明

彼は後周から北宋 3代皇帝真宗時代の宦官です。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

陝州(現在の中国河南省三門峽)出身で。生年、両親は不明。

幼いころ「張」という人の養子になって「徳均」と名付けられました。張徳均(王継恩)は後周時代に宦官になり世宗 柴栄の宮中で働いていました。

 

北宋の建国後

960年。宗太祖 趙匡胤が即位。

張徳均(王継恩)は太祖とともに軍に同行。南唐との戦いで軍を率いました。

開宝年間(968-976)に一族の復興を願い出たところ宋の太祖 趙匡胤から許しが出て王姓を名乗り。「継恩」の名を与えられました。

太宗の共犯者

976年。太祖 趙匡胤が死去。孝章宋皇后は王継恩に命令して皇子 趙徳芳を呼びにいかせました。ところが王継恩は趙徳芳を呼びにいかずに趙光義を呼びに行き、趙光義が2代皇帝に即位しました。

太平興國2年(977年)。宋太祖は永昌陵に葬られ。王継恩は陵墓の管理を任されたました。王継恩は太宗から大きな信頼を受け内侍行首になりました。

太平興國3年(977年)。王継恩は宮中に戻ってきました。河北刺史になって軍の武具の管理を行いました。

雍熙3年(986年)。太宗は遼(契丹)攻撃を命令。3つの軍を編成して遼を攻めさせました。

このとき王継恩は易州に向かうように命令をうけ食糧や物資の補給を担当。やがて天雄軍都監になりました。

端拱初年(988年)。王継恩は易州團練使になり。軍の指揮をとりました。

997年。四川で李順(り・じゅん)が挙兵。成都を占領して大蜀を建国しました。

王継恩は剣南、両川招安使に任命され成都を攻略、李順を捕らえました。このとき3万の兵を殺害しました。

王継恩は順州路防禦使に昇進しました。

太宗の後継者を立てようとして失敗

太宗 皇帝の9人の息子のうち長男の趙元佐は、頭がよくて誰からも愛されていました。ところが 叔父の秦王頂美が謀反の疑いをかけられ粛清され。趙元佐は精神に異常をきたして問題行動を起こし。後継者から外されました。

その後。太宗は三男の元侃を皇太子にしました。

至道3年(997年)。太宗が重病にかかり、宮中では新しい皇帝を求める争いが始りました。

李皇后と王継恩は趙元侃を嫌っていたので、王継恩は太宗の病気に乗じて、参知政事 李昌齢、殿前都指揮使 李継勳、知制誥胡旦と共謀し、李后と一緒に元佐を次の工程にしようと企みました。

3月29日、宰相の呂端が宮中にやってきたとき、太宗の周りには王継恩と李皇后だけがいて、皇太子がいないのに気づきました。呂端は王継恩が何かを企むのではないかと心配しました。太宗が死去。李皇后は王継恩に呂端を呼びにいかせました。

呂端は王継恩を騙して書庫に閉じ込めて李皇后を説得。趙元侃が即位。3代皇帝 真宗が誕生しました。

真宗の即位後。王継恩は右監門衛将軍に降格。淳州に左遷されました。

咸平2年(999年)。淳州で死亡しました。

 

 

テレビドラマ

大宋宮詞 2021年、中国 演:李大光

 

 

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