李芳蕃(イ・バンボン)は李氏朝鮮の建国者 李成桂(イ・ソンゲ)の七男。
母は李成桂の2人目の妻・康氏。
父・李成桂は韓氏の息子たちとともに高麗王朝を打倒して朝鮮王朝を建国しました。
李芳蕃たち康氏の子どもたちはまだ幼かったので建国には協力していません。
でも朝鮮建国後、母の康氏が王妃になったことから、世子(王位後継者)に内定されます。最終的には重臣の反対もあり、弟の李芳碩が世子になりました。
これが李芳遠(イ・バンウォン)たち韓氏の息子の怒りを買い殺害されてしまいます。
18歳の若さでこの世を去りました。
史実の李芳蕃(イ・バンボン)はどのような生涯を送ったのか紹介します。
李芳蕃(イ・バンボン)の史実
プロフィール
生没年
生年月日:洪武14年(1381年)
没年月日:洪武31年(1398年)
名前
名前:李(イ、り)
称号:芳蕃(バンボン、ほうばん)
本貫:全州李氏
家族
父:朝鮮太祖 李成桂
母:神徳王后 康氏
妻:三韓国大夫人 王氏
養子:李璵
彼が生きたのは高麗末期から朝鮮王朝(李氏朝鮮)の太祖の時代です。
日本では室町時代の人になります。
李芳蕃(イ・バンボン)の生涯
生まれは高麗時代
高麗の禑王7年(1381年、洪武14年)に誕生。
父は高麗の将軍・李成桂(イ・ソンゲ)
後の朝鮮初代国王 太祖
母は高麗の名家出身の康(カン)氏。
後の初代王妃 神徳王后
高麗王族の娘と結婚
禑王の時代。
1387年。6歳のころ定陽君 王祐の娘と結婚しました。
王祐は高麗の王族。定昌君(後の恭譲王)の兄です。
1388年。李成桂が威化島回軍。禑王が廃されました。
恭譲王の時代
1389年。李成桂たちによって昌王が廃され、定昌君(恭譲王)が即位しました。
定昌君は直系からは離れた王族です。でも定昌君の兄・定陽君の娘が李芳蕃の妻。定昌君と李成桂は親戚になるので選ばれたといわれます。
1390年。父・李成桂の要請により高麗朝廷から高公佐郎の職位を受けました。
朝鮮時代:世子内定から最後まで
1392年。父・李成桂が朝鮮国王になりました。
1392年(太祖1)7月。撫安君の称号が与えられました。
義興親軍衛節制使に任命されます。
世子に内定?でも却下
太祖2年(1393)。13歳のときに左軍節制使に任命されました。
このころ。新しくできたばかりの朝鮮の世子を誰にするか問題になり。一時期、父の太祖 李成桂(イソンゲ)と母の中殿康氏の希望で世子に内定しました。
ところが趙浚(チョ・ジュン)、鄭道伝(チョン・ドジョン)などの重臣たちは彼を「性格が狂暴で軽率だ」と反対します。
高麗王族の娘と結婚していたのも反対された理由かもしれません。
結局、世子は同母弟の李芳碩(イ・バンソク)に決まりました。
第1次王子の乱
太祖7年(1398)。異母兄の李芳遠(イ・バンウォン)が主導して反乱を起こしました。
李芳遠は李芳蕃にも反乱に参加するよう勧めましたが、芳蕃は断りました。
しかし父親などに芳遠に誘われたことを教えることもありませんでした。中立を保ったわけです。
李芳遠らは鄭道傳や南誾たち重臣を殺害。世子 李芳碩を廃位させます。
李芳蕃の最期
ところが乱が終わると芳蕃は兄・芳碩とともに城門の外に追い出され流刑地に送られます。
二人の王子は道中殺害されました。享年18歳。
李芳遠の誘いに乗らなかったので「敵」と判断されたのかも知れません。
でも、李芳遠に味方したとしてもいずれ何らかの理由をつけて粛清の対象になったでしょう。
死後の待遇
遺体は京畿道広州郡に安置され、すぐに追成公の爵位に追贈された。
太宗の即位後、章恵公・恭順君の諡号が与えられました。
1437年(世宗19年)。世宗の五男・光平大君が彼の後嗣に決まり。祭祀を行いました。
1680年(粛宗6年)。大君の爵位を追贈され「撫安大君」になりました。
テレビドラマの李芳蕃(イバンボン)
鄭道伝
KBS1、2014年、俳優:キム・スンチャン、イ・ウジュ
六龍が飛ぶ
2015年、SBS 演:パク・シジン、キム・イェジュン
太宗イ・バンウォン
KBS1、2021年、 演:オ・スンジュン、ホン・ドンヨン
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