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李宗城(イ・ジョンソン)はイ・ソン(思悼世子)を支えた重臣

朝鮮重臣 5 李氏朝鮮の重臣

秘密の扉に登場し、イ・ソン(思悼世子)を支えるイ・ジョンソンは実在の人物。

李宗城(イ・ジョンソン)は英祖の時代に領議政まで務めた重臣です。重臣たちが少論派と老論派に分かれて激しく対立していた時代。少論派でありながらも老論派とも親しくしてバランスの取れた政治を目指しました。イ・ソン(思悼世子)の政治を支える重要な重臣でした。

史実の李宗城(イ・ジョンソン)どんな人物だったのか紹介します。

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李宗城(イ・ジョンソン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1692年
没年月日:1759年

名前:李宗城(イ・ジョンソン)
本貫:慶州
雅号:五千
父:李台佐

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に21代英祖の時代の重臣です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち 

父は、粛宗から英祖の時代に仕えた李台佐(イ・テジュワ)。英祖時代には左議政になったこともあります。

李宗城(イ・ジョンソン)は

粛宗時代に儒学生になりました。

英祖時代の1727年。科挙の文科に合格。役人になりました。

1728年。慶尚道の暗行御史となりました。民を守るために働いたといいます。

その後、吏曹判書・刑曹判書・大司憲・左議政・領議政などを務めました。

党派は少論に所属していましたが、根っからの少論ではなく老論派とも親しくしていました。バランス間感覚のいい人物だったようです。

儒学(朱子学)に詳しく、文学にも優れていました。

李宗城(イ・ジョンソン)は英祖の次男・思悼世子と大変親しい人物でした。

1652年。英祖が病になったため、思悼世子が代理聴政を行いました。

李宗城(イ・ジョンソン)は少論の重臣・趙顕命らとともに思悼世子を支えました。

当時は少論と老論の間で派閥争いが激しかった時代。英祖から政治を任された思悼世子は英祖からの重圧や重臣たちの派閥争いに巻き込まれ精神的に追い詰められていきます。

李宗城(イ・ジョンソン)は親身になって思悼世子の面倒をよく見ていたといいます。

思悼世子はのちに奇行がめだつようになるのですが、李宗城(イ・ジョンソン)が生きている間は思悼世子も無茶なことはしなかったようです。

若い思悼世子にとっては、頼りになる年長者がいたのでなんとかやってこれたのでしょう。バランス感覚に優れた李宗城は少論と老論の対立の中でうまく思悼世子を支えました。しかし李宗城の死後、お互いの派閥の利益を優先する重臣たちばかりになると思悼世子を親身になって支えるものはいなくなりました。

1759年。李宗城(イ・ジョンソン)は67歳で死亡します。しかし頼る人物を失った思悼世子は次第に精神的に不安定になり、おかしな行動をとるようになりました。英祖の怒りをかった思悼世子は1762年に死に追い込まれます。

テレビドラマ

秘密の扉 2014 SBS 演:チョン・グクファン

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