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成宗(ソンジョン王):朝鮮王朝の完成者の生涯と功績、廃妃尹氏との悲劇

朝鮮 成宗 1 李氏朝鮮の国王

成宗(ソンジョン)は朝鮮王朝の第9代国王です。

朝鮮王朝の多くの王の中でも特に重要な存在とされているのが第9代国王の成宗(ソンジョン)です。

彼は若くして即位し国家の形を確立した「完成者」とも言われます。特に国家の根本法典である『経国大典』の完成は彼の治世の大きな功績です。そのため「宗」の称号が付いているのはそのためです。

成宗(ソンジョン)とはいったいどのような人物だったのでしょうか?

この記事では成宗の功績や彼を取り巻く人間関係。そしてその生涯の光と影まで彼の治世を詳しく紹介します。

この王について深く知ることで朝鮮王朝の歴史がもっと面白くなりますよ。

 

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成宗(ソンジョン王)とはどんな人物?

朝鮮王朝の基盤を確立した「完成者」

成宗(ソンジョン)は朝鮮王朝第9代国王として約25年間国を治めました。彼の時代は朝鮮王朝が最も安定し、さまざまな制度が整備された時期です。そのため彼は「朝鮮王朝の完成者」と呼ばれています。

成宗は政治や文化法制度のあらゆる面で国の基盤を固めました。例えば国家の法律をまとめた『経国大典』を完成させ、国の統治がより安定しました。また学問、特に儒教を奨励しました。

また、力を持ちすぎた勲旧勢力を抑えるために士林勢力を呼び寄せ、多くの儒学者を採用しました。彼ら士林勢力が後の東人(南と北に分裂)・西人派となり朝廷を動かす存在となります。

成宗の時代は朝鮮王朝の性格が決まった時期といえるでしょう。そしてそれを率先して行った王が成宗でもあるのです。

 

成宗のプロフィール

  • 名前:李娎(イ・ヒョル)
  • 廟号:成宗(ソンジョンせいそう)
  • 王子時代の称号:乽山君(チャルサングン)
  • 生年月日:1457年8月19日(旧暦7月30日)
  • 没年月日:1495年1月20日(旧暦1494年12月24日)
  • 享年:39(数え歳)
  • 在位:1469年12月31日(旧暦11月28日)~1495年1月20日(旧暦1494年12月24日)
  • 陵墓:宣陵  

日本では室町時代。応仁の乱終結~戦国時代初期にあたります。
明朝では成化帝~弘治帝の時代にあたります。

 

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成宗の家族と家系図

まずは成宗を取り巻く重要な人物たちをご紹介しましょう。彼の人生に大きな影響を与えた人々は一体どんな方々だったのでしょうか?

家族

  • 祖父:世祖(7代国王)
  • 父:懿敬世子(徳宗に追尊)
  • 母:昭恵王后(仁粋大妃)
  • 王后・王配:恭恵王后韓氏・廃妃尹氏・貞顕王后尹氏

 

祖父・世祖(セジョ)

成宗の祖父にあたる世祖(セジョ)は朝鮮王朝の第7代国王。即位前は首陽大君(スヤンテグン)と呼ばれました。彼はクーデターによって王位に就き非常に強力なリーダーシップで国の軍事力や行政制度を整備しました。でもその強引な政治手法には反発する人も少なくなかったようです。

しかしこの世祖の治世は後の成宗の政治に大きな影響を与え士林派(サリムパ)が登用されるきっかけの一つにもなったと言われています。

父・懿敬世子(ウィギョンセジャ)

成宗の父親は懿敬世子(ウィギョンセジャ)。世祖の長男です。ところが若くして病で亡くなってしまったため王位に就くことはできませんでした。成宗が即位した後にこの懿敬世子の位牌を宗廟(先祖の位牌を祀る場所)に祀るべきかどうかが大きな政治問題になりました。

最終的には「徳宗(トクチョン)」として追尊(亡くなった人に位を贈ること)されることになりました。これは成宗が王として正統性があるかどうかを主張するために重要なことだったようです。

母・昭恵王后(ソヘワンフ)/仁粋大妃(インステビ)

成宗の母親は昭恵王后(ソヘワンフ)。「仁粋大妃(インステビ)」という呼び方の方が有名です。

彼女は政治的な才能にとても優れていました。成宗がまだ幼くして即位した時には、祖母の貞熹王后(チョンヒワンフ)と共に息子の摂政をしっかりと支えました。さらに儒教の教えを大切にして朝鮮王朝の女性の規範を示した『内訓(ネイルン)』という教科書を編纂したことでも知られています。

 

成宗の家系図

成宗の家系を理解すると彼の王位継承の背景やその後の政治に深く関わる人物たちの関係がよく分かります。

朝鮮王朝 成宗(ソンジョン)の家系図

朝鮮王朝 成宗(ソンジョン)の家系図

 

若き国王の誕生! 成宗の生い立ちと王位継承の秘密

さてそんな家族に囲まれて育った成宗は、いったいどのようにして国王になったのでしょうか?

世祖の孫として生まれた成宗

成宗(ソンジョン)は1457年旧暦7月30日。第7代国王 世祖の長男 懿敬世子の次男として生まれました。幼いころから頭がよく非常に落ち着いていたと伝えられています。乽山君(チャルサングン)の称号が与えられました。

懿敬世子が早くに亡くなってしまったため、母の世子嬪(セジャビン)韓氏は二人の息子・月山君、乽山君と共に宮殿を出て私邸で暮らすことにしました。でも世祖は母子を憐れんで慶運宮(現在の徳壽宮)を建設、母子はそこで暮らしました。

この頃から彼は自分の内面を安易に表に出さなかったと言います。ずいぶん繊細なな性格だったのでしょうか?

ところがこの性格が後に韓明澮(ハン・ミョンフェ)申叔舟(シン・スクチュ)といった重臣たちから高く評価される要因となったようです。

また韓明澮の娘と結婚したのも彼の王位継承に有利に働きました。

成宗が幼い頃に暮らした徳壽宮の現在の様子

徳壽宮

ころがりこんだ王位

1469年。世祖のあとを継いだ 睿宗(イェジョン)は即位からわずか14ヶ月で他界してしまいます。

当時、睿宗の嫡男はまだ幼く成宗の兄である月山大君(ウォルサンテグン)は病弱でした。そのため祖母 貞熹王后(チョンヒワンフ)の強い意思によって成宗はなんと13歳という若さで即位することになったのです!

これには成宗の妻が韓明澮の娘だったのも大きいです。彼には韓明澮の後押しがあったのです。

 

垂簾聴政と院相制が政治を動かす

即位当初の7年間は祖母の慈聖大王大妃(チャソンテワンテビ)尹氏による垂簾聴政と重臣たちによる院相制によって政治が行われました。

院相制(ウォンサンジェ)
王が幼い時や何らかの理由で王が政治を行えない時に宰相たちが承政院に集まって政務を行うこと。

 

この体勢は絶妙なバランスで成り立っていましたが。勲旧派の勢いは強く、王が一人で対抗するには大きすぎる力でした。

成宗親政前の政治体制の模式図
王(成宗)と垂簾聴政と院相制の三角関係を示す図

垂簾聴政と院相制

 

 

親政開始

1476年。成宗が20歳になると慈聖大王大妃はあっさり垂簾聴政を止めました。彼女は権力に執着する人物ではないのです。

成宗は元相制を廃止。自ら決済権を取り戻しました。

元相制はなくなっても世祖以来の重臣たち勲旧派は朝廷に残っています。

そこで世祖時代からあった三司(司憲府・司諫院・弘文館)の権限を大幅強化。重臣たちに対抗させました。

また成宗は自分の味方になる勢力として祖父の世祖に倣い金宗直(キム・ジョンジク)の門下生である士林派(サリムパ)を積極的に採用しました。

成宗親政後の政治体制の模式図
王(成宗)と三司と勲旧派の三角関係を示す図

三司と勲旧派

成宗は全面的に三司を支持。三司に勲旧派を批判させ。彼らの力を抑え込みました。士林派は王の支持勢力となり三司のメンバーにもなります。

 

成宗の偉大な功績!朝鮮王朝の「完成者」たる所以

成宗が「朝鮮王朝の完成者」と呼ばれるのは一体なぜなのでしょうか?彼の治世には後世にまで語り継がれるような素晴らしい功績がたくさんあるのです。

国家の根本法典『経国大典』の完成と施行

成宗の治世における最大の功績は間違いなく国家の根本法典である『経国大典』を完成させ施行したことでしょう。

『経国大典』は世祖の功績として語られがちですが実際に完成して、運用を開始したのは成宗の時代です。

この法典は朝鮮王朝のすべての法律や制度を体系的にまとめたもの。国の統治を安定させ国の組織や制度、法律や刑罰をはっきり決めました。

驚くべきことに幾度か改正はありましたが、『経国大典』は朝鮮王朝が滅亡するまで使われ続けました。成宗の時代が法治国家としての朝鮮が完成したと言えるのではないでしょうか。

 

人材育成と文化・学術の振興

成宗は人材育成のため弘文館(ホンムングァン)を設置して学者の育成に努め、優れた才能を持つ文官を自宅で読書に専念させる湖堂制度(ホダンジェド)も実施しました。

読書と言っても我々の想像する読書と違い、儒教社会で読書といえば「儒教の経典を読んで暗記・解釈すること」です。

また『東国通鑑』や『東国輿地勝覧』など多くの歴史書や地理書を編纂・刊行させました。これらの書物は朝鮮王朝の歴史や文化を後世に伝える貴重な資料となります。

こうして世宗・世祖から続く政策を引き継ぎ。制度を完成させ。文化面では大きく発展させました。

世宗以来の伝統として仏教を僧侶の活動を制限して多くの寺院を閉鎖。儒教を普及させる崇儒抑仏政策を徹底しました。

 

光と影:成宗と廃妃尹氏の悲劇

輝かしい功績の裏には成宗の生涯に暗い影を落とす悲劇もありました。それが彼の2番目の王妃である廃妃尹氏(ペビユンシ)を巡る出来事です。

廃妃尹氏を巡る悲劇

成宗には3人の王妃がいました。最初の王妃は恭恵王后韓氏(コンヘワンフ ハンし)でしたが、若くして亡くなってしまいます。

その後、側室の淑儀尹氏(スクウィ ユンし)が王妃に昇格したのですが彼女の気性の激しさや嫉妬が問題となってしまったのです。

成宗の母 仁粋大妃(インステビ)との対立や宮中のトラブルが続き、最終的には王妃の位を剥奪され私邸に追放されてしまいます。

さらにその後両司と呼ばれる重臣たちの強い弾劾を受け成宗は廃妃尹氏に死薬を賜ることになったのです。

この事件は、成宗の時代で最も語られることの多い悲劇。ドラマ化の機会も多いエピソードとなっています。

この出来事は廃妃尹氏の息子 燕山君(ヨンサングン)に大きな影響を与え、燕山君が暴君になる理由のひとつともなりました。

廃妃尹氏の賜死後は別の側室だった淑儀尹氏が新しい王妃となります。それが貞顕王后(チョンヒョンワンフ)尹氏で、中宗(チュンジョン)の生母となります。

成宗の晩年と死後:残された影響

輝かしい功績と悲しい出来事を経験した成宗はその晩年にどのような統治を行いそして彼の死後には何が起こったのでしょうか?

晩年の統治と突然の死

成宗(ソンジョン)は晩年まで精力的に政治を執り行いました。

しかしこの頃から肺結核や喘息などの病を患うようになったと言われています。

病に苦しみながらも国政に尽力しましたが1495年1月20日(旧暦1494年12月24日)に39歳という若さで崩御してしまいます。彼の陵は宣陵(ソンルン)にあり現在のソウル特別市江南区に安置されています。

次の王には長男・燕山君がなりました。

廃妃尹氏の遺言とその後の歴史

成宗は廃妃尹氏の賜死事件について自身の死後100年間は言及しないよう遺言を残したと言われています。

しかしこの遺言は守られることはありませんでした。後に任士洪(イム・サホン)がこのことを話してしまい燕山君(ヨンサングン)が激怒してしまうのです。

これにより廃妃尹氏の死に関わった臣下の大規模な粛清が起きてしまいます。

また三司の力が強くなりすぎ、政治に悪影響が出るようになりました。本来は理性的な批判を行うべき三司が感情的な批判を繰り返したり、些細なことをあげつらって政治を停滞させるという弊害も起きています。

ドラマで見る成宗:史実との比較

歴史ドラマでの描かれ方

韓国ドラマでは成宗(ソンジョン)の登場回数はあまり多くはありませんが。それでも何度か登場し特に廃妃尹氏との関係がドラマチックに描かれます。ドラマの中の成宗は儒教の教えに縛られたり優柔不断な姿で描かれることもあります。燕山君の横暴のきっかけとしても描かれたりします。彼の王妃や側室たちとの人間関係も注目のポイントです。

主な出演ドラマは以下の通りです。

  • 王と私 SBS, 2007年 演:コ・ジュウォン子役:ユ・スンホ
  • インス大妃 JTBC, 2012年 演:ペク・ソンヒョン子役:チェ・ウォンホンイ・テウ
  • 逆賊-民の英雄 ホン・ギルドン- MBC, 2017年 演:チェ・ムソン
  • 七日の王妃 KBS, 2017年 演:キム・ジョンハク

 

まとめ

成宗は朝鮮 第9代国王です。彼は約25年間の治世で国の基盤を固め「完成者」と称されるにふさわしい功績を残しました。

最大の業績といえる国家法典『経国大典』の完成・施行は朝鮮王朝が法で国を治める基礎となりました。学問と文化を奨励し人材育成に力を注ぎ、後の朝鮮王朝の発展に大きく貢献しました。

士林を採用して勲旧派の対抗勢力にしたのは大きいですが、後の時代には士林同士の争いや強くなりすぎた三司の弊害もありました。

一方で、彼の治世には廃妃尹氏を巡る悲劇もありました。この出来事が息子の燕山君に与えた影響は大きかったといえます。

でもそうした「光と影」も含めて、成宗は朝鮮王朝の性格を決定づけた重要な国王だったと言えますね。

 

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