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朝鮮 孝宗(鳳林大君)・清への復讐に燃える朝鮮王

1 李氏朝鮮の国王

李氏朝鮮王朝の第17代目の国王・孝宗。ドラマでは鳳林大君(ポンリムテグン)といった方が馴染み深いかもしれません。

歴史上は清との戦い「北伐」を計画した王として知られています。清への恨みを晴らすという意味では肯定的な意見もある一方で、無茶な負担をさせたという評価もあります。

ドラマでは兄・昭顕世子と仲のいい兄弟と描かれます。実際も兄とは仲が良かったようです。しかし考え方はかなり違いました。

史実の孝宗はどんな人物だったのか紹介します。

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孝宗(ヒョンジョン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1619年7月3日
没年月日:1659年6月23日

名前:李淏(イ・ホ)
称号:孝宗(ヒョンジョン)
即位前:鳳林大君(ポンリムテグン)
父:仁祖
母:仁烈王后
妻:仁宣王后張氏

子供

彼が生きたのは1619年~1659年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の17代国王です。

日本では江戸時代初期になります。

おいたち

 16代国王仁祖の次男です。

1619年。李淏(イ・ホ)は綾陽君(ヌンヤングン)の次男として生まれました。

当時は、綾陽君の従兄弟・光海君が国王になっていました。李淏(イ・ホ)は権力とは関係のない王族の一人として生きるかに思われました。

1623年。父・綾陽君がクーデターで光海君を倒し国王になりました。

李淏(イ・ホ)は鳳林大君(ポンリムテグンとよばれるようになります)

丙子胡乱(丙子の役)

1636年。清との戦争がおこります。丙子の役、韓国では丙子胡乱といます。

16世紀頃の李氏朝鮮は大きな戦力はもっていませんでした。さらに日本の朝鮮出兵で国力が低下してまともに戦える状態ではありませんでした。それでも仁祖は清に逆らったため清の侵略を受けます。朝鮮は戦いに負けました。

仁祖は清の皇帝・ホンタイジに跪いて服従します。これを「三田渡の盟約」といいますが韓国では「三田渡の屈辱」と呼びます。

清での人質時代

鳳林大君夫妻は人質として清で暮らしました。兄・昭顕世子夫妻も一緒です。清の瀋陽で8年間くらしました。

昭顕世子と鳳林大君は仲のよい兄弟でした。昭顕世子が遠征に出るときも付き従いました。しかし戦に出るのは清のためではなく兄のためでした。

鳳林大君は兄との仲は良かったものの、兄の清に対する考え方は理解できませんでした。

清に来たとき昭顕世子は25歳でした。彼は現実主義者でした。清が大国なのは間違いないことです。清の王族や将軍たちと交流を深め文化を積極的に吸収しようとしました。

17歳の鳳林大君は清を蛮族だと考えました。血気盛んな鳳林大君はいつか復讐してやろうと考え、清の人々との接触をできるだけ避けていました。

鳳林大君は清で暮らしている間も密かに清への復讐と朝鮮人人質の開放を考え、清を訪れる朝鮮の商人、外交官にも話していました。鳳林大君の考えを聞いた彼らは仁祖に鳳林大君が清へ復讐を考えていることを伝えました。

1645年。清が明を倒しました。兄の昭顕世子は朝鮮に帰ります。

1645年4月。昭顕世子は帰国後2ヶ月で亡くなりました。仁祖は次男の鳳林大君を世子にしました。本来なら昭顕世子の子供が世孫になるはずです。でも仁祖は鳳林大君を後継者にしました。そればかりか、昭顕世子の妻・姜氏とその兄弟を処刑、子どもたちも流刑にしました。

おそらく清に反感を持つ仁祖は考えの似ている鳳林大君を後継者にしようと考えていたのでしょう。

世子となった鳳林大君

1645年5月。鳳林大君は急遽帰国します。
清に復讐を考える仁祖に全面的に賛成します。仁祖の寵愛を受ける貴人趙氏やその子らとも親しくしました。

1645年6月。鳳林大君は世子になりました。重臣たちの多くは昭顕世子の息子を世孫にすることを主張しましたが仁祖は鳳林大君を世子にしました。

国王・孝宗の誕生

1649年。仁祖の死後、鳳林大君は即位しました。諡は孝宗です。

まず仁祖時代の重臣・金自點(キム・ジャジョム)に対抗するため、新しい家臣を加えました。

大君時代の守役だった宋時烈と宋浚吉(ソン・ジュンギル)を採用。宋時烈らの意見を取り入れ、仁祖時代の家臣の中からは金集(キム・ジプ)、金尙憲(キム・サンホン)、安邦俊などを重臣にとりたてました。主に清への復讐を考える強硬派の人々です。

清との戦いをめざす北伐計画

孝宗は「北伐」を計画。清と戦うための準備を始めます。

1650年。北伐に反対するキム・ジャジョムを罷免して追放しました。しかしキム・ジャジョムは流刑先で清に内通して北伐計画を清にばらしてしまいます。

1651年。清の摂政・ドルゴンが死亡。北伐が現実的になってきたと思えました。

1651年12月。貴人趙氏が孝宗と仁宣王后に呪いをかける事件が発生。この事件をきっかけにして貴人趙氏とキム・ジャジョムら清との戦いに反対する重臣を処刑しました。

1652年。軍隊を拡大、騎兵隊を増やし、漢陽(ソウル)の防御力を高めました。鉄砲を増やします。台風で遭難したオランダ人を通して新型の銃も取り入れました。

1654年と1658年に清とロシアの戦いに軍隊を送りました。黒竜江を超えて南に攻めてきたロシアと戦うために清は朝鮮軍に援軍を求めてきました。このとき朝鮮兵の持つ銃が役だったといいますが、朝鮮軍も壊滅的な被害を受けます。

すでに清は明を倒して巨大な国になっていました。疲弊した朝鮮が武力を増やしたところで太刀打ちできる相手ではなかったのです。結局、清を倒すために強化した軍事力は清に利用されてしまいました。

一方で孝宗は本気で清を倒すつもりはなかったという説もあります。清と戦って負けて国民が疲弊している中で、敵を外につくることで国民の不満を外に向けるというやり方です。いずれにしても軍事力の強化は孝宗が亡くなると中止され経済優先に変わります。

国の立て直し

国が疲弊している中での軍備拡張は大きな負担になりました。重臣からは経済政策を重視すべきとの意見も出ました。

孝宗は農業の生産を高めるため大同法を広めます。大同法は光海君が始めた農民に対する減税でしたが、仁祖の時代に廃止になってました。孝宗はそれを復活させました。しかし北伐計画が進むと増税を行います。農民を兵に駆り出して訓練したり、城壁の工事をしたりしました。そのため農民たちは不満を高めていきました。

無理な負担と増税は復興を遅らせました。本格的な復興は息子の顕宗の時代になってしまいます。

姜氏名誉回復問題

孝宗は即位後から兄・昭顕世子の死について話題にすることを禁止していました。

1654年。キムホンウクらが島流しになっていた昭顕世子の息子・ソクチョルの釈放を訴えました。重臣の中には訴えを問題にするものもいました。孝宗は釈放はしない一方で、キムホンウクを処罰することもしませんでした。

しかしその後も嬪宮姜氏の名誉回復を求めたため、キムホンウクを拷問にかけて処刑しました。

 姜氏についてはこちら
 ・嬪宮・姜氏(カン氏)・ひどすぎる仕打ちを受けた昭顕世子の妻

孝宗は兄や姜氏の死を望んでいたわけではないと思います。しかし自分が不透明な経緯で王になったのではないかというコンプレックスを持っていたのではないかといわれています。兄の息子の存在や姜氏の名誉回復は孝宗の正当性を脅かす可能性がありました。いきさつはどうあれ、王になった以上は認めたくはなかったのかもしれません。

突然の死

1659年。過労で政務をとることができなくなりました。治療中に誤って針が刺さったままとなり出血が止まらなくなりました。その後亡くなります。41歳でした。不自然な死なので暗殺説もささやかれます。

まとめ

仁祖までの朝鮮は国を守る軍隊が少なすぎて滅亡の危機に陥りました。しかし孝宗は逆に大国を倒すという大きすぎる目標を建ててしまいました。孝宗は在位期間中、経済の立て直しをしつつも軍事力の強化を優先させました。壊滅状態だった農地をあるていど復活させた功績はありますが、増えた収入は軍事費に使いました。大国に逆らおうとした勇敢な国王ということで好意的に描いているドラマも多いです。

テレビドラマ

大明 KBS1、1981年 演:ギムフンギ
南漢山城 MBC、1986年 演:ギムフンギ
馬医 MBC、2012年 演:チェドクムン
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC、2013年 演:キム・ジュヨン
華政 MBC、2015年 演:イ・ミンホ

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