「院相(ウォンサン)」とは李氏朝鮮時代に、王の代わりに政治を行った大臣のことです。
韓国ドラマ「朝鮮弁護士 カン・ハンス」などの時代劇を観ていると「院相」が登場することがあります。「なんだかすごい権力者みたいだけど実際に何をする人だったのだろう?」と疑問に思った方もいるでしょう。
院相とは朝鮮王朝に国王が幼いなどの理由で政務を執るの難しい場合に重臣たちが国政を代行した臨時の役職でした。
この記事では、ドラマでの描かれ方と史実の院相の役割を詳しく解説。院相について深く理解すると、ドラマや歴史がもっと楽しめますよ。
朝鮮王朝の「院相」とは?
院相とは、朝鮮王朝で国王が何らかの理由で政務を執ることが難しいときに置かれた臨時の役職でした。
これは正式な官職名ではありません。あくまで国王の権限を一時的に代行する臨時の役目です。
とはいえ、王権の空白を埋め国政を安定させるために設けられたとても重要な役割だったのです。

景福宮の王座
「院相」はどんな時に置かれたの?
院相は主に幼い王が即位した際に設置されました。王がまだ子供で王に十分な知識も判断力がなく政治の判断が難しい場合は大人が代わりに判断する必要があります。
また、成人した王でも病気で政務を執れない場合もあります。
そんなときには「院相」が置かれました。
朝鮮の国王には多くの権限が集中していました。そのため王が長期間仕事を休むと国の政治が混乱してしまう可能性があるのです。そのため経験豊富な重臣が臨時の権限を与えられ国政を担当したのです。
「摂政」や「垂簾聴政」との違いを解説
「院相」と似た言葉に「摂政」や「垂簾聴政」があります。それぞれの違いを理解すると朝鮮王朝の政治制度がもっとよく分かりますよ。
- 摂政:正式な官職として国王に代わって国政を行う者を意味します。日本の歴史でも耳にする言葉ですね。
- 垂簾聴政:幼い国王に代わり王室の女性例えば国王の母親である大妃などが政治を行うことを指します。
これらに対し「院相」は正式な官職ではなく、あくまで重臣に臨時的に与えられた権限という点が特徴です。政治の安定と継続を目的とした柔軟な運用がされていたと言えるでしょう。
ドラマで見る「院相」の姿と史実のギャップは?
韓国ドラマにも「院相」が出てくるときがあります。
特に『朝鮮弁護士 カン・ハンス』では「院相」が幼い国王に代わって国政を牛耳る絶大な権力を持つ存在として描かれていますね。王の代わりに権力を握るイメージがあるので独裁者的に描かれるのでしょう。
『朝鮮弁護士』に登場する院相は史実を反映しているのでしょうか?
カン・ハンスの時代は9代成宗がモデル
『朝鮮弁護士カン・ハンス』は劇中でははっきりとどの王の時代とは言っていません。でも現在の国王が13歳で即位し垂簾政治を行っている。王の祖父が経国大典の作成を命じたとされています。
そのため第9代国王 成宗の時代をモデルにしているのは間違いありません。
史実でも成宗はわずか13歳で即位したので幼少期には実際に「院相」が重要な役割を担いました。
史実では成宗時代の初期に大きな影響力を持ったのが韓明澮(ハン・ミョンフェ)や申叔舟(シン・スクチュ)といった「勲旧派」と呼ばれる功臣たちです。
彼らは成宗の祖母である貞熹王后(世祖の正室)による垂簾聴政と並行して院相として国政を主導しました。
『朝鮮弁護士カン・ハンス』には勲旧派は登場しますが、韓明澮や申叔舟は登場しません。架空の重臣が登場します。でもドラマで描かれる「院相」の姿はこの時代の権力争いや重臣たちの政治介入を反映していると言えます。
ドラマはエンターテイメントですけれど、史実から着想を得ていることが多いのですね。
歴史上の「院相」たち 幼王を支え国政を動かした重臣たちです
「院相」は特定の職位ではないので、時代によってその実態や担い手はさまざまでした。ここでは歴史上で院相を務めた、またはそれに近い役割を担った主要な人物たちを紹介します。
文宗・端宗期の「顧命大臣」金宗瑞とは?
「院相」という言葉が正式に確立される以前にも似た役割を担った存在がいました。
その代表例が5代 文宗の遺命を受けて幼い端宗を補佐した金宗瑞(キム・ジョンソ)のような「顧命大臣」です。彼らは王の死に際して後事を託され、幼い次の王を支える重責を担いました。
睿宗・成宗時代に「院相」制度が確立された背景
「院相」という制度が正式に確立されたのは8代 睿宗の時代1467年のことです。この時大王大妃 尹氏(貞熹王后)が申叔舟や韓明澮らを「院相」に任命。彼らが承政院で交代で全ての政務を処理するよう命じました。これにより国王が幼少である場合の国政運営の枠組みがはっきりしたと言えるでしょう。
つまり「院相」は一人ではありません。大臣が共同で政治を行うのです。
9代 成宗も即位した頃は幼かったので申叔舟や韓明澮らが「院相」になっています。
その後「院相」制度は朝鮮王朝を通じて多くの国王の時代に適用されました。けれど時代が下るにつれてその人数は減っていきました。中期以降は領議政・左議政・右議政といった最高位の宰相たちが「院相」を務めるか、単独でその役割を担うのが慣例となっていきました。
歴史に名を残す歴代の「院相」たち
以下に歴史上有名な「院相」。またはそれに近い役割を担った人物を紹介します。
- 13代 明宗(ミョンジョン)の時代
:尹仁鏡(ユン・インギョン)、柳灌(ユ・グァン)、成世昌(ソン・セチャン)たち。 - 14代 宣祖(ソンジョ)の時代
:李浚慶(イ・ジュンギョン)、呉謙(オ・ギョム)、洪暹(ホン・ソム)たち。 - 18代 顕宗(ヒョンジョン)の時代
:鄭太和(チョン・テファ)、沈之源(シム・ジウォン)がその役割を担いました。 - 19代 粛宗(スクチョン)の時代
:許積(ホ・ジョク)が院相を務めました。 - 23代 純祖(スンジョ)の時代
:沈煥之(シム・ファンジ)が院相を務めました。 - 24代 憲宗(ホンジョン)の時代
:沈象奎(シム・サンギュ)が院相を務めました。 - 25代 哲宗(チョルジョン)の時代
:権敦仁(クォン・ドンイン)が院相を務めました。
こうしてみると、多くの王が即位して間もないときには重臣たちのサポートを受けていたことが分かります。
歴代の「院相」が「有名」ではない理由
でも彼ら院相は有名ではありません。それは話題になるほど独裁的にならなかったからです。
ではなぜ院相は独裁者になりにくかったのでしょうか?
それにはいくつかの理由が考えられます。
臨時の役職だったから
「院相」は摂政や大院君のように正式な官職ではありません。世襲的な権限を持つものでもありませんでした。国王の幼少期や病気といった限られた期間だけ臨時に与えられる職務です。
そのため、摂政や大院君などと比べると権限にも限りがありますし、時期がくれば権限が消滅して普通の重臣になってしまうのです。
権力分散の傾向があった
特に制度ができて間もない睿宗時代のように、複数の重臣が交代で「院相」を務める場合がありました。これは権力の集中を防ぐ目的もあったと考えられます。他の時代でも複数任命されて、特定の人物が「独裁者」として名を残す機会が少なかったようです。
王室との力関係
幼い王の時代には、王の母や祖母が「垂簾聴政」を行うこともありました。この場合、院相は王室の女性と共同で政務を執る必要があり、単独で独裁的な力を振るうことは難しかったのです。

垂簾聴政と院相制
例えば、成宗の時代の韓明澮(ハン・ミョンフェ)なども、貞熹王后の垂簾聴政と並行して院相を務めていました。
もちろん、どの時代でも権力闘争は存在しますし。重臣が一時的に強大な力を持つことはありました。でも「院相」がずっと力を持ち続ける事はありません。
これは「院相」という制度自体が一時的なものだったからです。むしろ王権の空白を埋めながらも、他の勢力とバランスをとりつつ働くように設計されていたと言えるでしょう。
高宗期の最高権力者 興宣大院君と「院相」
そして「院相」とは呼ばれませんが、それよりも強い権限を持った重要な存在がいます。
それが、李氏朝鮮末期の第26代国王・高宗の実父 興宣大院君です。
彼は正確には「院相」ではなく国王の生父という特別な地位である「大院君」という立場でした。
幼い国王に代わって国政を主導した点で共通していますが、大臣でなく王族。しかも王の父なので王よりも立場が上です。
そのため院相よりも強い力を持っていました。彼は書院の撤廃や身分制度の改革など多くの強硬な改革を断行し、李氏朝鮮に大きな影響を与えました。
彼の統治は古い両班支配を壊すようなことも行いましたが、開国には消極的で鎖国政策を続けたので海外列強との対立を深め後の激動の時代へとつながっていきます。
興宣大院君は多くの韓国ドラマでも描かれることの多い人物ですね。
「院相」から学ぶ朝鮮王朝の権力構造と歴史の面白さ
いかがでしたでしょうか。「院相」が朝鮮王朝の政治でどれほど重要な存在だったかご理解いただけたでしょうか?
国王が幼いなどの理由で国政に空白ができたときに、政治の安定を図るために「院相」は重要な役割を担った存在でした。
彼らの行動は李氏朝鮮の政治に大きな影響を与え、その後の歴史の流れを形作っていったのですね。
ドラマで描かれる「院相」と史実を比較することで、作品をもっと深く楽しめると思います。これからも時代劇を通して朝鮮王朝の奥深さに触れてみてくださいね。
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