韓国ドラマ『輝くか、狂うか』には、後の高麗第4代王・光宗となるワン・ソをはじめ、ワン・ヨ、ワン・ウク、王式廉など実在した人物が何人も登場します。シンユルは架空人物ですがファンボ・ヨウォンは大穆王后をもとにした人物で、王建暗殺やワン・ソと王式廉の対決にもドラマ独自の脚色が加えられました。
この記事では、登場人物の実在・架空を確認しながら『高麗史』に残る記録とドラマの違いを紹介します。
この記事で分かること
- ワン・ソ、ワン・ウク、王式廉など実在した人物
- シンユルなどドラマで作られた架空人物
- ファンボ・ヨウォンと大穆王后皇甫氏の関係
- 王建暗殺やワン・ソと王式廉の対決が史実なのか
『輝くか、狂うか』実在人物と架空人物
『輝くか、狂うか』には実在した高麗王室の人物がかなり登場します。
主人公のワン・ソは後の高麗第4代王・光宗。兄のワン・ヨは第3代王・定宗、ワン・ウクも太祖王建の息子として実在しました。ワン・シンニョムも実在した人物で、王建の従弟になります。
ヒロインのシンユルは架空人物です。渤海最後の王女として生まれ、青海商団で育ち、ワン・ソと恋をしましたが。渤海王族にシンユルに相当する人物はいません。
ファンボ・ヨウォンのモデルは歴史上は 光宗の王后だった大穆王后 皇甫氏です。ただし大穆王后の名前は伝わっていないのでヨウォンという名前は架空です。
ほかにも太祖王建、神明順成王太后劉氏、崔知夢、皇甫悌恭、渤海王族の大光顕など、歴史上の人物画人物が何人も登場します。
| ドラマの人物 | 史実 |
|---|---|
| 王昭(ワン・ソ) | 実在。高麗第4代王・光宗 |
| シンユル | 架空人物 |
| 皇甫麗援(ファンボ・ヨウォン) | 実在。大穆王后皇甫氏 |
| 王旭(ワン・ウク) | 実在。後に戴宗と追尊 |
| 王堯(ワン・ヨ) | 実在。高麗第3代王・定宗 |
| 王式廉(ワン・シンニョム) | 実在。王建の従弟 |
| 太后劉氏 | 実在。神明順成王太后劉氏 |
| 太祖王建(ワン・ゴン) | 実在。高麗初代王 |
| 崔知夢 | 実在 |
| 皇甫悌恭 | 実在 |
| 王繼 | 渤海王族・大光顕 |
| 朴脩慶 | 実在した朴守卿にあたる |
『輝くか、狂うか』は実在した王族や高麗初期の事件をかなり登場するものの、シンユルとの恋愛、王建暗殺、ワン・ソと王式廉の対決などドラマの中心になる話は架空の話になっています。
ワン・ソは実在した?モデルは高麗4代王・光宗
チャン・ヒョクが演じるワン・ソ(王昭)は実在した高麗の王族。925年に太祖王建と神明順成王太后劉氏の子として生まれました。949年に即位して高麗第4代王・光宗となります。
ドラマでは「高麗を血の海にする」と予言され幼いころから宮廷から遠ざけられて金剛山で育ったことになっています。
予言の話は記録にはありません。破軍星の予言や金剛山での生活も架空です。でも、史実でも王建の死後に高麗王室で王位をめぐる対立が起きました。
第2代王・恵宗の時代には、有力者の王規が「王堯と王昭が反乱を企てている」と恵宗に訴えました。ところが恵宗は王規の訴えを信じず、王堯と王昭をそのまま王族として扱っています。
その後、王堯が第3代王・定宗となりました。949年に定宗の病状が悪化すると、弟の王昭へ王位を譲ります。
史実の王式廉は949年1月に亡くなりました。ワン・ソが光宗として即位したのは同年3月なので、二人が王位をめぐって争う展開はドラマの創作です。
光宗は即位後、王権を強化するための政策を次々に行っています。
956年には奴婢按検法を実施しました。戦乱などによって不当に奴婢とされた人々の身分を調べ、本来の身分へ戻す制度です。多くの奴婢を抱えていた豪族にとっては、労働力や財産に直接関わる問題でした。
958年には後周出身の雙冀(サンギ)の提案を採用し、高麗で初めて科挙を実施します。家柄だけで官僚を選ぶのではなく、試験によって人材を登用できるようにしました。960年には官位によって官僚の服装を定める公服制度も設けています。
ところが治世の後半になると、光宗は王族や有力者を厳しく処罰するようになります。謀反の告発が相次ぎ、近い親族まで処罰されました。
ドラマで何度も語られる「ワン・ソは多くの血を流す王になる」という設定は、この時期の光宗をもとにしているのでしょうね。

シンユルは実在?渤海最後の王女は架空人物
オ・ヨンソが演じるシンユルは架空人物です。
ドラマでは渤海最後の王女として生まれ、「他国の光になる」と予言されたため命を狙われ、その後は青海商団で育ちます。
渤海が926年に契丹によって滅ぼされたのは史実です。滅亡後には王族や住民が高麗へ移り、王族の大光顕も多くの人々を率いて高麗へ来ました。
太祖王建は大光顕に王氏を与え、王繼と名乗らせています。ドラマに王繼が登場するのは、この史実を使ったものです。
でも、シンユルという渤海王女は史料に出てきません。王昭と恋をした渤海王女も確認できません。
では、シンユルはすべて創作なのでしょうか?
ここが少し面白いところです。
シンユルの設定には、後周出身の官僚・雙冀の話も使われています。雙冀は956年に後周の使節に同行して高麗へ来ましたが、そのまま高麗に残って光宗に仕えました。そして958年、科挙の採用を光宗に提案しています。
ドラマでは、シンユルが関わる青海商団で家柄ではなく試験によって人材を選んでいます。ワン・ソはその方法に注目し、官吏も能力で選ぶことを考えます。
史実でこの役割を担ったのが雙冀です。
そのためシンユルは、渤海滅亡後に王族や住民が高麗へ移った史実と、光宗に科挙を勧めた雙冀の話を使い、そこへ青海商団やワン・ソとの恋愛を加えて作られた人物と考えたほうがよさそうです。
ファンボ・ヨウォンは実在?モデルは大穆王后
イ・ハニが演じるファンボ・ヨウォンは、「皇甫麗援」という名前では史料に出てきません。
ただし家族関係は、光宗の王后となった大穆王后皇甫氏と一致します。
大穆王后は太祖王建の娘で、母は神静王太后皇甫氏。同じ父母から生まれた弟が王旭です。ドラマでファンボ・ヨウォンとワン・ウクが姉弟になっているのは史実と同じです。
ワン・ソとの結婚も史実です。
王昭の母は神明順成王太后劉氏なので、大穆王后と王昭は父だけが同じ異母姉弟でした。その二人が結婚し、大穆王后は光宗の王后になります。
今の感覚ではかなり驚きますが、高麗初期の王室では王族同士の婚姻が行われていました。大穆王后が父方の王氏ではなく、母方の皇甫氏を名乗ったのも、こうした王族婚と関係しています。
二人の間には、後の第5代王・景宗となる王伷が生まれました。
ドラマではファンボ・ヨウォンが皇甫家のために弟ワン・ウクを王にしようとします。でも、大穆王后が弟を王にしようとした記録はありません。豪族と協力して夫の光宗を退けようとしたという記録も残っていません。
一方で、大穆王后が光宗の政策に反対した記録はあります。
956年に光宗が奴婢按検法を実施した際、大穆王后は制度をやめるよう求めました。しかし光宗は受け入れていません。
ドラマではこの史実を使い、皇甫一族を守ろうとするヨウォンの行動を大きく膨らませたのでしょう。ただし、史料には大穆王后がなぜ奴婢按検法に反対したのかまでは書かれていません。
ワン・ウクは実在した?
イム・ジュファンが演じるワン・ウク(王旭)も実在しました。
父は太祖王建、母は神静王太后皇甫氏。大穆王后とは実の姉弟で、王昭とは父を同じくする異母兄弟です。
ドラマのワン・ウクはシンユルを好きになり、ワン・ソと対立。さらに王式廉とも関係を持ち、自ら王になることを考えるようになります。
このあたりは創作です。
史料には、王旭が王昭と王位を争った記録はありません。王式廉と協力して王昭を倒そうとした記録もなく、シンユルとの恋愛はシンユル自体が架空人物なので当然ドラマの話です。
史実の王旭について詳しい記録はあまり残っていません。969年、光宗の在位中に亡くなりました。
王旭には「戴宗」という廟号があります。
それなら王になったのかと思いますが、生前には即位していません。
息子の王治が981年に第6代王・成宗となった後、すでに亡くなっていた父を王として追尊したため戴宗と呼ばれるようになりました。
王旭の子どもには成宗となった王治のほか、第5代王・景宗と結婚した献哀王太后もいます。後に千秋太后と呼ばれる女性です。
ドラマでは王位を望む皇子として描かれていますが、史料で確認できる王旭は、むしろ成宗や千秋太后の父として後の高麗王室に関係する人物です。

ちなみに、高麗王室には日本語では同じ「ワン・ウク」と読める王郁という別の人物もいます。

『輝くか、狂うか』に登場するのは、神静王太后皇甫氏の子で、後に戴宗と追尊された王旭です。
ワン・シンニョムは実在?史実では王式廉
イ・ドクファが演じるワン・シンニョムこと王式廉は実在しました。
父は王平達で、太祖王建とは従兄弟にあたります。
王式廉は王建から西京、現在の平壌方面を任されました。安水鎮や興徳鎮などに城を築いた記録もあり、北方の軍事を任された有力者です。
ドラマで王式廉が西京に軍を持っている設定には、きちんと史実のもとがあります。
王式廉が大きく関わったのは、第2代王・恵宗の末期でした。
『高麗史』では、有力者の王規が反乱を企てたため、王堯が西京にいた王式廉と相談したとされています。王式廉は軍を率いて開京へ入り、王規とその一派を排除しました。その後、王堯が第3代王・定宗となります。
ドラマで王式廉が「王堯を王にしたのは自分だ」と考えているのは、この出来事から作った設定でしょう。
ただし、その後は史実とかなり違います。
ドラマでは王式廉が王建の死に関わった黒幕となり、豪族たちを率いて最後にはワン・ソと戦います。
史実の王建は943年に病気で亡くなりました。王式廉が暗殺したという記録はありません。
しかも王式廉は949年1月に亡くなっています。
王昭が光宗として即位したのは同じ年の3月です。
つまり史実では、王昭が王になる約2か月前に王式廉は亡くなっていました。二人が王位をめぐって最後まで争うことはできません。
西京に軍事力を持ち、王堯の即位に関わったところまでは史実。その経歴を利用して、王建暗殺や豪族との結びつき、ワン・ソとの対決を加えたのがドラマの王式廉です。

王建は本当に暗殺された?
『輝くか、狂うか』では、太祖王建の死がその後の事件につながります。ワン・ソは父の死に疑問を持ち、犯人を調べ始めます。
史実の王建は暗殺されたとは記録されていません。
943年に病気となり、病状が悪化すると太子の王武や重臣たちに今後の政治を託して亡くなりました。その後、王武が第2代王・恵宗として即位しています。
王式廉が王建を毒殺したという記録も、豪族たちが王建暗殺を計画したという記録もありません。
ただし王建の死後、王室と有力者の対立が激しくなったのは事実です。
恵宗の時代には王規と王堯らが対立し、王式廉も西京から軍を率いて開京へ入りました。王規の勢力が排除された後、王堯が定宗となっています。
ドラマでは、王建の死後に起きた政治的な対立を王建暗殺事件と結びつけ、ワン・ソ自身が真相を調べる話へ変えています。

光宗は本当に「狂った王」だった?
タイトルにも関わるのが、光宗は本当に「狂った王」だったのかという問題です。
ドラマではワン・ソが将来「多くの血を流す王になる」と何度も語られます。
実在した光宗も、治世の後半には王族や有力者を数多く処罰しました。
でも、949年に即位した直後から処刑ばかりしていたわけではありません。
先ほど紹介した奴婢按検法や科挙、公服制度など、光宗は王権を強めるための制度を次々に導入しています。豪族だけに人材や労働力を握らせず、国王が官僚を選び、政治を行えるようにしようとしていました。
ところが960年には俊弘や王同が謀反を企てたとして告発され、その後も謀反の告発が続きます。王族や有力者が処罰され、近い親族まで疑われるようになりました。
『高麗史』でも、光宗は治世の初めには政治に熱心で、貧しい人を助け、学者を大切にした一方、後半には告発を信じて多くの人を処罰したと記されています。
だから『輝くか、狂うか』という題名にも、ある程度史実との関係があります。
科挙や奴婢按検法を行った光宗と、後半に王族や有力者を厳しく処罰した光宗。その両方を持つ人物として、若いころのワン・ソを描いているのでしょう。
『輝くか、狂うか』ドラマと史実はどこが違う?
『輝くか、狂うか』は、人物の名前だけを史実から借りた作品ではありません。
ワン・ソが後の光宗であること、ワン・ヨが定宗となること、ワン・ウクが王建の息子だったこと、ファンボ・ヨウォンにあたる大穆王后が王昭と結婚したことは史実です。
王式廉が西京を任され、王堯の即位に関わったことも史料に残っています。
光宗が奴婢按検法を実施し、雙冀の提案によって科挙を始めたことも実際にありました。
その一方で、シンユルとの恋愛は創作です。ワン・ウクがシンユルを好きになってワン・ソと争った記録もありません。
ファンボ・ヨウォンが弟ワン・ウクを王にしようとした話もドラマ独自です。史実の大穆王后が奴婢按検法に反対したことは記録されていますが、その理由を弟の即位と結びつけることはできません。
王建暗殺も創作です。史実の王建は943年に病気で亡くなりました。
そしてワン・ソと王式廉の最後の対決も史実とは時期が合いません。王式廉は949年1月に亡くなり、王昭が光宗となったのは同年3月でした。
こうして比べると、『輝くか、狂うか』は史実を無視して好き勝手に作った作品でもありません。
王式廉には西京を支配した軍事的な経歴があり、シンユルには渤海遺民や雙冀の話が使われています。ファンボ・ヨウォンにも大穆王后という明確なモデルがいます。
史実にある人物や事件を使いながら、記録のない部分へ恋愛、暗殺、王位争いを加えた作品です。
だから、どこまで史実なのか気になって調べてみると、「ここは本当にあったのか」と思う部分が意外と多い。その一方で、ドラマで一番目立つシンユルとの恋愛や王式廉との対決は創作でした。

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