永琪は清朝の第6代皇帝・乾隆帝の第五皇子。
子供のころから勉強熱心で 乾隆帝が最も高く評価していた皇子でした。
しかし骨結核という難病にかかり25歳でこの世を去ってしまいます。
長生きしていれば次の皇帝になったかもしれません。
史実の 永琪 はどんな人物だったのか紹介します。
栄純親王 永琪 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1741年3月23日
没年月日:1766年4月16日
享年:25
名前:永琪(えいき、ヨンキ)
姓:愛新覚羅(日本語:あいしんかくら、満州語:アイシンギョロ)
称号:栄純親王 (えいじゅんしんのう)
父:乾隆帝(けんりゅうてい)
母:愉貴妃(ゆきひ)珂里葉特(ケリュテ)氏
正室:嫡福普 西林覚羅氏
側室:側福普 索綽羅氏
如格格、使女胡氏
子供:六男一女
彼が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
五阿哥とは
日本語字幕や紹介サイトでは「第五皇子」と書かれています。
中国語のサイトや中国語に詳しいヒトのサイトでは「五阿哥」と書かれていることがあります。
満洲族の言葉では 「第五皇子」を五阿哥(アーゴ)といいます。
アーゴは満洲語で「男の兄弟」という意味です。
皇帝の息子だけではなく王族の息子や他の家庭でも「阿哥」を使います。
日本語では「五男」が近い意味です。
漢民族の場合は「五子」と表現します。女の子は◯女と書きます。
日本では「五子」といえば男女を含めて5番目の子供という意味ですが。中国では五男の意味です。
「阿哥」は清朝独特の言い方です。
生い立ち
1741年3月23(乾隆6年)に生まれました。
父は乾隆帝(けんりゅうてい)
母は貴人 珂里葉特(ケリュテ)氏
母・珂里葉特(ケリュテ)はモンゴル出身の側室。珂里葉特氏の父も高い官職ではなく、実家に力はあまりありませんでした。
生母の珂里葉特(ケリュテ)氏は永琪出産後、愉嬪になります。
その後、乾隆10年正月に 母・珂里葉特(ケリュテ)氏が愉妃になります。
永琪(えいき)は勉強熱心な子供でした。
中国語、満州語、モンゴル語を習得しました。
乗馬、刀剣術、武道、絵画、絵画も得意です。
芸術活動するときは「藤琴居士」の名前(ペンネームみたいなもの)を使いました。
清には西洋から様々な科学が伝わっていました。永琪(えいき)は科学にも興味を持ちました。天文、地理、暦法、数学を勉強し、幾何学で使われていた「甲乙丙丁」の記号を「ABCD」に変えました。その計算精度は充分高かったといいます。
乾隆帝は勉強熱心な息子が気に入りました。第15皇子の顒琰(後の嘉慶帝)とともに可愛がりました。
1741年3月23日(乾隆22年)永琪(えいき)は覚羅鄂弼の娘と結婚しました。結婚式が行われる前、永琪は宮殿を訪れ乾隆帝と皇后に挨拶。乾隆帝と皇后を抱きしめました。
結婚式当日。妻の実家・覚羅家を訪れて結婚式を行いました。
翌日。宮殿を訪れ皇帝・皇后・妃嬪たちに挨拶しました。
1760年(乾隆25年)。紫禁城の北東にある兆祥所に移り住みました。
その年の4月には第4皇子の永珹も移り住みました。
火事で父親を背負って脱出
1763年(乾隆28年5月5日)。乾隆帝は円明園の九洲清宴殿で和親王・弘昼、永琪達と端午の節句で宴会をしました。円明園は清朝が作った離宮です。ところが宴会場が家事になってしまいました。弘昼や他の兄弟たちは手がつけられずとまどっていました。永琪は火の中に飛び込んで父・乾隆帝を背負って脱出しました。
乾隆帝はふがいない弘昼や他の兄弟を怒る一方で、永琪を褒め称えました。
骨壊疽で闘病生活
1765年(乾隆30年)。その後、永琪は風邪のような症状がでました。療養していましたが、やがて寝たきりになりました。
1766年(乾隆31年2月)。乾隆帝は永琪の住んでいる兆祥所に見舞いに行きました。
乾隆帝は病気で苦しんでいる永琪を見て、できるだけ早く元気になるよう励ますため、
「栄親王」の称号を与えました。新王朝では重病の妃や皇子に称号が送られることがよくあります。新王朝では「栄」という漢字は特別な意味があり、皇帝から非常に愛されているものだけに付けられる称号でした。
1766年(乾隆31年3月)。数ヶ月の闘病生活の末病死しました。骨壊疽という病気でした。現在の病名では「骨結核」という病気です。結核菌が関節や脊椎に感染して起こる病気です。最初は熱や倦怠感・食欲不振がでます。症状が重くなると骨が腐り、歩行障害や寝たきりになります。発病すれば直ちに死亡するという病気ではありませんが。治療の難しい病気です。
愛新覚羅家では骨結核で死亡する人が何人もいました。骨結核に遺伝性があるとは言われていませんので、環境的な問題かもしれません。
死後、乾隆帝は永琪に「栄純親王」の称号を与えました。乾隆帝の子供の中では最初に「親王」の称号を与えられました。
生きていれば次の皇帝だった?
乾隆帝は永琪を高く評価していました。時期皇帝の有力候補でした。
永琪の死後20年たって乾隆帝は「皇五子は息子の中で最も貴重だ。漢文、満州語、モンゴル語、馬、歩兵、弓術、算術に優れていたが病でなくしてしまった」と清に来ていたイギリスの政治家ジョージ・マッカートニーに語っています。
長生きすれば次の皇帝になったのは永琪だったのかもしれません。
テレビドラマ
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
演:陳宥維
瓔珞では生まれたときに黄疸が出て「金瞳」だと騒がれました。史実の永琪が黄疸や金瞳だっという記録はありません。
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
演:屈楚蕭
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