恭皇后 閭(りょ)氏 は北魏の皇帝・文成帝の生母。
ドラマ「王女未央」では拓跋濬の母親・太子妃のモデルになった人物です。
夫の 拓跋晃(たくばつ こう)が景穆皇帝と呼ばれるため、閭氏は景穆恭皇后と呼ばれることもあります。
史実の景穆恭皇后 閭氏 はどんな人物だったのか紹介します。
恭皇后 閭氏の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:不明
姓:郁久閭(いくきゅうりょ)→閭(りょ)
名称:不明
称号:恭皇后(きょうこうごう)
父:郁久閭辰(いくきゅうりょ しん)
母:不明
夫:拓跋晃(たくばつ こう)
彼女は北魏皇太子・拓跋晃の妃。
日本では飛鳥時代になります。
おいたち
父・郁久閭 辰は柔然の出身。柔然の可汗(カガン=王)大檀の親族。
拓跋余の母・閭左昭儀は大檀の娘なので、閭左昭儀とも親戚になります。
本来の姓は「郁久閭」でした。北魏に帰化後、一族は北魏が進めていた漢式の一文字姓を採用したので「閭」に変わりました。
柔然はモンゴル高原で暮らす遊牧民族。北魏を建国した拓跋氏と近い鮮卑系の民族だといわれます。
父・郁久閭 辰と兄・閭 毗(りょ ひ)は太武帝の時代に北魏の人間になりました。
閭氏は年齢はわかりませんが、若い頃に皇太子・拓跋晃の妃になりました。拓跋晃の寵愛を受けます。
440年。長男・濬(しゅん)が誕生。
451年。夫の拓跋晃が死亡。
452年。息子の濬が皇帝に即位しました(文成帝)。
皇太后争いの犠牲になる
しかし閭氏は文成帝の即位後しばらくして死亡してしまいます。
文成帝の即位した最初の年に後宮で争いがあったといいます。
祖母の赫連皇太后、生母の閭氏、乳母の常氏の三妃による「皇太后争奪戦」でした。この三人の中で一番不利なのが生母の閭氏でした。
普通なら生母は有利なはずですが北魏ではそうはならないのです。というのも北魏には「子貴母死の制度」があったからでした。
子貴母死の制度とは皇太子の生母は処刑されるという制度でした。これは外戚の影響を排除するために作られた制度です。
実際には後宮内での争いの犠牲になって死亡する人がいたようですが、記録の上では「子貴母死の制度」で死亡したことになっているのです。あまりにも残酷すぎるというので北魏でもこの制度はなくなります。
452年に文成帝が即位してまもなく閭氏が死亡。閭氏には恭皇后の諡が贈られました。
453年には赫連皇太后が死亡。
3人の中で生き残ったのは乳母の常氏でした。
常氏は「保太后」になりその後「昭太后」の称号が贈られました。文成帝時代の皇太后として後宮でその後、10年間暮らします。
この場合も後宮内で権力争いがあったのでしょう。
ドラマの恭皇后 閭氏
王女未央 2015年、中国 役名:太子妃 演:許榕真
ドラマでは李長楽を息子の嫁にしたいと考えています。そのため李未央と拓跋濬の恋に反対する姑として描かれます。ところが最期は陰謀に巻き込まれ宮中で死亡。それが原因で未央は「太子妃殺し」の疑いをかけられて投獄されてしまいます。
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