孝荘文皇后はホンタイジの側室。昭聖太皇太后ともいいます。本名はブムブタイ。
順治帝の生母、康煕帝の祖母です。
教育熱心で順治帝や康煕帝の子供時代に漢民族や西洋の教育を受けさせました。ホンタイジの側室なので生前は皇后にはなったことはありません。
息子の順治帝が即位したので皇太后、太皇太后として40年以上の長い間、宮中で影響力を持ちました。
死後、孝荘文皇后の称号が贈らます。
史実の孝荘文皇后はどんな人物だったのか紹介します。
孝荘文皇后の史実
いつの時代の人?
生年月日:1613年3月28日
没年月日:1688年1月27日
姓 :ボルジギト(博爾済吉特)氏
名称:ブムブタイ(布木布泰)
国:大清
地位:側室→皇太后→太皇太后
称号:昭聖慈寿皇太后、昭聖慈寿恭簡安懿章慶皇太后
昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘康和仁宣弘靖太皇太后
諡号:孝荘仁宣誠憲恭懿至徳純徽翊天啓聖文皇后
父:ジャイサン(和碩忠親王)
母:ボリ(和碩忠親王賢妃)
夫:ホンタイジ
子供:固倫雍穆公主、固倫淑慧公主、順治帝
おいたち
1613年3月28日。モンゴルのホルチン部で生まれました。
父はモンゴル・ホルチン部の首領ジャイサン。
母はボリ
1625年。13歳のとき、アイシン国(後金)のヌルハチの第8王子ホンタイジの側室になりました。
ホンタイジの正妻はジェルジェル。ブムブタイの叔母でした。
1626年。長女・ヤトゥ(雅図、固倫雍穆公主)を出産。
1632年。次女アトゥ(阿図、固倫淑慧公主)を出産。
1626年。ヌルハチが死去。ホンタイジがハン(アイシン国王)になりました。
1636年。ホンタイジは大清皇帝に即位。
ブムブタイは「永福宮荘妃」の称号を与えられました。
1639年。ホンタイジの9皇子フリン(福臨、後の順治帝)を出産。
1643年。ホンタイジが死去。
ホンタイジの後継者に息子フリンが決定
ホンタイジは後継者を決めてませんでした。実力主義の満洲族には皇太子の制度はありません。
当然、誰が次の皇帝になるか問題になります。
ホンタイジの長男ホーゲとホンタイジの弟ドルゴンが有力候補でしたが、ホーゲの派閥がやや優勢でした。
そこでドルゴンはフリン(福臨)を擁立。皇帝の座につけました。
ホーゲはホンタイジの長男ですが、満洲人には長男が相続する習慣はありません。
しかもホーゲの母は離縁されたウラナラ氏。ホンタイジの正室ジェルジェルには息子がいません。ブムブタイはジェルジェルの姪でモンゴルの名門ボルジギト氏出身。息子のいるホンタイジの妃嬪の中では最も地位が高いです。
フリンはホンタイジの息子の中で最も血筋が良い。ドルゴンが摂政になれば幼いフリンを操れると思った。ホーゲが断固とした行動に出なかった。などの理由でブムブタイの息子フリンが皇帝に決まりました。
順治帝の誕生です。
順治帝が即位して皇太后になる
1643年。ブムブタイは皇太后になりました。その年の2月には「昭聖慈寿皇太后」の称号が贈られました。
1654年。ブムブタイの父親 ジャイサンに「和碩忠親王」、母親ボリに「賢妃」の称号が与えられました。
夫・ホンタイジの死後。権力を握ったのは弟のドルゴンでした。
ドルゴンと再婚した?
ブムブタイはドルゴンの妻になったという噂があります。ドルゴンはホンタイジの弟ですから、夫の弟と再婚したことになります。
夫の死後、その妻が夫の兄弟と結婚する習慣が満洲(女真)族にはありました。
これはレビラド婚といって、満洲の他、モンゴルなど遊牧民系の民族やユダヤ人など世界各地にこの習慣がありました。日本にもありました。
儒教の世界ではレビラド婚は野蛮な行いとされていました。中国式の習慣を取り入れたホンタイジはレビラド婚を禁止。満洲族の間でも兄弟の妻と結婚する習慣は廃れていきます。
ブムブタイがドルゴンの妻になったという記録はありません。
でも「満洲族は野蛮人」と信じる漢民族が意図的にこの噂を流したと言われます。
太皇太后になる
1661年。順治帝が死去。第3皇子の玄燁が即位しました。康熙帝の誕生です。
ブムブタイは太皇太后になりました。
皇太后としての称号も与えられましたが非常に長いので「昭聖太皇太后」といわれます。
1688年1月27日。ブムブタイが死去。享年75。
ドラマ
・皇帝の恋 2016年、中国 演:米雪
・龍珠伝 2017年、中国、演:斯琴高娃
・花散る宮廷の女たち 2017年、中国、演:王麗雲
・孤高の皇妃 2017年、中国 演:曹梦格
・王家の愛 2018年、中国、演:劉芊含(リウ・チエンハン)
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