淑嬪崔氏(スクピンチェ氏)は、李氏朝鮮19代王・粛宗の側室。21代王・英祖の母です。
淑嬪崔氏をヒロインにしたドラマが「トンイ」です。淑嬪崔氏の名前は伝わっていません。トンイは番組のために作られた架空の名前です。ドラマでは活発で正義感の強い女性でした。
「チャンオクチョン・愛に生きる」では、正反対の陰謀をたくらむような女性でした。
「張禧嬪」では心配症な気弱な女性として描かれています。
「テバク」ではだらしない夫に愛想をつかしつつ、息子を心配する苦労症の母として描かれています。
どうしてこんなに違うイメージになってしまうのでしょうか?
淑嬪崔氏は資料が少なく謎の多い女性なのです。決まったイメージがないだけに人によって解釈が違うのですね。
限られた資料の中から史実の淑嬪崔氏はどんな人物だったのか紹介します。
淑嬪崔氏(スクピンチェシ)の史実

淑嬪崔氏の墓
淑嬪崔氏のプロフィール
- 名前:姓は崔(チェ)・名は不明
- 本貫:海州崔氏
- 称号:和敬淑嬪
- 生年月日:1670年
- 没年月日:1718年
家族
- 父:崔孝元(チェ・ヒョウォン)
- 母:ホン氏
- 夫:粛宗(19代王)
- 子供
- 長男・永壽、早世
- 次男・英祖
- 三男・早世
日本では江戸時代になります。
淑嬪崔氏の生い立ち 身分を超えた宮廷入り
淑嬪崔氏が宮廷に入るまでの経緯は諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。でも彼女の生い立ちこそ、後に語られる数々の誤解の始まりです。
幼少期の謎と宮廷への道のり
淑嬪崔氏は1670年に井邑県で生まれ育ったといわれています。父は崔孝元(チェ・ヒョウォン)でした。崔孝元(チェ・ヒョウォン)がどのような人物なのかはわかっていません。
『井邑郡誌(チョンウプグンジ)』によれば、幼い頃に両親を失い孤児になったとも言われます。仁顕王后の父・閔維重が赴任先に向かう途中で貧しい身なりの女の子を見つけ。閔維重の妻・ソン氏がその子を不憫に思い引き取り、育てたのが淑嬪崔氏だといわれています。仁顕王后が王妃に選ばれて宮廷に入るとき、彼女も同行したという話もあります。
また、全羅南道潭陽郡生まれという説や、母方の祖父・洪繼南が漢城(ソウル)出身だという説もあります。いずれにしろ確かな情報は乏しいのが実情です。
淑嬪崔氏は7歳で宮廷に入りました。7歳という年齢は幼く思えますが、当時の宮女が入宮する平均的な年齢でした。
「ムスリ説」はデマ?真の身分とは?
「淑嬪崔氏はムスリだった」「水汲み女だった」という話は、世間に広く浸透しています。
でも、淑嬪崔氏がムスリだったというのは作り話です。ムスリは王のいる空間に入ることはできません。身分制度が厳しかった朝鮮王朝では、卑しい身分の者が王の近くに近づくことも許されませんでした。ドラマ「トンイ」のように、水汲み女が命がけで王のいる空間に忍び込んだり、王がお忍びで出歩いたりしなければ、ムスリが王の視界に入ることはまずなかったのです。
嘘が広まった背景 少論派の陰謀とは
淑嬪崔氏がムスリだという話を広めたのは、英祖時代の少論派です。李麟佐(イ・インジャ)という過激な少論派が、密豊君(ミルプングン)を擁して反乱を起こしました。その際、英祖を倒す理由として、この嘘のでっち上げが利用されたのです。
イ・インジャたち少論派は、老論と親しい母から生まれた英祖を排除したくてたまりませんでした。そこでさまざまな噂話を流したり、謀反を起こしたりしました。その噂話が現代まで伝わっているのです。
ムスリ説の他にも、英祖は粛宗の子ではなく、淑嬪崔氏と金春澤(キム・チュンテク)の子だという嘘も流されました。金春澤はドラマ「トンイ」でシム・ウンテクのモデルになった人物です。
史料が示す真の身分は「女官」
側室になる前の淑嬪崔氏については諸説あります。有力な説は針房(チムバン)の内人(宮女、ドラマでは女官と呼びます)でした。
英祖は母から「刺し子(布と布の間に綿を入れて刺繍する技法)は一番難しかった」という話を聞いたそうです。そのため親孝行な英祖は刺し子を着ることはなかったといわれます。縫うのが難しい服をあえて作らせるようなことはしなかったのでしょう。
その後、淑嬪崔氏は仁顕王后に仕える女官になりました。
1689年(粛宗15年)。仁顕王后閔氏が廃位されて禧嬪張氏が王妃になりました。
仕える主を失った崔氏は針房の内人にもどりました。
淑嬪崔氏と粛宗の出会い
ドラマではさまざまな設定で描かれる淑嬪崔氏と粛宗の出会いですが、史実では明確な記録がありません。でも彼女が粛宗の寵愛を受け、側室の地位を得たのは確かです。
史実が語る粛宗との関係性
詳しい時期は分からないものの、少なくとも1692年(粛宗18年)以降に淑嬪崔氏は粛宗の寵愛を受けました。そして承恩尚宮(スンウンサングン、正五品)になりました。承恩尚宮とは、王の寵愛を受けて側室に昇格する前段階の女官の位です。
側室としての昇格の道のり
粛宗19年(1693年)に内命婦 従四品の淑媛(スグォン)に任命されています。
淑嬪崔氏はその後、順調に位を上げていきました。
年月(粛宗時代) | 位階 | 主な出来事 |
---|---|---|
1693年4月(19年) | 淑媛(スグォン、従四品) | 長男・永壽(ヨンス)出産(2ヶ月後に死亡) |
1694年6月(20年) | 淑儀(スグィ、従二品) | |
1694年9月(20年) | 次男・昑(クム、後の英祖)誕生 | |
1695年6月(21年) | 貴人(クィイン、従一品) | |
1698年7月(24年) | 三男出産(3日で死亡) | |
1699年6月(25年) | 淑嬪(スクピン、正一品) | 6代王・端宗の復位を記念して昇格 |
1694年には仁顕王后閔氏が王妃に復位しました。このとき南人派が大量に追放され、その勢力は壊滅しました。
このとき、淑嬪崔氏は「禧嬪張氏の兄・張希載(チャン・ヒジェ)が、自分を毒殺しようとしているのを聞いた」と粛宗に訴えました。それを聞いた粛宗は張希載を捕らえたのです。
粛宗は王族の身分を回復することに熱心でした。1698年には6代王・端宗を復位させました。これを記念して貴人だった淑嬪崔氏が淑嬪に昇格しました。
禧嬪張氏との対立! 宮廷の権力争いと淑嬪崔氏の役割
粛宗の時代は王妃が頻繁に入れ替わり、宮廷の争いが激しい時代でした。その中で淑嬪崔氏は重要な役割を果たしています。
仁顕王后廃位後の宮廷の動き
仁顕王后が廃位されて禧嬪張氏が王妃になった後、宮廷は不安定な状態でした。禧嬪張氏と彼女の出身派閥である南人派が権勢を振るう一方で、西人派(後の老論派と少論派)は力を失っていました。
呪詛事件の真相・淑嬪崔氏の告発
仁顕王后の死後、淑嬪崔氏は粛宗に禧嬪張氏が呪いをかけていたと訴えました。仁顕王后は闘病生活の末に亡くなりましたが、その病気が呪いによるものだと訴えたのです。
当然、禧嬪張氏は呪ったと認めるはずがありませんでした。「世子の病気の回復を願って祈祷をしていたと」主張しました。でも淑嬪崔氏は粛宗に対して、仁顕王后を呪っていたのだと強く訴えました。粛宗は淑嬪崔氏の主張を信じました。この訴えが、後に禧嬪張氏に死を与える原因の一つになったともいわれています。
老論派との連携・彼女が信頼された理由
淑嬪崔氏は水汲み女ではなかったにしろ、もともと身分が低かったため宮廷では知り合いがいませんでした。仁顕王后に仕える宮人だったという説もあります。そのためか淑嬪崔氏は仁顕王后と親しくしていました。
仁顕王后は老論派(西人派)でした。もともと後ろ盾のない淑嬪崔氏にとって、老論派からの誘いを断る理由はなかったでしょう。淑嬪崔氏も老論派の一員として、禧嬪張氏との対立に巻き込まれていきます。
そのため淑嬪崔氏は陰謀を巡らす女だと言われることがあります。その説についてはトンイのモデル 淑嬪崔氏 は 張禧嬪 以上の悪女だったの?で詳しく紹介しています。
淑嬪崔氏と親しかった人々
淑嬪崔氏は寧嬪金氏(仁顕王后存命中は貴人)とも親しかったといいます。寧嬪金氏も同じ老論派でした。そのため同じ老論派の者同士、淑嬪崔氏、仁顕王后、寧嬪(貴人)金氏は親しくなったようです。淑嬪崔氏が産んだ延礽君(ヨニングン、後の英祖)は老論派の希望になりました。
淑嬪崔氏の死後、寧嬪金氏は息子の延礽君の親のような存在でした。
仁顕王后の死後、王妃になった仁元王后とも親しくしていました。
仁元王后は少論派ですが、延礽君を養子に迎え守りました。仁元王后の実家は少論派なのですが、子のいない仁元王后にとっては延礽君は自分の子のような存在になったようです。
淑嬪崔氏は本当に宮殿の外で暮らしたの?
ドラマ「トンイ」では、トンイが宮殿を追われて町で暮らす場面や晩年には宮殿を出て行くことになった場面が描かれます。側室が身分はそのままなのに、王宮の外で暮らすことはあったのでしょうか?
宮殿外での暮らしの真実
1701~1704年頃から、当時の王宮だった昌徳宮(チャンドックン)を離れて梨峴宮(イヒョングン)に移り住んだといわれます。つまり3人目の王妃が来た後、宮廷を追い出されたというのです。
でも、この説は正しくないといわれます。粛宗の時代、側室に王宮の外に土地や屋敷などを与えることはよくありました。重臣の李喜茂(イ・ヒム)から「側室の別宅をこれ以上作らないように」と意見が出るほどでした。
梨峴宮はもともと綾原大君(仁祖の弟)の屋敷でした。でも淑嬪崔氏が淑儀の時に与えられたものでした。そのため梨峴宮は淑嬪の屋敷ということで淑嬪房(スクビンバン)と呼ばれました。
少なくともこの時期までは淑嬪崔氏は王宮の外で暮らしたのではなく、自分の領地を持っていただけだったようです。梨峴宮は後に延礽君の所有になりました。
1711年(粛宗37年)。粛宗の命令で息子・延礽君の屋敷で暮らすようになりました。
淑嬪の最期
1716年(粛宗42年)。このころから病気がちになりました。しかし粛宗と仁元王后が心配しているのを心苦しく思って、体調が良くなると王宮を訪れようとしたということです。
1718年3月(粛宗44年)。延礽君の屋敷で亡くなりました。享年49。
楊州高嶺洞瓮場里卯向原(現在の京畿道玻州の昭寧園)に葬られました。
英祖による母の顕彰と孝行
淑嬪崔氏は息子の英祖に深い愛情を注ぎました。身分の低い出自でしたが息子が王位に就くことができるよう、あらゆる努力を惜しまなかったといわれています。
英祖も母の淑嬪崔氏を深く愛していました。彼女の死後、英祖は母親の地位を高めるため、出来る限りのことをシました。
1725年。英祖が即位すると淑嬪崔氏に徽徳の諡号を贈りました。英祖は母親の地位を高めるため、宮殿近くに祠堂を建てて「毓祥廟」と命名しました。ところが「毓慶」が仁顕王后具氏の旧園号と同じだったため「毓祥」に改称しました。
さらに亡き母に「王后」の称号を与えようとしますが、重臣の反対により実現しませんでした。
1753年(英祖29年6月)、英祖は毓祥廟を毓祥宮に昇格させました。
淑嬪崔氏の最後については、トンイの死因・最終回は死んでしまうの? で詳しく紹介しています。ドラマと史実の違いも紹介しています。
ドラマ「トンイ」と史実を徹底比較
テレビドラマではさまざまな淑嬪崔氏が描かれてきました。ドラマでは、どのように描かれているのか見ていきましょう。
「トンイ」と史実の大きな違い

トンイ
「トンイ」 2010年 MBC 演:ハン・ヒョジュ
ドラマ「トンイ」では淑嬪崔氏が賤民の出身で最初は奴婢として宮廷に入りました。その後は監察府(カムチャルブ)の女官になり。一度、宮中を逃れたあとにムスリとなって宮中に戻っています。
でも監察府という部署は歴史上存在しません。
史実では彼女が女官だったことが有力視されています。針房ではストーリーが作りにくいので、ドラマ的な脚色が加えられたのでしょう。
項目 | ドラマ「トンイ」 | 史実 |
---|---|---|
出身身分 | 水汲み女(ムスリ) | 下級役人の娘、女官(針房の内人) |
部署 | 監察府 | 針房など、明確な記録は少ない |
粛宗との出会い | 劇的 | 明確な記録なし、寵愛時期のみ記録あり |
人物像 | 活発、正義感強い | 穏やか、周囲に気を配る(史料より推測) |
他のドラマ作品との比較で見る淑嬪崔氏像
「チャン・オクチョン愛に生きる」
2013年、SBS 演:ハン・スンヨン
このドラマでは、淑嬪崔氏は正反対の陰謀を企むような女性として描かれました。
「張禧嬪」
2003年 KBS 演:パク・イェジン
心配症な気弱な女性として登場。西人派に利用される姿が描かれます。
「テバク」
2016年 SBS 演:ユン・ジンソ
宮中の奴婢ですが既婚者です。(奴婢は宮中の外で暮らして結婚が可能)。だらしない夫に愛想をつかしつつ、息子を心配する苦労症の母として描かれています。
「大王の道」
1998年 MBC 演:キム・ヨンエ
英祖の回想場面で何度か登場。母子ともに誰からも相手にされず、宮中でひっそりと暮らしています。母子の仲はよく、まるで庶民の親子のような温かいふれあいが描かれました。
このように、決まったイメージがないだけに作品によって描かれ方が違います。そうなったのも彼女の史料が少ないため、制作者の解釈によって大きく人物像が変わってしまうからです。
まとめ
記録に残る淑嬪崔氏の姿は王や王妃に気を使い他の側室たちにも気を使い穏やかに振る舞う女性でした。生まれの身分が低かったこともあり周囲の目を気にしていたのでしょう。
「トンイ」の正義感が強く活発な姿や「チャン・オクチョン・愛に生きる」の何か企んでいそうな姿はドラマ的に脚色されたもののようです。王や王妃に好かれるだけでなく、同じ派閥の側室・金氏ともうまくつきあっていたようです。
派閥争いで命を落とすこともある王宮です。したたかな人付き合いの上手さが、淑嬪崔氏の生き延びる術だったのかもしれません。
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