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徳妃 烏雅氏(孝恭仁皇后)実の息子・雍正帝との仲は悪かった

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

徳妃 烏雅(ウヤ)は清朝の第4代皇帝・康煕帝こうきていの側室。

息子の雍正帝が即位したので死後、孝恭仁皇后の称号が贈られました。

ドラマに登場するときは「徳妃」か「皇太后」で登場することが多いです。

雍正帝の母親なのですが、あまり親子の仲は良くなかったようです。

史実の徳妃 烏雅氏 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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徳妃 烏雅氏(孝恭仁皇后)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1660年4月28日
没年月日:1723年6月25日

姓:烏雅(ウヤ)氏
称号:孝恭仁皇后(こうきょうじんこうごう)
地位:宮女 → 嬪 → 徳嬪 → 徳妃 → 聖母皇太后
父:魏武(追封:一等承恩公)
母:塞和里氏
夫:康煕帝(こうきてい)

子供
胤禛(雍正帝)
胤祚(1680年3月5日 – 1685年6月15日)
皇七女(1682年生没)
固倫温憲公主
皇十二女(1686年 – 1697年)
胤禵(恂郡王)

清王朝の第4代 康煕帝~第5代 雍正帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1660年(順治17年)。烏雅(ウヤ)氏が誕生しました。

父は満洲正黄旗人包衣佐領

1673年(康熙12年)。14歳のとき、内務府選秀で選ばれ宮女になりました。

定妃萬琉哈氏と同じ日に宮女になりました。

初の子供でも自分で育てられない

1678年(康熙17年)。19歳のとき、第四皇子・胤禛 を出産しました。

ところが烏雅(ウヤ)氏はまだ宮女の立場。宮廷内での立場が弱かったので胤禛は他の妃嬪が育てることになりました。皇帝の子供は年長者の妃嬪や子育て経験が豊富な重臣の家で育てられることがよくありました。

子供を誰が育てるかは妃嬪の都合では決められません。宮廷内の習慣や皇帝の考えで決められます。

胤禛を育てたのは当時・康煕帝の寵愛を受けていた貴妃 佟佳(トゥンギャ)氏でした。男子のいなかった貴妃 佟佳氏は胤禛を我が子のように可愛がりました。貴妃 佟佳氏の弟がロンコド(隆科多)。ロンコドは後に胤禛の即位に貢献しました。

そのせいなのか烏雅氏と胤禛の間には親子の愛情は育ちにくかったようです。

康熙帝の寵愛を集める

1679年(康熙18年)。烏雅(ウヤ)氏は嬪に昇格。「徳嬪」になりました。

初子が誕生後も烏雅氏は康熙帝の寵愛を集め、宮女から側室に昇格しました。

1680年(康熙19)。第六皇子・胤祚を出産。胤祚は若くして死亡します。

1681年(康熙20年)。烏雅(ウヤ)氏は妃に昇格。「徳妃」になりました。

1682年(康熙21年)。第七皇女出産。

1683年(康熙22年)。第九皇女・固倫温憲公主を出産。

1686年(康熙25年)。第十二皇女を出産。

1688年(康熙27年)。第十四皇子・胤禵(いんてい)を出産。このとき徳妃は29歳。十分な地位についています。そこで允禵を自分で育てることができました。
徳妃は他人が育てた胤禛よりも自分で育てた允禵に深く愛情を持つようになりました。

康煕帝も胤禵をかわいがっていたといいます。

1722年(康熙61年)。康熙帝が死去。徳妃はひどく悲しみ喪に服しました。

 

皇太后の時代

息子が皇帝になっても嬉しくない

1722年(康熙61年)。康煕帝が死去。徳妃の息子・胤禛が皇帝になりました。

烏雅氏は皇太后になり「仁壽皇太后」の称号が贈られました。

ところが烏雅氏は全然喜びません。雍正帝の即位式に出るのを拒否しました。そればかりか康煕帝とともに殉葬されるのを望みました。

雍正帝は実の親を殉葬させるわけにはいきません。何度も出席をお願いしました。大臣にも皇太后を説得するように命じました。

烏雅氏は何度もお願いされて仕方なく皇太后の立場で出席を認めました。

わがままで雍正帝をふりまわす

皇帝が即位して最初の正月は特別な意味があります。皇帝は臣下たちを引き連れて皇太后に挨拶するのが慣例になっていました。

その打ち合わせのため。前の月・12月21日に雍正帝は正装して大臣たちとともに皇太后を訪れました。ところがその場で皇太后烏雅氏は息子を批判しました。

「先帝が亡くなって喪の期間なのになぜ朝服(正装)しているのか。100日も立っていないのにお祝いする気にはなれない」というのです。

結局、皇太后 烏雅氏の頑な態度に雍正帝もどうすることもできず、お祝いの祝典は中止になりました。

皇太后 烏雅氏に断られ「雍正帝の顔色は真っ青になった」といいます。

1723年(雍正元年)。

その後。皇太后烏雅氏は病気になりました。治療も断ります。

物語などでは「雍正帝が母親を暗殺した」と描かれることもありますが。皇太后烏雅氏はすでに64歳。当時としてはじゅうぶん高齢です。病気になってもおかしくありません。

儒教社会では親の殺害は最も重い罪です。

皇帝を批判する口実になります。雍正帝と皇太后の仲が悪くても雍正帝が皇太后を暗殺するとは考えられません。それよりも「母親を大切にしている」とアピールしたほうが得策です。雍正帝が母親を暗殺する意味はありません。

そのかわり。母親への不満は弟の允禵に向けられることになったかもしれません。

雍正帝の即位後。烏雅氏がかわいがっていた允禵は降格になって康熙帝の墓守をさせられました。

もちろん、雍正帝が実の弟をそこまで虐げる理由は母親の愛情を受け取れなかっただけが理由ではなく。党派を作る允禵は王位を脅かす存在だったという理由もあります。

八皇子派や雍正帝の反対派が允禵を担ごうとするので他の皇子や重臣たちから離しておいたほうが良いと判断したのです。

允禵の様子を聞いた烏雅氏は心身が衰弱したとも言われます。本気で康熙帝のもとに行くつもりだったのかもしれません。

5月22日。烏雅氏はついに重体になりました。雍正帝は昼も夜も薬湯を届けに行きました。

1723年(雍正元年)5月23日。仁壽皇太后は死去しました。享年64。

死後、雍正帝によって「孝恭仁皇后」の称号が贈られました。

皇太后の在位期間はわずか1年。清王朝で最も在位期間の短い皇太后です。

 

テレビドラマ

 

宮廷の諍い女 2012年、中国 演:劉雪華 役名:皇太后
宮廷女官 若曦 2012年、中国 演:戴春榮 役名:徳妃・皇太后
花散る宮廷の女たち 2012年、中国 演:李予蘇 役名:徳妃
宮廷の茗薇 2012年、中国 演:張彤 役名:徳妃・皇太后 

 

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