嫻妃 輝発那拉氏 :乾隆帝の怒りをかって地位を奪われた悲劇の皇后

4.6 清・金

嫻妃(かんひ)輝発那拉(ホイファナラ)氏は清の皇帝・乾隆帝の妃です。

はじめは乾隆帝の側室でした。嫻妃(かんひ)とよばれます。皇后富察氏が死亡したあと皇后になりました。16年皇后の地位にいましたが突然皇后の座を奪われてしまいます。

廃皇后になった理由はよくわかっていません。そのため悲劇の皇后と言われます。

史実の輝発那拉(ホイファナラ)はどんな人物だったのか紹介します。

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嫻妃 輝発那拉 氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:1718年
没年月日:1766年

姓:輝発那拉(中国語:ホイファナラ、日本語:きはつなら)
地位:継皇后、嫻妃(かんひ)
父:那爾布
母:郎佳氏
夫:乾隆帝

子供:
永璂(第12皇子)
娘(第5皇女
永璟(第13皇子)

輝発那拉氏は清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の側室、後に皇后になりました。

日本では江戸時代になります。

おいたち

父・那爾布(ナルブ)は満州氏族の一つ輝発那拉氏。

姓の輝発那拉とは輝発 地域に住む那拉 氏という意味です。

雍正帝の時代

乾隆帝が親王時代に側室になりました。このとき14歳でした。

乾隆帝の即位後、乾隆2年に嫻妃になりました。

1748年(乾隆13年)。皇后富察氏が死亡。

乾隆帝は皇后富察氏が忘れられなかったので、新しい皇后は必要ないと考えていました。しかし乾隆帝の母・崇慶皇太后は皇后の座が空いていることを心配していました。崇慶皇太后の権限で輝発那拉氏を次の皇后に決めました。

輝発那拉氏は皇后内定者を意味する皇貴妃になりました。

皇后になる

皇后富察氏の喪があけた1750年(乾隆15年)に輝発那拉氏は皇后になりました。

皇后の役目を勤め、皇帝とともに儀式や行幸に付き従いました。

皇后になって3人の子供を出産します。

没落

1765年(乾隆30年)。南部(江南)への行幸に同行しました。旅の途中、乾隆帝は輝発那拉氏の48歳の誕生日を祝いました。旅の途中までは順調でした。

2月18日。乾隆帝は朝食に肉料理を提供しました。乾隆帝は側室達に肉を分け与えました。

ところがその日の夕食時に皇帝と一緒に食事したのは3人の側室(貴妃魏佳氏、慶妃陸氏、容妃和卓氏)だけでした。輝発那拉氏は同席しなかったのです。その日から輝発那拉氏は人前に姿を見せませんでした。

2月28日以降。乾隆帝は輝発那拉氏を都に戻るように命じます。娘婿の福隆安を護衛としてつけました。輝発那拉氏は水路を通り北京に戻ってきました。

輝発那拉氏がなぜ乾隆帝の怒りをかったのは謎です。

ある説によると輝発那拉氏が髪を切ったとも言われます。

満州の習慣では皇后が髪を切るのは皇帝や皇太后が死亡して100日後とされました。乾隆帝と崇慶皇太后は生きています。輝発那拉氏が髪を切れば乾隆帝と崇慶皇太后に対する「侮辱」や「呪い」と受け止められるでしょう。

しかし輝発那拉氏は満州人です。長年紫禁城で暮らしています。そのような習慣はわかっているはずです。

宮殿に戻った乾隆帝は魏氏に皇貴妃の称号を与えました。

輝発那拉氏に付き従う侍女は5人いましたが、2人に減らされました。そして1年後。

1766年6月(乾隆31年)。輝発那拉氏は重病になりました。しかし乾隆帝は行幸のスケジュールを変えずに予定通りに出発しました。輝発那拉氏への気遣いはなくなっていたようです。

1766年7月(乾隆31年)。輝発那拉氏は死亡しました。正確な日付はわかりません。記録がないからです。

死後も嫌われる輝発那拉氏

輝発那拉氏が死亡したとき乾隆帝は狩りをしていました。連絡を聞いてもすぐに紫禁城に帰ろうとはしませんでした。代わりに息子を帰らせました。

乾隆帝は輝発那拉氏の葬儀は皇室の一員として行いました。ところが葬儀の規模は皇后の葬儀にしては小さく、出席者の数は少なかったのです。皇室の葬儀がある日には高官は仕事が中止になり葬儀に出席しなければいけません。ところはその日は普段どおりに業務が行われていました。

出席者の数は更に少なくとても皇后の葬式とはいえない有様でした。しかも埋葬は貴族に仕える使用人と同じような墓でした。

家臣が皇后にふさわしい形で埋葬するように訴えると、乾隆帝は激怒してその家臣を処刑しました。

輝発那拉氏の記録は少なくいったい何がそこまで乾隆帝を怒らせたのかはわかりません。

ドラマでももともと愛されていなかったとか、悲劇の皇后として扱われることもあります。作品によって様々な描かれ方をされています。

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