スポンサーリンク

貴妃高氏は乾隆帝の寵愛を受けた世あたり上手な側室だった?

明 4.5 明

貴妃(きひ)·高(こう)氏は清の第6代皇帝・乾隆帝の側室です。
高貴妃(こうきひ)ともいいます。

高い身分の出身ではなく、子供もいませんが、頭がよく宮廷での処世術に長けていました。乾隆帝の寵愛を受け最終的には慧賢皇貴妃の地位になります。しかし病になり慧賢皇貴妃の就任式には出ることはできませんでした。

史実の貴妃高氏はどんな人物だったのか紹介します。

スポンサーリンク

貴妃高氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:1711年
没年月日:1745年

姓 :高氏
満州姓:高佳氏
名前:不明
称号:慧賢皇貴妃(けいけんこうきひ)
地位:使女(側女)→側福晉(側室)→貴妃→皇貴妃→慧賢皇貴妃
父:高斌
母:二繼妻馬氏
夫:乾隆帝

子供:なし

彼は第6代皇帝・乾隆帝の側室です

日本では江戸時代になります。

おいたち

生年は不明。一説には1712年ごろに産まれたといわれます。

父・高斌は鑲黄旗包衣出身。満州族の鑲黄旗に仕える漢民族でした。
河道総督を務めました。

正確な年は不明ですが1728年ごろ雍正帝の四男・弘暦(乾隆帝)に仕える侍女なり、すぐに格格(妾)になりました。

1734年。福晋(側室)になりました。

乾隆帝の時代

1737年。乾隆帝が即位すると、貴妃になりました。

乾隆帝は、父・雍正帝の側室・純懿皇貴妃が住んでいた屋敷を貴妃高氏に与えました。彼女の暮らす屋敷には「淑慎温和」の額が掲げられました。

1738年8月。貴妃高氏の母・馬氏が息子を連れて都にやってきました。馬氏は都に滞在中に貴妃高氏を訪ねました。乾隆帝からも食事のもてなしを受けました。

1743年にも母の馬氏が宮殿を訪れました。乾隆帝は貴妃高氏に母親と一緒に劇を観に行くように勧めました。乾隆帝は馬氏に絹織物などの贈り物をしました。乾隆帝は貴妃高氏の母に気を使っていたようです。

宮廷でうまく立ち回った貴妃高氏

貴妃高氏は文学の才能があり詩を作りました。人々を納得させる話術も巧みでした。

貴妃高氏は富察皇后とはうまく付き合って謙虚な態度をとっていました。崇慶皇太后に対しても態度を気をつけていたので皇太后から気に入られていました。他の側室ともうまく付き合い、時には金銭を与え後宮で高い評判を得ていました。

そのため乾隆帝に対して地位を上げてほしいと願っていたようです。

1745年。貴妃高氏は病気になります。乾隆帝は重病になった貴妃高氏を気の毒に思い皇貴妃の位を授けました。しかし貴妃高氏は2日後に病死したため、昇進式に出席することができませんでした。

乾隆帝は他の側室より豪華な棺桶を用意しました。子供を産んだ哲悯皇貴妃のものよりも豪華でした。

死後。貴妃高氏の一族は鑲黄旗包衣から鑲黄旗満州人に身分があがりました。
貴妃高氏の家族・高氏は満州式の姓・高佳氏を与えられています。

貴妃高氏は、要領がよく高い地位の人から好かれるのが上手でした。死ぬまで乾隆帝の愛情が冷めることはなかったようです。言葉が巧みな反面、抜け目がないともいえます。考え方によってはずる賢いと言えるかもしれません。

貴妃高氏には子供はいません。乾隆帝には15人の側室がいましたから、並の側室なら地位が危うくなるところです。ところが貴妃高氏は頭の良さと要領のよさでうまく立ち回り、乾隆帝の愛情をつなぎとめ後宮での地位を維持したのです。

4.5 明
スポンサーリンク
Fumiyaをフォローする
アジア韓国歴史ドラマの史実

コメント