循郡王 永璋(えいしょう)は清朝の皇子。
第6代皇帝・乾隆帝の第三皇子です。
最初は後継者候補として期待されていたようです。
ところが若いときの失態が理由で後継者候補から外されてしまいます。
さらには30代で肺の病気で死亡しました。
実在した履郡王・永璋はどんな人だったのか紹介します。
履郡王・永璋 の史実
いつの時代の人?
- 姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
- 名:永璋(えいしょう)
- 称号:循郡王
- 生年月日:1735年7月15日
- 没年月日:1760年8月26日
- 享年:36
家族
- 父:乾隆帝(けんりゅうてい)
- 母:純貴妃 蘇氏
- 同母弟:六皇子・荘親王永瑢
- 同母妹:四公主・和碩和嘉公主
- 正室:嫡福晋 科爾沁・博爾濟錦氏
- 側室:側福普・完顔氏、瓜爾佳氏、某氏
- 子供
- 男子1人、女子1人
永璋が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。日本では江戸時代になります。
おいたち
永璋(えいしょう)は雍正13年 (1735年)7月に誕生しました。
父は宝親王・弘曆(後の乾隆帝)。
母は格格・蘇氏(後の純貴妃)。
弘曆の三男。蘇氏にとっては初めての男子です。
乾隆帝の即位と母・蘇氏の地位向上
1735年(雍正13年)10月。雍正帝が死去。父の弘曆が皇帝に即位しました(乾隆帝)。
これに伴い、母・蘇氏は純妃になりました。蘇氏の家柄は低かったので、息子(永璋)がいることが「妃」という地位に昇格できた大きな理由のようです。
兄弟・姉妹の誕生
1743年(乾隆8年)。同母弟・永瑢が誕生。母・蘇氏は純貴妃になりました。
1745年(乾隆10年)。同母妹・和碩和嘉公主が誕生。
皇后の葬儀で失態・乾隆帝の信用をなくす
1748年(乾隆13年)。富察皇后が死去しました。
長男・永璜と三男・永璋は、すでに次男が死亡していたため、この富察皇后の葬儀で重要な役目を任されました。
ところが、2人は葬儀において失礼な態度をとってしまったのです。
葬儀における「悲しみの表現」の重要性
中国や朝鮮の慣習では、葬儀の出席者は心から悲しんでいるかのように振る舞わなくてはいけません。嘘でもいいので泣かないと「不孝者、薄情者」と言われてしまいます。
ところが一皇子・永璜と三皇子・永璋は泣かなければいけないところで悲しそうにしませんでした。
乾隆帝はこれを見て激怒しました。
「かつて私は三阿哥(三皇子)に希望があると思った。だが今になって三阿哥には満足できないことがわかった。14歳だというのに無知だ」
さらに続けて、二人の皇子に最も重い言葉を投げつけました。
「私は12歳のとき皇祖(康煕帝)が亡くなった時、親孝行を果たすことができた。お前は14歳にもなってそれができないのか。親不孝者が皇位を継げると思うのか、この2人(永璜と永璋)には皇帝を継がせることはできない」
若さゆえの失敗への過酷な仕打ち
乾隆帝は富察皇后を非常に愛していました。だから富察皇后が亡くなったときの落ち込みようも非常に大きかったのです。
それだけなら良かったのですが、なんと周囲の者が富察皇后の死を悲しんでいないと重い罰を与えました。永璋への仕打ちもそのひとつでした。14歳という若さでやってしまった失敗のために皇帝の座を継ぐ資格がなくなってしまうとは、非常に厳しい仕打ちです。
このころはまだ第五皇子の評価もそれほど高くはなかったので、第三皇子にもまだチャンスはあったのです。
循郡王になる
郡王の称号を賜る
それでも、15歳のとき。父・乾隆帝から「循郡王(じゅんぐんおう)」の称号が与えられました。
清朝では皇子のすべてが親王や郡王になれるわけではありません。郡王になれるのも一部だけです。乾隆帝は永璋を皇帝の候補者からは外したものの、息子としては大事に思っていたのでしょう。
父の厳しい指導
乾隆帝は永璋に「循郡王」の称号を与えた時、手厳しい言葉も残しています。
「15歳になっても馬に乗って弓矢を撃つことができない。ふだんから熱心に指導してなかったからだ」
手厳しい表現ですが、永璋はあまり丈夫ではなかったので厳しい練習はできなかったという事情もあったのでしょう。
結核に倒れる
家族を襲った肺の病
永璋だけでなく、同母妹の和嘉公主や生母である純貴妃も、肺の病で苦しむことになりました。
1759年(乾隆24年)。避暑山荘(熱河離宮)に滞在していた純貴妃が肺の病気を発病しました。結核だったようです。
乾隆帝は永璋に対し、護衛部隊を率いて北京までゆっくりと運ぶように命令しました。その後、乾隆帝と皇太后は木蘭(ムーラン)に移動しています。
永璋にも感染、病状は悪化
その後、永璋も姉妹の和嘉公主と同じ肺の病気を発病しました。母である純貴妃の結核が感染ったと考えられます。
病状を憂慮した乾隆帝は、内務大臣を務めていた荘親王・允祿(康熙帝の16皇子)に、病を治すための読経をさせるよう命令しました。
母子の相次ぐ死
1760年(乾隆25年)6月。母の純貴妃が肺病のため死亡しました。
それからわずか2ヶ月後の1760年(乾隆25年)8月。永璋もまた肺病で死亡しました。享年26。
症状などから、親子ともに結核で亡くなったと考えられています。
不運な生涯の結末
永璋は若いときの失敗で次期皇帝の候補から外されてしまいました。
乾隆帝が期待するような優秀な皇子ではなかったのかもしれません。乾隆帝には息子が多いので、どんどんふるい落とされていきます。そして最後は結核という当時の恐ろしい病によって、若くして死亡してしまいました。
運もなかったのかもしれませんね。
ドラマ
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