愛新覚羅 弘晳(こうせき)は廃太子 胤礽の次男。
胤礽は大清帝国の大4代皇帝・康煕帝の皇太子。
弘晳は康煕帝からも愛された皇子でした。
弘晳は胤礽の次男でしたが長男が若くして死亡しているのであと継ぎでした。
父・胤礽は皇太子を廃位させられ自宅謹慎になりましたが。弘晳は皇族として暮らしました。同世代の皇子たちよりも早く郡王や親王になっています。
ところが乾隆帝時代に、謀反疑惑事件が発覚。
弘晳は親王の地位を奪われ失意のまな亡くなってしまいます。
この事件は即位して間もない乾隆帝にはショックな出来事でした。
愛新覚羅 弘晳とはどのような人物だったのでしょうか。
弘晳 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1694年8月25日
没年月日:1742年10月26日
享年:38
姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:弘晳(こうせき)
称号:和碩理親王
旗籍:鑲藍旗
父:允礽 (いんじょう)
母:側福普 李佳氏
正室:嫡福普・烏朗罕濟爾默(ウランハン・ジルマー) ホルチン部ガルザンの娘。
妾:23人
子供
子供:18男、17女
永珹が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝~乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
1694年8月25日(康熙33年7月25日)。紫禁城で生まれました。
父は愛新覚羅・胤礽(いんじょう)。当時・皇太子でした。
母は側福普の李佳氏。
弘晳(こうせき)は幼い頃から祖父・康煕帝のもとで育てられました。
弘晳は賢い子供だったらしく、康煕帝は弘晳を気に入っていました。
康熙47年(1708年)。父・胤礽は皇太子を廃されてしまいます。
康熙48年(1709年)。父・胤礽は皇太子に戻りました。
康熙52年(1714年)。再び胤礽は廃されてしまいます。
康熙53年(1714年)。朝鮮実録によると。朝鮮の使節が清から朝鮮に帰国。使節は朝鮮王・粛宗に清の状況を報告しました。その中に「長孫(弘晳)はとても賢い。だから(胤礽の)廃位は難しいのではないか」と報告しています。
康熙56年(1717年)。朝鮮実録では、朝鮮王が使者に「太子はまだ投獄されているのか?」と聞いたところ、使者は「太子の子(弘晳)はとても賢い。だから他の皇子を太子にするのは忍びないと考えています。それにもかかわらず胤礽は退けなければならなかったのです」と語ったといいます。
このように康煕帝は弘晳が賢いので期待していました。だから他の皇子を太子にたてることができなかった。と朝鮮側は考えていたようです。
康熙61年(1722年)。康熙帝が病に倒れました。死を悟った康煕帝は大臣に遺言を残しました。
朝鮮側の使者が帰国後報告した記録によると
康煕帝は大臣の馬齊(マチ)呼んで「第四皇子 雍親王 胤禛は最も賢い、私の死後、皇位を継ぎなさい。廃太子・允礽、第一皇子・允禔は性格が悪く従わないだろう、拘束したまま衣食をあたえて生涯を終わらせよ。廃太子の次男で私が愛してやまない弘晳には親王の位を与えよ。」と遺言を残した。と朝鮮の使者は報告しています。
清朝の報告では遺言を受け取った大臣は隆科多(ロンコド)になってますが。朝鮮の使者は馬齊から話を聞いたのでしょう。
内容は清朝の記録やその後の出来事とほぼ同じ。面白いのは朝鮮側は廃太子の息子に興味を持って記録を残していることです。
康熙帝の死去。雍正帝が即位しました。
雍正帝の時代
康熙61年(1722年)12月。即位して間もない雍正帝は弘晳に 多羅郡王(ドロイグンワン)の称号を与えました。弘晳は雍正帝の甥で唯一爵位を与えられました。
雍正元年(1723年)。康煕帝の生前から都の郊外に建設していた鄭家荘が完成。400の部屋を持つ大きな城です。雍正帝は允礽とその家族のために作ったと聞かされていたようです。ただ具体的な指示はなかったようなので恒親王 允祺(康熙帝の五皇子)、裕親王 保泰、淳親王允祐、多羅貝勒 満都護、多羅郡王 弘晳たちを分散させて住まわせました。雍正帝は数千の兵で鄭家荘を守らせました。
弘晳の父・允礽は北京の咸安宮に隔離されていました。
弘晳は允礽の次男ですが長男はすでに他界しているので事実上の嫡男です。
雍正帝は弘晳が允禩、允禟のように危険な存在とは思っていなかったようです。それでも完全に信用しているわけではありません。首都から離れた場所に住まわせることにしました。理郡王弘晳の子供は十五阿哥允禑が養育することになりました。
雍正帝としても弘晳が反乱を起こさないように親子を放し、弘晳を都から遠ざけたのです。その一方で様々な良い待遇を与えました。
雍正帝は弘晳に政治的な権力は持たせないようにしましたが、それ以外は自由にさせていました。
弘晳も雍正帝には気を使っていたようです。弘晳にとって雍正帝は叔父ですが「父」と呼んでいました。弘晳は月に一度、都に行って、宮中の会議に出席したり、弓矢を討ったり、儀式に参加することが許可されていました。
雍正元年と2年(1723、1724年)の康熙帝の命日に親族代表として弘晳を参拝させました。
父・允礽の死
雍正2年(1724年)12月。允礽が危篤になりました。雍正帝は允礽の葬儀の準備をはじめ。弘晳に葬儀を主催するように命じました。
12月14日。允礽が病死。死後「和碩理親王」の称号が送られ、親王の格式で埋葬されました。
12月15日。雍正帝は「二哥允礽は康煕帝に罪を犯した。生きている限りは罪人となる。しかし今、允礽は病死した。罪は消え、罪人でなくなった。依然として朕の兄だ。よって罪が消えたため親王の爵位を贈る。また允礽は病死の前このように言っていた。皇上は寛大で感謝している。だから弘皙は父(雍正帝)に仕えよ。と。これは皆二哥允礽の言葉である」と述べました。
そして弘皙に母・李佳氏を鄭家荘に引き取らせ面倒をみるように命じました。
允礽の他の妾にも鄭家荘での暮らしを希望するものは鄭家荘に住まわせ、そうでないものには別の家を与え。国が一生、彼女たちの面倒をみることになりました。
弘皙は「理郡王」の称号を与えられました。
理親王になる
雍正8年(1730年)。弘皙に父と同じ「和碩理親王」の爵位が与えられました。
雍正帝は伝統を守って18歳になるまで皇子たちに爵位を与えないことにしていました。なので、雍正帝の実の息子たちには誰も爵位を与えられていません。
弘皙は同世代の皇族の中では最高の地位にいました。
雍正9年(1731年)9月。雍正の皇后、烏拉那拉氏が病死。雍正帝は実の息子ではなく義理の息子の弘晳に祭祀を行わせました。
雍正帝は弟たちには容赦ありませんでしたが、弘皙には気を使っていたようです。雍正帝が決めたことではないとはいえ。結果的に允礽から後継者の座を奪って死なせてしまいました。後ろめたい気持ちもあったのかもしれません。
雍正11年(1733年)正月。雍正帝の四皇子・弘曆(21歲)、五皇子・弘晝(21歲)に親王の爵位が与えられました。
雍正13(1735年)。雍正帝が病に倒れ死去。四皇子・弘曆(乾隆帝)が即位しました。
9月。乾隆帝は理親王・弘晳に允禕と一緒に雍正帝を祀りお供え物をするように命じました。
理親王・弘晳の反逆事件
雍正帝時代はおとなしくしていた弘晳でしたが。乾隆帝の即位には不満があったようです。
弘晳は、荘親王 胤祿、貝子 弘普、弘昇、弘昌、寧郡王 弘晈たち乾隆帝に不満をもつ王族と連絡をとりあい派閥を作るようになりました。
理親王 弘晳の贈り物で乾隆帝が激怒
乾隆4年(1739)8月。弘晳は乾隆帝の誕生日を祝うため贈り物をしました。
ところが弘晳の贈り物を見た乾隆帝は激怒します。弘晳が贈ったのは黄色の輿でした。
黄色い轎子は皇帝しか乗ることができません。
乾隆帝は「弘皙は私の誕生日の贈り物として黄色い轎子を贈ってきた。もし私が受け取らなかったら。自分で使うつもりだろう」と怒りました。
乾隆4年(1739年)10月16日。乾隆帝は「弘皙は允礽の子だ。康熙帝のとき親子とも断罪されて家に幽閉された。我が父・雍正帝は弘皙に郡王、そして親王の爵位を与え厚く処遇した」「しかし弘皙は私を尊敬せず、荘親王に媚を売り、自分を旧東宮の嫡子だと思っていた」
注:康煕帝・雍正帝時代に弘皙が断罪されて父とともに幽閉された記録はありません。乾隆帝の言いがかりです。
さらに、宗人府(王族を調査する部署)の調査で、荘親王 胤祿、弘昇、弘普、弘昌、寧郡王 弘晈と派閥を作っていたことがわかりました。
乾隆帝は弘皙から親王爵位を剥奪。屋敷で暮らすことは許されましたが、城から外に出ることは許されません。息子は都に連れて行かれました。
理親王の地位は弘皙の弟・弘㬙(允礽の十男)に継がせました。そして弘㬙に「理郡王」の爵位を与えました。
他の皇族たちも爵位を奪われたり、処分を受けました。
乾隆4年(1739年)12月。弘皙は「呪術師アンタイに降霊術を行わせ、ジュンガルが攻めてくるかどうか、世の中が安泰かどうか、皇帝の寿命はどうか、自分が将来どうなるのか占わせた」と告発されます。
それを聞いた康煕帝は激怒。弘皙は都に呼び出されて理恪郡王・弘㬙の監視下に置かれました。
弘皙は「四十六」という名前に変えさせられました。当時46歳だったからです。
乾隆7年(1742年)9月28日。弘晳が死去。死因は不明です。年49。
乾隆43年(1778年)正月。康煕帝は允禩、允禟、弘晳とその子や孫たちを皇族に戻し名前を復活させました。爵位や称号は戻しませんでした。
弘晳の反逆事件についてはこちらでさらに詳しく紹介しています。
テレビドラマの愛新覚羅 弘晳
乾隆秘史 2016年、中国 演:李誠儒
原題「糊塗縣令鄭板橋」 2016年、中国 演:杜奕衡
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