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乾隆帝時代におきた 理親王・弘晳の反逆事件「弘晳逆安」

大清 1.3 清の皇子・男の皇族

清朝の第6代皇帝・乾隆帝は1735年10月8日に即位しました。60年以上在位して様々な実績を残した乾隆帝ですが。即位して間もないころは不安定な時期でした。

若い乾隆帝に衝撃をあたえたのが。乾隆4年(1739年)におきた弘晳と彼らを支持する皇族たちの反逆疑惑です。

「弘晳逆安」といいます。

乾隆帝に不満を持つ皇族は弘晳を中心に派閥を作って活動しました。

康熙帝の時代から皇子や重臣が集まって派閥を作り、皇帝と対立するのが問題になりました。また中国の派閥には賄賂が飛び交うのが当たり前です。

そのため康煕帝、雍正帝の時代から何度か派閥は弾圧を受けています。

中央集権的な政治をめざす乾隆帝も皇子たちの派閥を警戒しました。

なぜ弘晳たちは派閥を作ったのか?その結末はどうなったのか紹介します。

 

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弘晳の反逆がおきるまでのいきさつ

皇帝への権力集中を進める乾隆帝

清朝は王族の力が強い王朝でした。ヌルハチの時代から一族が力をあわせて一緒に戦い、帝国を作りました。

これは満洲人の特徴というより遊牧民全体に共通する特徴です。遊牧民は独裁を嫌い皆で協力するのを好む民族です。そのかわり、まとまりがありません。カリスマ的なリーダーがいなくなるとすぐ壊れます。

中華王朝は独裁的で、ピラミッド的な組織を作って皇帝が支配します。組織がしっかりしていれば国は安定します。君主が多少無能でも国を維持できます。

雍正帝や乾隆帝が目指したのは遊牧民型の国ではなく中華王朝型の国です。

雍正帝は皇帝の力を強めるため従わない皇族は容赦なく切り捨ててきました。

乾隆帝も父と同じように中央集権化を進めました。

乾隆帝は鄂爾泰(エルタイ)、張廷玉(ちょう・ていぎょく)たち自分が選んだ大臣を重要な役職につけました。親王やその子は地位は高いけれども権力のない名誉職的な要職につけました。そのため不満をもつ皇族もいました。

乾隆帝と弘晳の関係

弘晳は康熙帝の皇太子だった胤礽の嫡男です。弘晳は次男ですが長男は幼くして病死しているので、弘晳が跡継ぎでした。

父・胤礽は皇太子でしたが廃されました。その後、即位したのが雍正帝。

弘晳は雍正帝時代はおとなしくしていました。雍正帝を父と呼び雍正帝の命令には従ってきました。

そのおかげで同世代の皇子たちの中では一番はやく親王になり、それなりの地位を築いていました。

雍正帝が容赦なく胤禩、胤禟、胤禵たちを粛清しているのを見て。逆らうとどんな目にあるのかよくわかっていたでしょう。

弘晳は雍正帝には素直でした。でも乾隆帝の即位には不満があったようです。

雍正帝は皇太子は発表しなかったものの、心のなかではすでに決めていました。周囲の者も弘暦(乾隆帝)は後継者になると思っていたようです。

今さら弘晳が皇帝になるとは考えられません。

でも弘晳は同世代の皇子の中では年長者で一番はやく親王になりました。かつての皇太子の嫡男というプライドもあったでしょう。

弘晳は祖父・康煕帝のもとで育てられ可愛がられていました。ところが父・胤礽が皇太子を廃されると弘晳の扱いも微妙になってきます。

さらに晩年の康煕帝は胤禛(雍正帝)の息子・弘暦を大変気に入ってかわいがっていました。康熙帝の寵愛が自分から弘暦に移ってしまった。

弘晳は年下の乾隆帝への対抗意識みたいなのはあったかもしれません。

そこで同じように不満をもつ王族と連絡をとりあい派閥を作るようになりました。

自分が皇帝にはなれなくても。昔のように皇族が政治に参加して皇帝を牽制できる程度の力はもちたい。と思っていたかもしれません。

 

正当性をめぐる争い

康煕帝は最後まで後継者を公式発表せず、皇位継承のルールも決めずに崩御しました。

そのため雍正帝は即位した直後から敵対する派閥から批判を受け続け、様々な噂話が飛び交いました。

ドラマなどでは雍正帝と八阿哥・胤禩派の対立が有名です。
でも他にも問題がありました。

廃太子・胤礽の嫡男・弘晳の存在です。

雍正帝は後継者の庶子。
胤礽は廃太子とはいえ康熙帝の嫡子です。

満洲人はもともと嫡子(正室の子)と庶子(側室の子)の区別はあまりしませんが。康煕帝以降、気にするようになりました。配下の漢人や儒教に染まった人たちは非常に気にします。

しかも弘暦(乾隆帝)は雍正帝の庶子。
弘晳も胤礽の庶子ですが。

康煕帝から見れば
弘暦(乾隆帝)=康熙帝の庶子庶子
弘晳 =康熙帝の嫡子庶子

康煕帝は弘晳を高く評価していました。雍正帝も弘晳に気を使って、同世代の中で一番に親王にしたり様々な儀式に世代を代表して出席させていました。

弘暦(後の乾隆帝)や支持者からすると弘晳は非常に目障りな存在でした。

弘晳と弘暦(乾隆帝)はお互いにライバルとして意識する関係にあったのです。

理親王 弘晳を中心に派閥ができる

弘晳の仲間たち

弘晳と親しくなった皇族には次のような人たちがいました。

荘親王 允禄(そうしんのう いんろく)
 康熙帝の十六皇子。乾隆帝になって形だけの名誉職に回された親王です。

貝子 弘普(ベイセ こうふ)
 荘親王 胤祿の次男です。

弘昇(こうしょう)
 弘昇は康熙帝の五男、恆親王・胤祺の長男。できが悪く親からも厳しく叱られていました。恆親王は引き継ぐことができませんでした。乾隆帝は弘昇には軍隊の事務の役目を与えていましたが、それでは満足しませんでした。

貝勒 弘昌(ベイレ こうしょう)
 怡親王胤祥の長男。弘昌は子供の頃から物覚えが悪く学習しないので父・胤祥は家から出しませんでした。胤祥の死後、雍正帝によって解放されましたが性格は悪かったようです。

寧郡王 弘晈(ねいぐんおう こうきょう)
 怡親王 胤祥の四男。父・怡親王胤祥の死後。怡親王は七男の弘曉が引き継ぎました。これは 胤祥の意志でしたが。怡親王になれなかった弘晈は不満だったのでしょう。

弘晳は「旧東宮嫡男」と名乗り不満をもつ皇族たちと連絡をとりながら派閥を作るようになりました。

乾隆3年(1738年)ごろより康煕帝は弘皙の派閥の存在に気づいていたようです。でもよくわからなかったので調査をつづけ、弘皙たちには処分はありませんでした。

理親王 弘晳の贈り物で乾隆帝が激怒

乾隆4年(1739)8月。弘晳は乾隆帝の誕生日を祝うため贈り物をしました。

ところが弘晳の贈り物を見た乾隆帝は激怒します。

弘晳が送ったのは黄色の轎子(きょうし)でした。前後で人が担ぐ籠です。日本の駕籠(かご)と違って椅子に座った状態で乗れる駕籠です。

黄色い轎子は皇帝しか乗ることができません。

乾隆帝は「弘皙は私の誕生日の贈り物として黄色い轎子を贈ってきた。もし私が受け取らなかったら。自分で使うつもりだろう」と怒りました。

皇帝への贈り物に黄色を使うのは敬意の現れですから禁止されていたわけではありません。あきらかに言いがかりです。

でもそれは乾隆帝が弘晳を処分する意志を決めたという合図でした。

弘皙の派閥への追求

乾隆4年(1739年)9月。乾隆帝のもとに密告がありました。そこで名前のあがった弘昇を捕らえて尋問しました。

乾隆帝はさらに宗人府(王族を調査する部署)に弘皙を調べるように命令しました。

乾隆4年(1739年)10月16日。乾隆帝は「弘皙は允礽の子だ。康熙帝のとき親子とも断罪されて家に幽閉された。我が父・雍正帝は弘皙に郡王、そして親王の爵位を与え厚く処遇した」「しかし弘皙は私を尊敬せず、荘親王に媚を売り、自分を旧東宮の嫡子だと思っていた」

注:康煕帝・雍正帝時代に弘皙が断罪されて父とともに幽閉された記録はありません。この部分については乾隆帝の言いがかりです。

弘皙は取り調べの場でこうした乾隆帝の言い分に抵抗しました。

ところが宗人府(王族を調査する部署)の調査で、荘親王 胤祿、弘昇、弘普、弘昌、寧郡王 弘晈と派閥を作っていたことがわかりました。

弘皙たちへの処分

乾隆帝は弘皙から親王爵位を剥奪。屋敷で暮らすことは許されましたが、城から外に出ることは許されません。息子は都に連れて行かれました。

理親王の地位は弘皙の弟・弘㬙(允礽の十男)に継がせました。そして弘㬙に「理郡王」の爵位を与えました。

荘親王 胤祿
 親王爵位は残されました。でも全ての役職から外されました。何の力ももたない形だけの親王で余生をすごしました。

弘昇
 監禁。晩年は信頼を取り戻し侍衛などを務めました。

貝子 弘普
 貝子から鎮国公に降格。役職も解任されました。

貝勒 弘昌
 貝勒の爵位を剥奪。

寧郡王 弘晈
 爵位は残されましたが職を失いました。政治の場から完全に退いて余生は菊の栽培をしたり、扇子を作って暮らしました。弘晈の作った扇子は評判で学者や知識人に人気がありました。

 

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派閥への粛清が反逆事件に発展

でも弘皙への処分はこれだけでは終わりませんでした。

乾隆4年(1739年)12月。宗人府が調べていたところ。「弘皙が呪術師アンタイに降霊術を行わせ、ジュンガルが攻めてくるかどうか、世の中が安泰かどうか、皇帝の寿命はどうか、自分が将来どうなるのか占わせた」ことがわかりました。

さらに弘皙は公式の仕事は別に、会計、祭祀その他の業務を行う事務所を作っていたことが分かりました。それは国の組織を真似たもの。ままごとみたいな組織でしたが。

皇帝からみれば謀反を企んでいたと思われても仕方ありません。

それを聞いた康煕帝は激怒しました。

派閥を作るのを罰していたのがいつの間にか弘皙が謀反を企んでいるんじゃないか?という話になりました。

乾隆帝は弘皙の罪は、胤禩、胤禟たちの罪(派閥を作って徒党を組む)より更に重い、弘皙への刑罰を重くするべきだと考えました。

弘皙は都に呼び出されて理恪郡王・弘㬙の監視下に置かれました。

弘皙は「四十六」という名前に変えさせられました。当時46歳だったからです。

乾隆7年(1742年)9月28日。弘晳が死去。享年49。

乾隆8年(1743年)。弘普 死去。享年31。死後、世子に追封。

乾隆19年(1754年)。弘昇 死去。享年59。晩年は侍衛、領侍衛內大臣などを務めました。死後、貝勒(ベイレ)に追封。

乾隆29年(1764年)。寧郡王 弘晈 死去。享年51。

乾隆32年(1767年)。荘親王 允禄 死去。享年76。

乾隆36年(1771年)。弘昌 死去。享年66。

乾隆43年(1778年)正月。康煕帝は允禩、允禟、弘晳とその子や孫たちを皇族に戻し名前を復活させました。爵位や称号は戻しませんでした。

 

 

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