阿史那(アシナ)皇后(武徳皇后)は北周の武帝・宇文邕(うぶん よう)の正室。
テュルク系遊牧民の国・突厥出身です。
鮮卑系国家・北周と突厥の同盟のため、武帝に嫁ぎました。
国と国の同盟のための結婚です。
史実の阿史那(アシナ)皇后はどんな人物だったのか紹介します。
阿史那皇后の史実
いつの時代の人?
生年月日:551年
没年月日:582年
姓 :アシナ(阿史那)氏
名称:不明
国:突厥可汗国(とっけつ、テュルク)→北周
地位:北周皇后
称号:天元上皇太后、 武徳皇后
父:ムカンカガン(木汗可汗)
母:不明
夫:宇文邕(北周・武帝)
兄弟:アパカガン(阿波可汗)
子供:なし
彼女は北周の第3代皇帝・武帝の正室です
日本では古墳時代~飛鳥時代になります。
突厥とは
突厥(とっけつ、テュルク)はモンゴル高原で暮らすテュルク系遊牧民の集団です。中国では「突厥」と書きます。
テュルクとは中央アジアからアルタイ山脈、モンゴル高原のあたりにいた遊牧民族。匈奴が勢いを失うとモンゴル高原で勢力を拡大していました。
突厥は漢字は使わずアラビア文字のようなソグド文字やルーン文字のような突厥文字を使っていました。漢字名は中国での呼び名です。突厥文字の資料はあまりないので漢字名で紹介します。
5世紀頃。突厥は遊牧民国家の柔然(じゅうぜん)に服従していました。突厥は鍛奴=製鉄奴隷とよばれるくらい製鉄が得意な部族でした。
突厥部を率いるのが阿史那(アシナ)氏でした。
6世紀になって柔然の力が衰えると独自に西域や西魏と交易を行い力を付けました。
551年。突厥の部族長・土門(ブミン)は西魏から長楽公主を迎えて妃にしました。
突厥は552年に柔然から独立。土門は伊利可汗(イリグカガン)の称号を名乗ります。突厥可汗国の誕生です。
その後、伊利可汗が死去。息子の乙息記可汗が即位しました。
アシナ氏の結婚が決まるまで
551年。阿史那皇后は突厥(テュルク)で生まれました。
父は突厥の木汗可汗(ムカンカガン)
阿史那皇后は三女です。
彼女が生まれたときは父はまだ可汗(カガン=王)ではありません。
阿史那皇后は顔や姿が美しく、琴が上手でした。
父・ムカンカガンは顔は大きく、肌は赤く、目はラピスブルーのようだったと記録されています。アシナ氏はテュルク系民族なのでコーカソイド(白人)の血が入っていたのでしょう。遊牧民は民族に関係なく仲間にするので、族長がコーカソイドの特徴をもつからといって他の人も同じとは限りません。少なくともアシナ一族はコーカソイドの特徴をもっていたようです。
阿史那皇后はコーカソイド(白人)とモンゴロイド(黄色人種)のハーフのような外観だったのかもれません。
北周を作った鮮卑は漢民族と同じモンゴロイド。同じ服を着れば見た目ではあまり変わらなかったでしょう。北周の人にとってアシナ皇后は顔を見ただけで「西域から来ました」という風変わりな姿に見えたかもしれません。
553年。乙息記可汗が死去。
父が可汗(カガン=遊牧民の王)になりました。木汗可汗(ムカンカガン)と名乗りました。
木汗可汗は即位するといきなり柔然(じゅうぜん)可汗国を滅ぼし。西のエフタルも滅ぼしました。さらに東にいた契丹(きったん)を敗走させました。北のキルギズを併合。
突厥の支配地域は東は高句麗と接する地域、西はアラル海(カザフスタン)まで広がりました。
突厥は数十万の兵をもつ巨大な帝国になりました。
当時、突厥の南では東魏と西魏が争っていました。
西魏の実力者・宇文泰は東魏(北斉)に対抗するため、突厥を味方にしようと何度も使者を送りました。
554年。宇文泰が木汗可汗の娘を北魏に嫁がせるように求めてきました。
木汗可汗は宇文泰の要求を認め、娘を嫁がせる約束をしました。
556年。宇文泰が死去。
いったん結婚の話はなくなります。
西魏で宇文護が反乱を起こして宇文泰の息子・宇文覚(うぶん かく)を即位させました。北周が誕生しました。
武帝の時代に突厥と北周が同盟
560年。武帝・宇文邕(うぶん よう)が即位。
北周は突厥の力を借りて北斉を滅ぼそうと考えます。
北周がアシナ氏との婚姻を求め、北周は何度か突厥に使者を送ってきました。
木汗可汗は一度は娘と武帝との婚姻を認めます。ところが北斉からも婚姻の話が来ました。
木汗可汗は北斉と北周のどちらの味方をするか考えました。
565年。武帝は陳国公 宇文純・許国公 宇文貴・神武公 竇毅・南安公 楊薦たち120人の使節団を派遣しました。
木汗可汗は北斉と同盟しようと考え、北周の使節団を拘束しました。宇文純たちは先に約束していたのは自分たちだと講義しますが木汗可汗は考えを変えません。
ところがそのとき落雷があって突風が吹き荒れ、木汗可汗のゲル(大型のテント)が吹き飛ばされました。木汗可汗は「天の怒り」だと思ってアシナ氏を北周に嫁がせることにしました。
つまり突厥は北周と同盟することにしたのです。
アシナ氏は北周の兵に守られながら北周の首都・長安に向かいました。
北周皇后になるものの冷えた夫婦関係
568年3月。アシナ氏は長安に到着。武帝・宇文邕に迎えられ婚儀が行われました。アシナ氏は北周皇后になりました。
阿史那皇后は美しく、行動も称賛されました。武帝は敬意をもって接していました。
ところが。武帝は同盟のために結婚したものの、突厥に支配されるのではないかと恐れていました。
そこで阿史那皇后を寵愛することはありませんでした。そのため二人の間に子供はできませんでした。
572年。父・木汗可汗が死去。木汗可汗の弟・他鉢可汗が即位しました。
572年。竇(とう)氏とその父・竇毅は武帝に進言しました。「四方は静まりません。突厥は強く勢いがあります。叔父上も感情を抑えて愛しんでください。そうすれば南の陳や東の斉に患わされることはないでしょう」
竇毅は匈奴系部族の出身。竇氏の母は宇文泰の五女・襄陽長公主です。
竇氏はこのとき6、7歳。竇毅に言わされたのかもしれませんが。姪に言われると武帝もそのとおりだと思い、竇氏の進言を受け入れました。竇氏は後に李淵(唐・高祖)の妻になります。
577年。武帝は北斉を滅亡させました。
すると叔父の他鉢可汗は北斉の残党を援助。北斉の領土だった幽州に攻め込んできました。突厥は北斉と北周のどちらかが一方的に強くなって力をつけるのを避けようとしていたのです。
実家が敵になってしまいました。
武帝は突厥に攻め込む準備を始めました。
578年。武帝・宇文邕が死去。
宣帝・宇文贇(うぶん いん)が即位しました。
阿史那氏は皇太后になりました。
突厥攻めは中止になりました。
579年2月。「天元皇太后」の称号が与えられました。
580年2月。「天元上皇太后」の称号が与えられました。
580年5月。宣帝が死去。
静帝・宇文闡(うぶん せん)が即位しました。
阿史那氏は太皇太后になりました。
隋建国後
581年3月。楊堅が反乱を起こして北周が滅亡。隋が建国しました。楊堅は北周皇族のほとんどを処刑しました。
しかし阿史那氏は殺されませんでした。
582年4月23日、32歳で死去。
諡は「徳」。武帝の諡とあわせて「武徳皇后」とよばれます。
隋の文帝・楊堅は失礼のないように葬るよう命じました。武帝・宇文邕が葬られている孝陵に合葬されました。
阿史那皇后の知られざる功績
突厥と同盟できた北周は北斉との戦いで非常に有利になりました。
阿史那皇后個人は政治的にはそれほど目立った動きはしていないように見えるかもしれません。
アシナ氏と一緒にやってきた人びとに胡琵琶が得意な人たちがいて音楽や踊り、楽器を北周に伝えました。
武帝も阿史那皇后が運んできた西域の音楽や踊りはは好きだったようです。
北周皇帝が突厥の姫と結婚したので、亀茲や疏勒など西域(タリム盆地・現在の新疆ウイグル自治区あたり)のオアシス都市の人びとが長安にやってくるようになりました。
長安の街でも西域の文化が広まりました。
唐の文化は国際的といわれます。国際化は北周の阿史那皇后の時代から始まったといえます。
ドラマ
蘭陵王 2013年、中国 演:王笛
蘭陵王妃 2016年、中国 演:傅穎
獨孤伽羅 2017年、中国 演:黄梓熙 役名:阿史那云
突厥公主。宇文邕が皇帝に即位後。婚姻のために北周の使節が突厥に向かう場面も描かれます。史実通り宇文邕からは愛されずに冷えた関係。独孤曼陀と親しくなって悪巧みに利用されます。独孤伽羅と親しいとは言えませんが、敵対とまではいきません。
獨孤皇后 2019年、中国 演:海陸 役名:阿史那頌
ドラマでは突厥ではなく「北国」出身。史実と違い宇文邕が皇帝になる前から結婚しています。邕のことが大好きですが、邕からは冷たくされています。邕が想いをよせる独孤伽羅を嫌っています。
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