法王(ほうおう、ポムワン)扶余宣(ふよせん、プヨ・ソン)は百済の第29代国王。
法王 扶余宣は 熱心な仏教信者として知られる一方、勇敢な将軍としての顔も持ち合わせていました。
高句麗との戦では百済軍を率いて奮戦し、国を守り抜きました。即位後は殺生を禁じ仏教寺院を建立するなど、仏教国建設に尽力。
しかし、その過剰な宗教観は人々の生活に大きな影響を与えました。
ドラマ「ソドンヨ」ではプヨ・ソンは悪役として描かれるなど、歴史上の人物でありながら様々な解釈がなされています。
この記事では史実の法王とドラマ「ソドンヨ」のプヨソンを紹介。ドラマと史実の違いを知ることで、ドラマがもっと楽しめるかもしれませんよ。
法王 扶余宣(プヨソン)の史実
プロフィール
姓:扶余、扶餘(ふよ、プヨ)
名:宣(せん、ソン)
称号:法王(ほうおう)
国:百済(南夫余)
生年月日:不明年
没年月日:600年
在位期間: 599 – 600年。
在位:2年
中国の歴史書「隋書」では「余宣」の名で登場します。
同時代の主な人物()内は在位年。
高句麗:嬰陽王(590-618年)
新羅:真平王(579-632年)
隋: 文帝(581-604年)
日本:推古天皇(593-628年)
日本では飛鳥時代になります。
威徳王の家族
母:不明
子:武王
父は百済の第28代国王 恵王。
母は不明。
子は武王。
威徳王の家系図
威徳王の生涯
法王 扶余宣(ふよせん、プヨ・ソン)の生年は不明。
父は28代百済国王の恵王。
母は不明です。
扶余宣が生まれた時は父・ 扶余季(ふよき、プヨ・ゲ)はまだ国王ではありません。祖父・聖王が国王だったのではないでしょうか。
高句麗と戦う
598年。隋と高句麗が戦争になると威徳王は隋に使者を派遣。高句麗を批判して次に隋と高句麗が戦争になったら百済が高句麗と戦うための軍を出すと提案しました。このときは隋の文帝が戦争を続ける気がなかったので百済の提案を断りました。
でも高句麗がそれを知ってしまいます。高句麗の嬰陽王は激怒して百済攻撃を命令。
高句麗軍が百済と高句麗の境に攻めてきました。この時、扶余宣は将軍になって軍を率いて高句麗軍と戦いました。
百済軍は3千人が捕虜になり大きな犠牲を出しますが、高句麗軍は撤退。なんとか百済を守ることに成功します。
598年12月。威徳王が死去。父の恵王が即位。
ところが恵王は高齢だったので599年の末に死去。わずか1年足らずの在位でした。
恵王の息子・扶余宣が即位。法王の誕生です。
法王の時代
熱心な仏教信仰
法王 扶余宣は軍を率いて戦う勇敢な人物でしたが。熱心な仏教の信者です。
仏教にもいろいろありますが、このころ百済で流行っていた仏教は弥勒信仰です。法王の祖父・聖明王が熱心な仏教の信者だったので法王も祖父や彼が残した仏教の影響を受けているのかもしれません。
法王も熱心に弥勒菩薩を信仰。都の泗沘(しひ、サビ)に弥勒寺(王興寺)を建てました。しかし完成したのは次の武王の時代です。
殺生の禁止
法王は仏教を崇拝するあまり、殺生を禁止しました。
それだけではなく狩猟用の鷹を放し、漁師たちには網や魚を捕まえるための道具を燃やすよう命令しました。でも狩猟や漁業が禁止されるとそれを生業にしていた人たちが困りますし。食料も手に入りにくくなります。人々の生活にも影響が出るほどでした。
生き物を大切にするのは悪いことではありませんが。理想を優先するあまり人々の生活に影響が出ては意味がありません。
どこか、徳川綱吉の「生類憐れみの令」に似たものがあります。
法王の最後
600年5月。法王が死去。死因、享年は不明。
在位期間はわずか1年6ヶ月でした。
死後、「法王」の称号が贈られます。もちろん仏法を厚く信仰したからです(仏教という言葉は当時はなく仏法と呼ばれていました)。
次の王には息子の璋(武王)が即位しました。
テレビドラマのプヨソン
ソドンヨ SBS、2005年 演:キム・ヨンホ 役名:プヨ・ソン
法王 プヨソンは韓国ドラマ「ソドンヨ」の中では悪役として登場。主人公チャンの最大の敵として立ちはだかります。
威徳王の甥。恵王の息子。
ドラマでは「三国史記」の記録とは違いチャン(武王)はプヨ・ソンの息子ではなく従兄弟の設定です。
権力に執着する人物として描かれ。平気で人を殺します。
ドラマの中では威徳王の息子に阿佐太子がいるて、そのままでは父のプヨ・ゲは王になれません。そのため阿佐太子派とプヨゲ派が争っています。プヨソンは父を王座につけるため阿佐太子を排除。
父プヨゲを王(恵王)にすることに成功。しかしプヨゲは父・恵王と対立するようになります。その恵王が病死すると、プヨソンが王(法王)になりました。
プヨソンが王になったばかりのころはチャンがいたのでまともでした。
やがてチャンが第四王子の正体を表し挙兵すると恐怖のあまりパニックに。兄弟や貴族たちを拷問したり残虐な行いをするようになります。味方にも反乱を起こされて逃亡しますが捕らえられました。
側近のフクチピョンともに見せしめのため市中を引きずり回されますが威徳王や阿佐太子の幻を見て土下座して命乞い。あまりにもの哀れな姿に見かねたフクチピョンが刺して殺しました。でもプヨソンはフクチピョンを恨むことなく感謝の言葉を残して息絶えます。
武王プヨ・チャンは法王プヨ・ソンの子ではない?
ドラマの法王・プヨソンは仏教を厚く信仰して命を大切にしたという歴史上の法王とはまったく違う描かれ方をしています。これは「ソドンヨ」が「三国史記」ではなく「北史」や「日本書紀」の記録をもとに作っているため。武王は法王の子ではなく威徳王の子になっているからです。
「三国史記」の内容だと、阿佐太子がいませんから。威徳王の死後は恵王-法王-武王とすんなり親から子へ王位が受け継がれます。それではドラマとして面白くありません。
「北史」の「武王は威徳王の子」つまり武王は法王の従兄弟。さらに「日本書紀」の威徳王には王子阿佐がいる。を組み合わせれば、威徳王のあとの後継者争い。法王 プヨソンと武王 プヨチャンのいとこ同士の争いを描くことができます。
史実はどちらが正しいのかは分かりません。ドラマとしては「ソドンヨ」の設定の方が面白いのは間違いないですね。
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