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「夫はイヤ、息子の近くに埋葬しろ」孝荘文皇后(太皇太后)ブムブタイの最後のわがまま

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

孝荘文皇后は清朝第2代皇帝・崇徳帝(ホンタイジ)の側室
3代皇帝・順治帝の生母。

本名は「ブムブタイ」

ブムブタイの墓は順治帝の墓の近くにあります。

でもブムブタイは夫のホンタイジと同じ墓ではなく、順治帝の墓の近くに埋葬されているのです。

これには生前のブムブタイが「順治帝の近くに埋葬して欲しい」と遺言を残したからです。

どうしてそのようなことを言ったのでしょうか?

ブムブタイの最後の願いと墓にまつわる謎を紹介します。

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孝荘文皇后(ブムブタイ)とは

「孝荘文皇后」の称号がありますが。ブムブタイは生前に皇后になったことはありません。

2代皇帝・ホンタイジの側室。荘妃 です。

そして。
3代皇帝・順治帝の生母(皇太后)。
4代皇帝・康煕帝の祖母(太皇太后)です。

出身はモンゴル・ホルチン部。
ホルチン部首領ジャイサンの娘。

由緒あるボルジギン(ボルジギト)家の生まれで、チンギス・ハーンの子孫です。

ホンタイジ亡き後、息子の順治帝を皇帝にしました。

順治帝亡き後、孫の康煕帝を支えました。

順治帝・康煕帝時代の前半に後宮で大きな力を持った女性です。

孝荘文皇后がどういう人物なのかはこちらを御覧ください。

ブムブタイ(孝荘文皇后・昭聖太皇太后)とはどんな人?
孝荘文皇后はホンタイジの側室。昭聖太皇太后ともいいます。本名はブムブタイ。 順治帝の生母、康煕帝の祖母です。 教育熱心で順治帝や康煕帝の子供時代に漢民族や西洋の教育を受けさせました。ホンタイジの側室なので生前は皇后にはなったことはありません...

 

息子との合葬を望む

ブムブタイ 便服

ブムブタイ

清朝, Public domain, via Wikimedia Commons

康熙26年(1688年1月27日)。太皇太后(孝荘文皇后)ブムブタイは紫禁城慈寧宮で死去しました。享年75歳。

息を引き取る前、ブムブタイは康煕帝に遺言を伝えました。

「太宗(ホンタイジ)は墓所に安置して長い間安らかな眠りについています。邪魔してはいけません。

それに私はあなた達、父子を愛しています。孝陵(順治帝の陵墓)の近くに安置してください。そうすれば私の心は休まります」

清朝の習慣では皇帝の妻や側室は皇帝と同じ陵墓に合葬されます。

伝統に従えばブムブタイはホンタイジと同じ陵墓(昭陵)に入るはずです。

でもブムブタイはホンタイジとの合葬を希望しませんでした。

「眠りを妨げるから」と遠慮がちに言ってますが。ホンタイジも側室の棺を入れる工事くらいは許してくれるでしょう。

ブムブタイは

夫より息子と一緒の方がよかった。

のではないでしょうか。

ホンタイジとブムブタイの仲は悪くはありません。

でも特別良いというほでもなかったようです。何人かいる側室の一人でした。

しかもホンタイジの正室はブムブタイの叔母ジェルジェルです。

ブムブタイはジェルジェルの勧めでホンタイジの側室になりました。完全に政略結婚です。

幸いにも息子・フーリンを授かりましたが。幼い息子(6歳)を残して死去したホンタイジにどの程度愛情があったかはわかりません。

ドルゴンと結婚したから墓に入れなかった?

ところが中国ではホンタイジの死後、ブムブタイはドルゴンと再婚した。

というがあります。

ホンタイジは後継者を決めずに死去したので後継者争いが起こりました。

ホンタイジの長男・ホーゲと
ホンタイジの弟・ドルゴンが争いました。

このまま二つの派閥が争ったら共倒れになります。そこで最終的にはどちらでもないホンタイジの九男・フーリン(順治帝)が即位しました。

このとき動いたのがブムブタイです。

フーリンの母・ブムブタイはモンゴル・ホルチン部の首領の娘。チンギス・ハーンの子孫ボルジギン氏の出身です。

血統では間違いなくホンタイジの息子の母では一番です。当然、ブムブタイの後ろにはモンゴル軍団が付いています。

満洲皇族の愛新覚羅氏とモンゴル王家でチンギス・ハーンの子孫。両方の血を受け継ぐフーリンが皇帝になれば周囲の人達も納得しやすかったでしょう。

そしてフーリンが皇帝になり。
ドルゴンが摂政になりました。

ドルゴンは摂政王と呼ばれるほどの力を持ちます。

そこで後世の人たちはブムブタイは自分の息子を皇帝にするために実力者だったドルゴンと再婚した。と噂したのです。

中国人はこういう男女関係のゴシップネタが大好きです。

妻が夫の兄弟と再婚する習慣はあったが・・・

確かに。

満洲人や遊牧民の間には夫が死亡したらその妻は夫の兄弟と結婚する。という習慣がありました。

これをレビラド婚といいます。

ところが、ホンタイジの時代にレビラド婚は禁止しました。

ホンタイジが満洲人・モンゴル人・漢人を支配下にして大清帝国を名乗ったとき。中国の習慣が入ってきて「レビラド婚は野蛮人の習慣だ」という事になったからです。

だからホンタイジの弟のドルゴンがいきなりそれを破ることはないでしょう。

そんなことしなくてもドルゴンなら権力を握ることができます。

事実。ブムブタイとドルゴンが結婚したという記録はありません。

清に反感をもつ明の残党が広めたフェイクニュースです。

そのフェイクニュースを真に受けた現代人の中には。

ドルゴンは死後、順治帝によって罪人扱いされた。だから夫の弟で罪人と再婚したブムブタイはホンタイジの墓には入れない。

と書く人が今でもいます。

でもやはり

「夫の側より息子の近くがよかった」

のだと思います。

ホンタイジの墓は遠すぎる

もっと現実的な理由もあります。

ホンタイジは盛京(現在の瀋陽市)で死去しました。

ヌルハチとホンタイジの陵墓は盛京にあります。

順治帝は北京で死去。順治帝の陵墓・孝陵は北京の東125キロの場所。現在の河北省遵化市西北部にあります。この場所を順治帝が気に入ったかららしいです。ブムブタイもこの場所が好きでした。

その後の清朝皇帝一族の墓も順治帝の陵墓の周辺に作られました。

孝陵と紫禁城の距離もけっこうありますが。

ホンタイジの墓がある盛京はそれどころではありません。

盛京と北京の距離は直線距離で約600キロ。

直線距離なら東京~函館間、あるいは。
東京~岡山間とほぼ同じ距離です。

自動車も鉄道もない時代にこの距離は遠すぎます。

これでは墓参りもろくに行けません。

なので、順治帝以降の皇族の墓と近い位置に葬っただけ。

なのかもしれません。

お婆ちゃん子 康煕帝は遺言を律儀に守る

とまあ、理由はともかく。

太皇太后ブムブタイは息子の墓に近い所に埋葬を希望しました。

康煕帝は祖母の遺言を守りました。

順治帝が埋葬されている墓の近くに「安奉殿」という建物を建てて、その中に太皇太后ブムブタイの棺を仮安置しました。

陵墓に埋葬すると棺を地下に置くので二度と会えません。

でも仮安置なら会えます。

結局、ブムブタイの棺は37年も埋葬されることなく安奉殿に置かれていました。ブムブタイの遺体がどういう有様だったのか気になるところです。

生前の康熙帝は遠征に出ている年を除けば毎年のように墓参りに来ています。

結局、康煕帝は祖母の棺を埋葬することなくこの世を去りました。

雍正帝が後始末

昭西陵

孝荘文皇后の陵墓(昭西陵)

Siyuwj, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

雍正帝時代。

雍正帝はさすがに「皇帝の妃嬪であり生母でもある曾祖母の亡骸を埋葬しないのはマズイ」と思ったのでしょう。

正式に陵墓が作られブムブタイの棺は地下に埋葬され「昭西陵」と名付けられました。

ホンタイジの陵墓は「昭陵」

ブムブタイの「昭西陵」は西の「昭陵」。距離は離れていますがホンタイジの「昭陵」と対になっている、というわけです。

康煕帝としては祖母の棺をなかなか埋めることができなかったのでしょう。結局、康熙帝の息子の雍正帝が後始末することになったわけです。

康煕帝の お祖母ちゃん子 レベルは重症だっただったのかもしれません。

 

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