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4 宋

4.1 宋の皇帝・男性皇族

趙祐(悼献太子)宋 真宗の息子は9歳で早世

趙祐(ちょうゆう)は10世紀の宋の皇子。 第3代皇帝 真宗 趙恒の次男です。 趙玄祐(ちょうげんゆう)ともいいます。 真宗の息子は6人いましたがほとんどが幼くして亡くなっています。 趙祐もわずか9歳で亡くなってしまいます。 史実の趙玄祐はど...
4.2 宋の皇后・側室・公主

楊妃(楊太妃、章恵皇后)は宋仁宗の育て親

楊妃は10世紀の北宋の女性。 北宋の第3代皇帝真宗 趙恒の側室。 真宗の寵愛をうける劉皇后とは姉妹のように仲が良かったようです。 李氏の生んだ趙受益(仁宗)は劉皇后の子供として育てられました。実際に養育を担当したのは楊妃です。 第4代皇帝 ...
4.3 宋の臣下と人々

曹利用「澶淵の盟」をまとめた功労者が自害に追い込まれたのはナゼ

曹利用は10世紀の北宋の武人で重臣。 1004年に宋と契丹(遼)が戦争したとき。遼との交渉を担当。 和平交渉をまとめました。このときの条約が澶淵の盟です。 無事に和平をまとめた曹利用は真宗から信頼されました。 ところが仁宗の時代、劉太后とそ...
4.3 宋の臣下と人々

王欽若・皇帝に取り入り南北格差の壁を破った宰相

王欽若(おう きんじゃく)は10世紀末から11世紀初期の北宋の大臣。 2代 太宗、3代 真宗、4代 仁宗に仕えました。 寇準とは対立。見栄っ張りで宗教に凝っていた真宗のために封禅や道教の儀式を行いました。そのため莫大な予算を浪費したと批判さ...
4.1 宋の皇帝・男性皇族

趙元份・北宋 真宗 趙恒の弟は穏やかな皇子

趙元份(ちょう げんふん)は10世紀の北宋の皇族で政治家。 第2代皇帝 太宗 趙炅の四男。 第3代皇帝 真宗 趙恒の異母弟です。 穏やかで、言葉使いも丁寧な人物だったと言われます。 真宗が契丹との戦いのため遠征したときには都の留守を任されま...
4 宋

王継忠(耶律宗信)中国史上最も名誉な裏切り者

王継忠(おう・けいちゅう)は北宋の武将。 耶律宗信(やりつ・そうしん)の名前ももっています。 宋の第3代皇帝 真宗に使えました。 ところが王継忠が国境を守っていたとき、契丹との戦争が起こり、捕虜になっていしまいました。 王継忠を気に入った蕭...
4.2 宋の皇后・側室・公主

宋真宗 趙恒(元侃)の正室と側室一覧

宋真宗 趙恒(ちょう・こう)は北宋の第3代皇帝。 皇太子になる前は元侃(げんかん)と名乗っていました。 真宗 趙恒は契丹(遼)と「澶淵の盟」を結んだときの皇帝です。 また真宗 趙恒の正室には中国三大女国主の章献明粛皇后 劉氏(俗説では 劉娥...
4.3 宋の臣下と人々

王継恩・宋の太祖や太宗に信頼され、皇帝の即位に影響を与えた?宦官

王継恩(おう・けいおん)は10世紀の北宋の宦官。 後漢、唐、明の時代には、宦官の独占権の問題がより深刻でしたが、北宋時代には宦官も比較的大きな権力を持っていました。彼らは宮中や後宮で仕えるだけでなく、政治に干渉したり、軍を指揮したりしました...
4.1 宋の皇帝・男性皇族

趙普・趙匡胤兄弟を助けて宋王朝を作った男

趙普(ちょう・ふ)は10世紀の北宋時代の政治家。 北宋の建国者 太祖・趙匡胤に信頼され。趙匡胤の即位を助けました。 北宋の建国後は唐末期の混乱と五代十国の国が不安定だった原因を分析。軍閥を弱体化し、皇帝の手足になる文官を多く採用して君主や朝...
4.1 宋の皇帝・男性皇族

山猫に取り替えられた皇子(宋仁宗)「狸猫換太子」

「狸猫換太子」は中国の民間伝承。 狸猫=山猫の意味です。皇子が山猫と取り替えられたのでこの名前があります。 舞台になっているのは北宋の3代皇帝・真宗~4代仁宗の時代。 仁宗皇帝は真宗の側室・李氏(李宸妃)の子供です。 でも仁宗皇帝は劉皇后(...
4.3 宋の臣下と人々

寇準(こう・じゅん)契丹から宋を守った強行派の重臣

寇準(こう・じゅん)は10世紀末から11世紀初期の北宋の政治家。 2代太宗、3代真宗に仕えました。 かなり怖い人物だったらしく、寇準が段の上に立つと部下たちは震え上がったといいます。 契丹(遼)との戦いでも最も強硬に戦いを主張した人物。 蕭...
4.2 宋の皇后・側室・公主

李宸妃・宋仁宗の生母は生涯皇帝の生母と認められなかった

李宸妃(りしんひ)は、北宋の第4代皇帝 仁宗の生母です。 劉皇后(当時は側室)の侍女でしたが、真宗の側室になりました。死後、章懿皇后(しょういこうごう)の諡号が贈られました。 ドラマの 「大宋宮詞」では 李婉児(り えんじ)(侍女~宸妃) ...
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