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風と雲と雨:チェ・チョンジュンのモデルは実在する?

風と雲と雨 2 ドラマ人物

 

韓国ドラマ「風と雲と雨」ではパク・シフ演じるの主人公 チェ・チョンジュン(崔天中)が、四柱や観相などの占いを使って様々な事件を解決します。

ドラマでは高宗、興宣大院君たち実在の人物に混ざって朝鮮最高の観相師 チェ・チョンジュン(崔天中)が登場。

ということはチェ・チョンジュンは実在するのでしょうか?

いえ、チェ・チョンジュンは架空の人物です。でもモデルになった人はいます。

チェ・チョンジュンのモデルになった人とはどんな人なのか紹介します。

 

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チェ・チョンジュン(崔天中)のモデルは?

 

「風と雲と雨」の原作は新聞に連載されていた小説でした。原作者のイ·ビョンジュ(1921~1992)はこの作品を作った理由をこのように書いています。

「(朝鮮の)開化期にもし当時の知識人、支配層が東学党と合流して「成功した革命」を成し遂げていたらどうなっただろう?彼らが清国と日本の介入を防ぎ、新しい王朝を建設したと仮定してみよう。 私はこのような輝かしい王国を考えてみたかったのだ」

つまり。チェ・チョンジュン(崔天中)は国を改革しようとした知識人や東学党のような人たちをまとめて一人にしたようなキャラクターのようです。

ドラマでは朝廷内の権力争いが中心に描かれますが。小説ではチェ・チョンジュンは後に反乱軍に加わり抵抗活動をします。

ちなみに「東学」とは朝鮮末期に流行った新興宗教。東学党の乱という大規模な反乱の中心になった勢力です。その東学の開祖は崔済愚(チェ・ジェウ)という人物でした。

チェ・チョンジュン(崔天中)の「崔」は崔済愚からとっているのかもしれませんね。

とはいえ。なぜチェ・チョンジュンは占い師なのでしょうか?

実は高宗の即位を「占い」で当てた人の話があるのです。

 

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高宗の即位を予言した男・朴有鵬(パク・ユブン)

高宗の即位を当てた人。それは朴有鵬(パク・ユブン)という人物です。

朴有鵬は朝鮮末期に実在した人物です。実在の朴有鵬は科挙に合格して武官になった人です。

「梅泉野録」という 野史(正式な歴史書ではなく、民間に伝わる噂話を集めた本)に朴有鵬の面白い話が載っています。この話の中では朴有鵬は占い師として登場します。

以下に「梅泉野録」に載ってる話を紹介します。

朴有鵬は朝鮮末期の「易術」と「観相」の名人でした。

朴有鵬は1806年生まれ。

若い頃から観相と易術を勉強。師匠から独眼になればさらに神のように観相を見ることができる。と言われて自分で片目を潰しました。

朴有鵬の妻・杜氏は明の武将・杜思忠の子孫です。

杜思忠は文禄・慶長の役のとき朝鮮を救援するために明から派遣された武将です。でも明に帰らずにそのまま朝鮮で暮らしました。明はいずれ滅びると考えて朝鮮に残ったのだといいます。

杜思忠は風水、占術、観相の名人でした。朴有鵬は妻の実家にあった杜思忠の残した秘伝書を呼んで占いを勉強しました。

 

高宗の即位を予言

あるとき朴有鵬は興宣君 李昰応(イ・ハウン)が暮らす雲峴宮を訪問。遊んでいた次男・李命福(イ・ミョンボク)の顔を見ると「サンガムマーマー(上監様)」と言ってひれ伏してお辞儀をしました。

「上監」とは当時の言葉で大監(テガム)の上の人。つまり「国王」の意味です。マーマー(媽媽)は宮中用語で本来地位の高い女性に使う敬称ですが、朝鮮末期には男性にも使っていました。

驚いた興宣君が「それはどういうことか?」と訪ねたところ。

朴有鵬は「雲峴宮に王気が立ったので訪ねてみたところ、次男が帝王の骨相に生まれ育ったことを見ました」と答えました。

興宣君が「それはいつごろだ?」と尋ねると朴有鵬は「4年後」と答えました。

それでも興宣君は半信半疑で「せっかく占ってもらったので報酬を渡さないといけないが、私は犬のような生活をしておるから払えないのだ」と言いました。

すると朴有鵬は「4年後。次男が王になるのでそのとき報酬を受け取りに来ます。それに、王になる占いをしたのです3万両は欲しいです」と言って帰りました。

そして4年後の1863年。哲宗が死去。興宣郡と大王大妃趙氏は李命福を国王(高宗)にしました。

興宣大院君の側近になった朴有鵬

朴有鵬の占いは当たりました。すると朴有鵬は興宣大院君の屋敷にやってきて「3万両を受け取りに来た」と言いました。興宣大院君は朴有鵬を気に入って自分の側近として雇いました。

しかし朴有鵬はやがて興宣大院君と疎遠になってしまいます。

興宣大院君は高宗の正室を選ぶとき朴有鵬に閔氏(明成王后)の人相を見させました。朴有鵬は「この者は将来、興宣大院君の障害になります」と反対。

でも閔氏は興宣大院君の妻の親戚です。興宣大院君は朴有鵬の意見に怒りました。結局、興宣大院君は閔氏を高宗の正室(明成王后)にしました。

こうしたトラブルはあったものの、興宣大院君は朴有鵬をそばに置きました。代りになる者がいないからです。

朴有鵬の失脚

やがて高宗と李尚宮の間に長男・完和君が誕生。大喜びした興宣大院君は完和君を世子にしようとしました。でも朴有鵬は完和君の命は永くない(歴史上は13歳で死亡)と思ったので反対しました。朴有鵬は結果的に明成王后の味方をすることになってしまいます。

それに怒った興宣大院君と高宗は朴有鵬を追放しました。職を失った朴有鵬は自宅で暮らしましたがやがて死亡しました。

というのが「梅泉野録」の内容。最後に両方の目を潰して死んだとかいくつかバージョンはありますが。おおまかな流れは一緒です。

 

実在の朴有鵬は予言をしてない?

朴有鵬は実在の人物で肖像画も残っています。それによると両方の目があります。決して独眼だったわけではありません。

史実の朴有鵬は1847年に武科に合格。武官として勤務しました。慶尚道左営場や南陽府使になり、正三品まで出世しました。

でも朴有鵬は中央で重役に就いたことがありません。興宣大院君の側近なら正三品どまりというのは変です。中央で何かの役職をしているはずです。でもそのような形跡はありません。

野史では朴有鵬は1866年死亡となってますが1867年に地方に異動したことが記録されているので1866年死亡は間違い。少なくとも1867年までは生きています。

結局、朴有鵬が予言したというのは嘘。朴有鵬の妻の実家が風水の有名人の子孫なので朴有鵬の慶暦を改ざんしてでっちあげた作り話のようです。

本物の朴有鵬を知っている人はほとんどいません。嘘でも野史のエピソードが広まってしまうのです。

ついでにいうと興宣君 李昰応は貧しい生活をして両班に虐げられていたと言われますが。それは小説で広まった話。実際には贅沢は出来ないものの小説のような極貧生活をしていたわけではありません。興宣君は憲宗死後、次の王の候補者にもなるくらいの地位にいた王族です。

朝鮮はわりと作り話が多いのです。でも史実の朴有鵬がどんな人だったかに関係なく「梅泉野録」という野史に予言をした話が載っているのは事実。

「風と雲と雨」のチェ・チョンジュンも直感的に興宣君親子や閔氏はただ者ではないと思って彼(彼女)らに味方します。一度は興宣君に味方したものの、後に興宣君と対立しました。そしてドラマのチェ・チョンジュンも朝廷から去ってしまいます。大まかな流れは野史の朴有鵬と同じです。

「風と雲と雨」に登場するチェ・チョンジュン(崔天中)は野史の朴有鵬を参考にしているのは間違いないでしょう。

 

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