蕭承軒(しょう・しょうけん)は中国ドラマ「長安賢后伝」の登場人物。
蕭承軒にはモデルになった人物がいます。後金の王族ドド(多鐸)です。
兄の蕭承睿を信じたい蕭承煦と違い。蕭承軒は蕭承睿を疑っています。ストレートに感情を表現したり行動を起こしたりします。
その結果、問題も起こるのですが。良く言えば真っ直ぐ、悪く言えば考えが浅い弟として描かれます。兄や母を思い続ける気持ちにはかわりません。
モデルになったドドはドルゴンの弟。
清朝の人物がモデルになってるのは「長安賢后伝」が「孝荘秘史」のリメイク作品だから。「孝荘秘史」は後金から清朝の時代が舞台でした。「長安賢后伝」は設定を唐の雰囲気がする中華王朝に置き換えたドラマです。
蕭承軒のモデルになったドドとはどのような人物だったのか紹介します。
ドラマ「長安賢后伝」の蕭承軒(しょう・しょうけん)とは
演:趙文浩
蕭尚遠の第十王子 → 豫王 → 豫親王
父は盛州王 蕭尚遠
母は沐王妃。
同母兄は蕭承煦。
父の死後。母の沐王妃が殉死させられます。
蕭承軒は蕭承睿のしわざと考えます。証拠もないのに決めつけられないと蕭承煦に言われるのですが、蕭承軒は蕭承睿たちの仕業だと信じています。
蕭承睿の即位後。蕭承煦とともに戦場に出ますが、蕭承煦が蕭承耀の罠にハマり敵に包囲されます。逃げ延びた蕭承軒は蕭承煦の戦死を報告。蕭承耀の処分を訴えますが、逆に軍規違反で戻ってきたのを責められ処刑されそうになります。
蕭承軒を救うため賀蘭茗玉が蕭承睿と結婚。恩赦で蕭承軒は釈放されました。
その後、投獄された蕭承耀を拷問すると脅して沐王妃の死の真相を暴こうとしますが、蕭承耀が死んでしまいます。
その後も蕭承睿の暗殺を考えたりしますが、蕭承煦にたしなめられ断念。蕭承睿の死後、蕭承煦に王位を狙えるとそそのかしたり。蕭啓元の即位後は蕭啓翰を失脚させようとしたりします。最後は病死。
蕭承軒(しょう・しょうけん)のモデル・ドドとは?
ドラマ「長安賢后伝」では蕭承軒は蕭承煦の弟。
蕭尚遠の 第十王子になってます。
ズバリモデルになったのはヌルハチとアバハイの間に生まれた3人目の息子ドド。
アジゲ、ドルゴンの同母弟です。
ドラマではアジゲをモデルにした人物がいません。沐王妃の息子は蕭承煦と蕭承軒の二人だけ。蕭承煦より年上の同母兄がいたら「蕭承煦を次の王に」という父の遺言の説得力が弱くなってしまうので省略したのでしょう。沐王妃の息子なのになんで一番上の兄が後継者にならないのか?という問題が起こりますからね。蕭承煦を「沐王妃の長男」にしないといけないんです。
ヌルハチの甥ドド
名:ドド(多鐸)
姓:アイシンギョロ(愛新覚羅)
1620年生まれ。
父はヌルハチ。
母は福普(正妻)アバハイ。
同母兄にアジゲ、ドルゴンがいます。
ドドは後金の建国から清朝初期の様々な戦場で活躍した勇猛な武将です。
日本では江戸時代初期になります。
13歳でベイレに任命され。正白旗を与えられました(ドド本人は戦場には出ていません)。
母アバハイの殉死
父ヌルハチが死亡。ヌルハチの遺言で母アバハイが殉死になりました。
アバハイは殉死の前。四大ベイレに幼い息子たちの養育を頼んで首を吊ったといわれます。
このときドドは13歳。どう思ったかどうかはわかりませんが。母の死はドドの性格に影響が出たようです。
崇徳帝ホンタイジの時代
ホンタイジが即位。
成人後。
モンゴル・チャハル部への遠征では右翼軍を率いて勝利しました。
ホンタイジがベイレ達を集めて方針を話し合った時。ドドは「山海関(明と後金の国境にある万里の長城の一部)の外だけで戦っても成功はできない。直進して山海関を攻めるべき」と主張。他のベイレたちも同じ意見でした。
でも山海関は堅い城壁と大砲で武装された要塞です。かつてヌルハチが敗退、ホンタイジ即位後も攻撃して突破できずにいました。ホンタイジは明は衰えたとはいえ大国には違いないと考え、直接攻撃には慎重でした。
そこで山海関を攻めるのではなく南モンゴルを通って万里の長城の防御の弱いところから明に侵入、略奪を行って明を弱らせることにしました。
ドドも遠征軍に参戦。明の領内に入り都市を攻撃、略奪を繰り返し。数え切れないほどの捕虜を獲得しました。
ホンタイジは皇帝に即位。国名を「大清」に変更しました。
その直後に行われた朝鮮への遠征では軍を率いて朝鮮の首都・漢陽(今のソウル)攻めを担当。南漢山城に立て籠もる仁祖を救援に来た援軍を撃破しました。
朝鮮での戦いの後。再び略奪目的で明に遠征。
そしていよいよ山海関を守る4つの要塞を攻略。その松錦の戦いでは大勝利しました。
ホンタイジとは仲が悪い
幼い頃に両親を亡くしたせいか。母が死んだのはホンタイジのせいだと思っていて、ホンタイジには反抗的でした。ホンタイジを称賛する人は嫌い、ホンタイジの悪口を言う人と仲良くしました。
皇帝に贈るお祝いの品にわざと足の悪い馬を選んだこともあります。他の人が「やりすぎでは」というと。「冗談さ」と言って開き直りました。
でもアジゲ・ドルゴン・ドドらアバハイの息子たちは正鑲白旗の二旗を配下にもつ大きな勢力です。ホンタイジもたいした理由もなく処分はできません。
ハンになったのが慎重なホンタイジですから許されていますが。ダイシャンやアミン、マングルタイたち血の気の多い人物だったら粛清されていたでしょう。
好色な遊び人
ドドは好色な遊び人でした。何度も浮気しているようです。
あるときドドは部下の范文程の妻が美しいのを気に入り。范文程の不在中に部下を送って范文程の妻を誘拐。自分のものにしました。この出来事はホンタイジに知られてしまいます。
ホンタイジは王族会議を招集。処分を話しあいました。范文程は妻を取り戻し。ドドは罰金1万両、財産の3分の1を没収になりました。
順治帝フリンの時代
ホンタイジの死後。
アバハイの息子で一番、活躍していたのはドルゴン。そこでアジゲとドドはホンタイジを説得して次の皇帝にしようとしました。
正・鑲黄旗と正藍旗はホンタイジの長男・ホーゲを支持しています。
大清が分裂するのを心配したドルゴンはホンタイジの九男フリンを次の皇帝に提案。他のベイレ(王族)たちも賛成したのでフリン(順治帝)が即位しました。
摂政王ドルゴンの片腕になる
ドルゴンは摂政王になり大清の軍事と政治を動かしましました。ドドはドルゴンから自分の片腕として認められ。重要な役職を任され、ドルゴンとともに様々な遠征に行きました。
その間に明は李自成の順に攻められて滅亡。ドルゴンは山海関攻撃を決定。ドドは山海関の戦いでは順軍を破りました。その後、大清は北京を占領。遷都します。ドドは「普親王」になりました。
その後も順や明の残党と戦い。南京にいた南明の弘光帝を捕虜にしました。その後、モンゴルと戦い勝利します。ドドはドルゴン時代の大清で特に活躍の目立つ武将です。性格はともかく戦場での働きではこの時期の大清ではトップクラスでした。
ドドはその功績で「豫親王」になりました。
順治4年(1647年)。天然痘にかかりました。
遠征中のドルゴンはドドが重病だと聞くと急いで都に戻りました。しかしドドはドルゴンが到着する前に息を引き取りました。享年34歳。
ドルゴンは非常に嘆き悲しんだといいます。ドルゴンとドドは非常に仲が良かったようです。
「豫親王」の地位は息子のドニ(多尼)が引き継ぎました。
ドルゴンの死後。ドルゴンを嫌う順治帝によってドドの地位も郡王に下げられた事がありました。いったん「豫親王」は途絶えますが。乾隆帝の時代「豫親王」の称号が復活。ドドの子孫に与えられ、爵位が代々世襲できる「鉄帽子王」になりました。乾隆帝はドドを「建国の最も大きな功臣」と高く評価しています。
何かと蕭承睿を恨んでいる蕭承軒の性格はドドの性格を受け継いでいるからなんですね。ドラマの蕭承睿は本当にいろいろやってる人物なので恨まれても仕方ないですけど。
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