独孤氏は北魏から唐の時代に活躍した古代中国の名門貴族です。
独孤信は北魏~北周で皇帝一族を支える有力な重臣でした。
独孤信の娘は
北周の第2代皇帝 明帝(宇文毓)の正室 明敬皇后
隋の初代皇帝 文帝(楊堅)の正室、2代 煬帝(楊広)の生母 文献皇后(独孤 伽羅)、
唐の初代皇帝 高祖(李淵)の生母 元貞太后
になって古代中国王朝に大きな影響を与えています。
北魏~唐は鮮卑出身の王族が作った王朝。いわゆる漢民族ではない遊牧民族の王朝です。そんな時代に活躍した独孤一族とはどんな人たちだったのでしょうか。
「独孤」という姓も他の中国人とは違う独特な姓ですよね。
中国ドラマ「独孤伽羅」や「独孤皇后」にも登場して日本でも知られるようになった「独孤一族」はどのような人たちなのか?
そのルーツについて紹介します。
独孤一族の祖先は匈奴
いきなり結論。
独孤一族は匈奴(きょうど)出身です。
匈奴といえば馬に乗ってモンゴル平原を中心にユーラシア大陸を暴れまわった騎馬遊牧民族のイメージがあるかもしれません。といっても、いつも戦っているわけではなく普段は草原で家畜を育てる遊牧生活をしています。もともと中央アジアに近い地域で活動していた遊牧民のようですが、東の遊牧民・東胡を圧倒してモンゴル平原全体を支配するようになりました。
匈奴が具体的にどのような姿だったのかはよくわかりません。チンギス・ハンが活躍した時代のモンゴルをイメージすればほぼ間違いないでしょう。モンゴル人は今でも匈奴の末裔を名乗っているくらいです。
紀元前。漢より強かった匈奴
紀元前2世紀頃の匈奴はユーラシアではかなり強い集団でした。漢王朝の初代皇帝・劉邦は匈奴に敗北。漢は匈奴に貢物を贈って許してもらっていました。劉邦の子孫・漢の武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)は軍隊を強くして匈奴に戦いを挑み勝ちました。
漢と匈奴の力関係は逆転。匈奴は漢に服従するようになります。
2世紀ごろ。匈奴が北と南に分裂
後漢の時代。匈奴は漢に友好的な南匈奴と漢に敵対的な北匈奴に分裂しました。
現在の地図でみると内モンゴルの一部が南匈奴のいた地域です。
また、南匈奴は万里の長城から南に住むことを許されました。
定住生活をする匈奴が増えると漢の文化になじむ匈奴も出てきました。
後漢は南匈奴と協力して北匈奴を攻めて滅亡させました。
南匈奴の中に独孤部という部族がいました。独孤部は匈奴の君主を出していた一族でした。
つまり独孤は匈奴の名門貴族だったのです。もちろん遊牧民なので戦う貴族です。
独孤(tu-ku)の意味は「旗を持つ者」という意味の(tuγ-laγ)からきているといいます。
江戸幕府でいうと「旗本」みたいなかんじでしょうか。昔の軍団は旗を中心にまとまって行動します。移動するときも旗を掲げて移動します。集団が集まるときの目印ですね。
日本人が団体旅行するときには添乗員が旗を持って誘導しますよね。あんな感じ。「旗」はとても大切なんです。
ところが南匈奴の中でも争いがおきてまとまりません。遊牧民はカリスマ的な強いリーダーがいるとものすごく強いです。でも、そうでないときはなかなかまとりません。団結できない遊牧民は組織的な戦いが得意な中華王朝に負けてしまうのです。
漢・魏・普ころころ変わる漢人の指導者
2世紀ごろの鮮卑と南匈奴・後漢
トムル, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
漢が弱体化して三国時代になると南匈奴のリーダー劉猛(りゅう もう)は魏に味方しました。
このときの南匈奴の有力者は漢風の一字姓を名乗っていました。独孤部の指導者は「劉」姓です。
南匈奴の指導者たちは漢の文化が「格好いい」と思っていたようです。中華王朝の周辺国はだいたいどこも似たような考えですね。
黄巾の乱から三国時代には戦乱が続きました。そのせいで人口が大幅に減ってしまいました。そこで大幅に減った人口を補うために三国は人を集めました。特に曹操は遊牧民の移民を大幅に許可。放棄された農地を遊牧民に与えて農耕を行わせました。土地がもらえて安定した生活ができると聞いて大勢の遊牧民たちが移住してきました。
匈奴や鮮卑も続々と漢人のいた地域に移住してきます。定住する遊牧民が大幅に増えました。大量の移民が定住したので後に五胡十六国時代の原因になります。
ところが魏で司馬炎の反乱が起きて魏が滅亡。「西普」が建国します。
遊牧民たちの力を狩りて三国の戦いは西普が勝ちました。
魏が倒れたあとも南匈奴は西普に服従していました。
3世紀。鮮卑に亡命
272年。独孤部の大人(部族長)劉猛(りゅう もう)は反乱を起こしました。ところが劉猛は西普との戦いに破れ戦死してしまいます。
劉猛の子・劉副侖は一族をひきつれて鮮卑(せんぴ)の拓跋(たくばつ)部に亡命しました。
このころの鮮卑はいくつかの部族に分かれて争っていました。拓跋部は鮮卑でも有力な部族でした。
鮮卑でも独孤部は部族として存在し続けます。劉副侖の子孫は代々独孤部の部族長を出し続けました。
4世紀。戦乱の五胡十六国時代
304年。西普で劉淵(りゅう えん)が反乱を起こして漢(前趙)を建国。
劉淵は南匈奴の攣鞮(れんてい)部の族長。
独孤部と攣鞮部の祖先は同じです。
西普の統一が崩れたこの年から五胡十六国時代が始まったとされます。
五胡十六国とは漢民族でない様々な異民族がたくさんの国を作った時代。という意味です。多くは漢~三国時代に移民してきた人たちです。
315年。鮮卑の拓跋猗盧(たくばつ いろ)が「代」を建国。
318年。独孤部の族長・劉路孤は代の皇族になった拓跋氏と婚姻関係を結び関係を深めました。
鮮卑の国・北魏誕生
5世紀。拓跋氏が北魏を建国
5世紀ごろの北魏と周辺国
トムル, CC0, via Wikimedia Commons
386年。拓跋鮮卑の拓跋珪(たくばつ けい)が北魏を建国。道武帝に即位しました。
道武帝(拓跋珪)の正室・宣穆皇后は独孤部大人・劉眷(りゅう けん)の娘でした。
独孤部は北魏の皇族と親戚になっていました。
独孤部解散
ところが。
一族の劉顕が西燕(慕容鮮卑)と同盟して劉眷を殺害。独孤部大人になりました。さらに劉顕は道武帝を殺害しようとしました。道武帝暗殺は失敗。逃亡します。
道武帝が進めていた「諸部解散」の方針もあって、部族としての独孤部は解散させられてしまいます。
道武帝は部族の集まりの国から皇帝が権力を持つ中華的な国作りを目指しました。そこで部族を解散させて、有力者は貴族にしました。劉顕の謀反がなくても独孤部は解散させられる運命でした。
独孤部の族長一族は北魏の貴族として残りました。劉眷の子・劉羅辰は北魏で重要な地位につき名門として続きます。
北の国境で柔然と戦う
鮮卑が中心になって北魏を作っていたころ。モンゴル平原では柔然という遊牧民が勢力を拡大していました。柔然はかつて鮮卑に従属していた遊牧民です。鮮卑が華北に移住して国を作り出すと。手薄になったモンゴル平原を統一して巨大な遊牧民国家を作りました。
柔然は草原の広がるモンゴル平原から南に勢力拡大しようとしました。(鮮卑もそうして華北に移住した民族ですが)
北魏の首都・平城山(現在の中国西省大同市)は柔然との国境に近いです。そこで北魏は北の国境を守るため、戦いの得意な鮮卑や匈奴の人びとを国境付近に住まわせて守らせました。その軍団を「鎮」といいます。北魏は各地に「鎮」を作りました。統廃合されたものもありますが。最終的に6つの鎮が残りました。「六鎮」といいます。
鎮には様々な特権が与えられ。「名家」の位置づけでした。
独孤氏も武州という場所に移り住み国境を守りました。武州鎭には宇文家、李家、楊家など。後に北周~唐の王族になる人々もいました。
皇帝としては強力な武力をもつ一族を国境付近に追いやって、さらに中華的な皇帝中心の国作りをしようと考えたのです。匈奴や鮮卑の有力者は戦いに強いので国境を守ることのできて一石二鳥です。
漢民族化する遊牧民
孝文帝(在位477~499年)の時代。孝文帝は漢の文化に憧れ、積極的に漢の文化を取り入れました。孝文帝は幼いので実権は馮太后(王女未央のヒロイン)が握っていました。
つまり、馮太后と彼女をかつぐ漢人官僚が北魏を漢民族化しようとしたのです。孝文帝は馮太后の教育をうけていたので漢民族の文化にあこがれていました。
人びとは強制的に漢風の一文字姓に変えさせられました。
独孤の人びとは「劉」と名乗っていました。南匈奴の時代から「劉」だったのでずっと名乗っていたようです。
鮮卑姓の使用を禁止して漢姓に変更するように決めました。
ほとんどの一族は鮮卑姓から一字をとって一文字姓を作っています。言葉や生活習慣も漢民族風を強制されます。
確かに鮮卑や匈奴の人びとは漢の文化に憧れて、生活スタイルを真似たりしていました。憧れて真似るぶんにはいいのですが、強制されると反発も起こります。
急激な漢化に鮮卑の人びとは不満を高めていきました。
6世紀。六鎮の反乱
493年。孝文帝は都を国境に近い「平城」から内陸の「洛陽」に遷都しました。
ちなみに北魏の都・平城は奈良の平城京の元ネタ。平安京の東半分(左京)には洛陽の愛称がついてます。京都に行くのを「上洛」というのはそのため。平安京の西半分(右京)は長安です。右京は早々と廃れたので京都を長安を言う事はありません。
北魏って意外と日本と縁が深いのです。
平安京を洛陽・長安というのは唐の影響が大きいですけれど。
さて。
すると六鎮は都から遠く離れた辺ぴな場所になってしまいました。さまざまな特権も廃止され。中央に戻ることも許されず。中央から派遣された官僚の支配下におかれるようになりました。
孝文帝の死後。六鎮の人びとの不満が爆発します。
523年。六鎮のひとつ、沃野鎮が反乱をおこします。すると周辺の軍団も次々に反乱。北魏の国内は内乱状態になります。
このとき反乱鎮圧で活躍したのが独孤信です。
そして、この内乱で武将たちをまとめて活躍したのが武州鎮の宇文泰。
6世紀。北魏~西魏~北周・鮮卑の国は続く
北魏の内乱はなかなか収まりません。
すでに皇帝には国をまとめる力がなく、宇文泰が皇帝が支えなければいけなくなりました。
宇文泰は北魏の漢化政策を中止。鮮卑の文化を取り戻そうと様々な改革を行います。
鮮卑姓を復活。
「劉」家は「独孤」
「楊」家は「普六茹」
「李」家は「大野」
です。
ですから「独孤伽羅」の時代のドラマでは「楊堅」は「普六茹 堅」でなければおかしいのですけれど。ちなみにドラマの「独孤伽羅」では「楊家は漢民族の家だけど鮮卑の姓も持ってる」みたいな表現をしてました。中国では隋・唐は鮮卑だと認めたくないみたいです。
独孤信は宇文泰を助け。北魏~西魏にとって重要な重臣になります。
宇文泰の死後、あとを任されたのが宇文護。ドラマを見ると悪人みたいですが。宇文護は有能な人物。宇文泰があとをまかせても国を守っていけると考えたようです。
556年。宇文護は宇文泰の子供を担いで皇帝にします。北周の建国です。
宇文一族も祖先は匈奴。北匈奴滅亡後、鮮卑に亡命して力を蓄えていました。
北周は鮮卑と匈奴の血を受け継ぐ人たちが作ったのです。
そしてドラマ「独孤伽羅」や「独孤皇后」で描かれる時代になります。
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