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巌世蕃・天才と呼ばれた賄賂政治家

明 2.3 明の臣下と人々

巌世蕃(げん・せいはん)は明朝時代の政治家。

巌世蕃は嘉靖帝に仕えた巌嵩の一人息子。

明朝時代の代表的な賄賂政治家といわれます。中国の演劇や物語では悪者として有名です。父親の巌嵩の方が有名ですが、実際には息子の巌世蕃の方が悪どい人物だったようです。

ドラマでは美形の悪役として描かれることもありますが。歴史書に残る巌世蕃は首が短く肥満ぎみ。片目が見えなかったといいます。

でも、嘉靖時代で一番の天才と言われました。仕事ができて頭がいいので悪事に手を染める人もいますよね。そういうタイプです。

史実の巌世蕃はどんな人物だったのか紹介します。

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巌世蕃の史実

いつの時代の人?

生年月日:1513年
没年月日:1565年

姓 :巌(げん)
名称:世蕃(せいはん)
字:徳球

国:明

父:巌嵩(げん・すう)
母:欧陽氏
妻:不明

子供:
長女 巌氏(1547年—1602年)孔尚賢
次子 巌紹庭(1547—1617)

日本では室町時代になります。

 

おいたち

正徳8年(1513年)。江西の袁州府(現在の江西省宜春)で生まれました。

父は巌嵩。後に内閣首輔になる人物です。

母は欧陽氏

嘉靖10年(1531年)。父のおかげで国子監読書(学校兼教育行政担当部署(文部省みたいなもの))に入りました。

その後。左軍都督府都事、後軍都督府、京師順天府治中などを歴任。

嘉靖22年(1543年)。尚寶司少卿

嘉靖24年(1545年)。太常寺少卿、仍掌尚寶司事。

巌世蕃は法律に詳しく、世の中の出来事もよく知っていました。陸炳、楊博と並ぶ天才と言われました。

嘉靖27年(1548年)。父の巌嵩が内閣首輔(重臣のトップ)になりました。巌嵩はすでに70歳近い高齢でした。

巌嵩は嘉靖帝に気に入られていたのでいつもそばに付き添っています。でも衰えていたのですべてを自分で処理することはできません。そこで巌嵩は息子の巌世蕃を頼りました。

巌嵩は青詞(道教の祭文)を書くのが上手くて嘉靖帝に気に入られました。

嘉靖帝は不老不死に憧れ道教にハマり、祈祷や儀式に凝っていたのです。そのために使う青詞は重要なアイテムです。青詞を上手く作れる人は重宝がられていました。

巌世蕃も青詞を書くのが上手でした。嘉靖帝は巌世蕃の書いた青詞を気に入っていました。

嘉靖29年(1550年)。巌世蕃は太常寺卿になりました。

その後も工部左侍郎、工部尚書と出世を続けました。

賄賂政治加

巌嵩と巌世蕃は明時代の賄賂政治として有名です。

都に広大な敷地を持つ屋敷をもち。敷地には数十畝の池(1畝=約99平方メートル、つまり数千平方メートル)を作りそこには珍しい動物や樹木がありました。

巌嵩は妻は一人で妾はいません。生活も質素だったのでそれほどお金はかかりません。

でも巌世蕃には20~30人の妾がいます。当然、お金もかかります。巌世蕃の給料だけでは賄えません。

ある時。巌嵩の義子の趙文華が江南に出張。巌世蕃とその家族にお土産を買ってきました。巌世蕃の妾27人にも一人一個ずつ玉のかんざしを買ってきました。ところが巌世蕃はそのお土産が少ないと不満だったといいます。

巌世蕃は骨董品や美術品、書画、絵画が好きでした。金持ちからそういった者をもらったり、要求したりしていました。

趙文華、鄢懋卿、胡宗憲と親しくしていました。

巌世蕃は朝廷の人々から「小丞」とよばれ、宰相のような存在と思われていました。能力もあります。人々は年老いた巌嵩が巌世蕃を頼りにしているのも知っています。

当然、賄賂を贈りたい人は巌嵩ではなく巌世蕃に送ります。巌世蕃も貪欲なので遠慮なくもらいます。気に入らないと相手に会わなかったり、嫌がらせをすることもあったようです。

巌世蕃は何度も弾劾を起こされましたが嘉靖帝が庇いました。

嘉靖帝は東廠や錦衣衛といった秘密警察を使って情報を集めています。当然、巌世蕃が賄賂を受け取っていることも知っていたでしょう。でも嘉靖帝にとっては自分に忠誠を誓って、心の安らぎを与えてくれる巌親子を排除するわけにはいかなかったのです。

巌嵩・巌世蕃親子の没落

嘉靖39年(1560年)。陸炳が死亡。巌世蕃の勢いはますます強くなりました。

このころ父の巌嵩は80歳の高齢で肉体的にも精神的も衰えていました。巌嵩は何か決定しなければいけない時は、よく「息子と相談して決める」と言っていました。

朝廷の政は巌世蕃を中心に動いているようなものでした。巌世蕃に会いたい重臣がいてもなかなか会ってもらえません。

嘉靖帝の三男で裕王・朱載坖(後の隆慶帝)が皇太子になる予定でしたが、巌世蕃は裕王・朱載坖とは仲がよくありませんでした。

巌嵩の妻で、巌世蕃の母・欧陽が亡くなると、巌世蕃は葬儀に参列するために故郷に戻り喪に服しました。儒教では親が死んだ場合、3年間仕事を休んで喪服を来ておとなしく暮らします。もちろん遊んで暮らせる貴族だからできるのです。こういうことをすると「親孝行だ」と言われるのが儒教の世界です。

その間、厳嵩が道教の青詞を作りました。嘉靖帝はすでに厳嵩の青詞では満足できなくなっていました。嘉靖帝の不満がたまります。

このころ重臣の徐階(じょ・かい)が上手な青詞を作るようになり。嘉靖帝の信頼を得ていました。

厳親子をつなぎとめていた「心の安らぎを与えてくれる部分が薄れると。嘉靖帝にとっては利用価値はありません。

嘉靖帝の厳嵩への信頼が薄れたとわかると重臣や役人たちが様々な訴えを起こしました。勢いがある時はおとなしくしていても落ち目になると一気に叩かれるのが中国です。

巌世蕃も訴えを起こされました。鄒英龍は巌世蕃が喪の期間中に淫らな行為をしたと訴えました。

皇太子の朱載坖に冷たい態度をとっていたのも巌世蕃には不利な材料でした。嘉靖帝はもはや巌世蕃をかばおうとはしません。

巌世蕃は有罪判決を受けて雷州に送られ、厳嵩は辞職して隠居しました。

巌世蕃の最期

巌世蕃は密かに故郷に逃げ込み、挽回の機会を狙っていました。

嘉靖43年(1564年)。嘉靖帝の命令で林潤が江南を視察しました。林潤は巌世蕃が故郷で暴力をふるい20人以上に怪我をさせたと知りました。

巌世蕃は投獄されました。でもそれだけでは巌世蕃を追い詰めることはできません。

巌嵩と巌世蕃はかつて自分達を弾劾した沈鍊と楊継盛を「皇子の詔勅を詐称した」と訴えて逆に死罪に追い込んだことがあります。

徐階は確実に巌世蕃を追い詰めるために次のような報告を嘉靖帝に提出しました。

・巌世蕃は羅龍文の仲間であり、羅龍文は倭寇と繋がっている(羅龍文は倭寇討伐隊の一員でしたが捕虜になって、交渉役を務めたことがある)。巌世蕃は海賊を集めて日本に逃げようとしている。

・巌世蕃の手下が北(この時代、北といえばモンゴル)に向かい傭兵を集めている。

・巌世蕃は「王の気が満ちる土地を手に入れて建物を建てている」

風水を真剣に信じている中国では「王の気が満ちる土地を手に入れる」は謀反を狙っているのと同じとされます。

というもの。

どこまでが本当かどうかはわかりませんが。その報告を読んだ嘉靖帝は激怒。巌世蕃の処刑を命令しました。羅龍文も処刑されました。

嘉靖帝にとっては、賄賂は我慢できても謀反や外国勢力と手を組むのは許せないのです。

その決定を聞いた巌世蕃は「殺せ・・・」とつぶやきました。

嘉靖44年(1565年)。巌世蕃は斬首になりました。巌世蕃の処刑を聞いた街の人々は喜んで処刑を見物したといいます。

巌世蕃の処刑後。厳嵩は財産を没収され庶民に落とされ、その後病死しました。

巌家から没収した財産は、金3万両、銀200万両、その他数百万の財宝や衣類だったといいいます。

どんなに勢いがあっても皇帝からの信頼がなくなれば没落してしまいます。明朝の皇帝の力はそれだけ大きいです。

厳嵩・巌世蕃親子の没落はよい見本です。

逆にいうと皇帝を操れる人間が一番強いのです。

テレビドラマ

花様衛士 2020年、中国 演:韓棟
ドラマのボスキャラ。

 

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