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義成公主・隋復興のために暗躍した東突厥の皇族とは?

突厥 9 その他の国や民族

義成公主(ぎせいこうしゅ)は隋の皇族出身で。東突厥の可賀敦(かがとん=皇后)。

和親公主として隋から東突厥に嫁ぎ、啓民可汗、始畢可汗、処羅可汗、頡利可汗の4人の大可汗の妻になりました。

中国ドラマ「長歌行」では奕承公主(へんしょうこうしゅ)の名前で登場します。
漫画版「長歌行」では突厥可敦の義成公主として登場。

隋滅亡後は隋復興のために活動。東突厥と唐の戦いを裏で操った女性ともいえます。しかし義成公主の夢は実現することはありませんでした。

史実の義成公主はどんな人物だったのか紹介します。

 

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義成公主の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:630年

姓 :氏
名称:不明

国:隋→東突厥
称号:義成公主(ぎせいこうしゅ)
地位:ハトゥン(皇后)、漢字では 可賀敦(かがとん)、可敦(かとん)

父:楊諧
弟:楊善経
夫: 啓民可汗、始畢可汗、処羅可汗、頡利可汗

子供:なし

日本では飛鳥時代になります。

 

おいたち

生年は不明。

父は楊諧。

義成公主は隋の宗族(皇帝一族)ですが、文帝 楊堅とどのような関係なのかは分かっていません。

東突厥の啓民可汗(けいみんかがん)と結婚

599年(開皇19年)。東突厥の啓民可汗の妻・安義公主が亡くなったため、楊堅は王族の中から適齢の娘を選び「義成公主」と名付けて啓民河汗に嫁がせました。

義成公主は東突厥の可賀敦(かがとん=皇后)になりました。

607年(大業3年)。煬帝 楊廣が榆林郡に行幸。啓民可汗と義成公主は煬帝を出迎え、馬2000頭を献上。煬帝は喜び1万2千の品物を与えました。

その後、煬帝は長城を出て突厥側に移動。啓民可汗の天幕に入り、蕭皇后も義成公主の天幕に泊まりました。啓民可汗と義成公主はそれぞれ一対の金の壷と衣服、寝具、錦などを与えられました。その後、煬帝は隋に戻りました。啓民可汗と義成公主は長城まで見送りに行きました。

 

始畢可汗(しひつかがん)の時代

609年(大業5年) 啓民可汗が死去。その子・始畢可汗が後を継ぎました。始畢可汗は公主との婚姻を希望。煬帝は突厥の習慣に従うように命じました。

啓民可汗の息子と再婚

義成公主は始畢可汗の妻になりました。
遊牧民には王(族長)が死んだ場合その妻は次の王と結婚するという習慣(レビラト婚)がありました。結婚には部族と部族の同盟があったから。族長の死によって同盟が途切れるのを防ぐためと前の族長の妻の地位を安定させる意味もあります。

この場合、突厥と隋の同盟を維持するため始畢可汗は公主との結婚を望みました。

隋と関係が悪化

煬帝の治世の最初のころは東突厥と隋の関係は良好でした。

煬帝は612~614年にかけて高句麗遠征を行いましたが失敗。各地で反乱が起き始めます。

隋の大臣・裴矩(はい・せい)は東突厥の勢力が大きくなるのを恐れ、614年。馬市の期間中に始畢可汗の重臣・史蜀胡悉を殺害。東突厥を分断せせるように提案。煬帝はその提案を受け入れ、史蜀胡悉を殺害しました。

また義成公主を始畢可汗の弟・叱吉に嫁がせ、南面可汗として任命しようとしました。でも叱吉は拒否。煬帝の提案を始畢可汗に報告しました。始畢可汗は怒ります。

煬帝の計画は失敗。そこで煬帝は西突厥の泥撅處羅に接近。曷薩(娑)那可汗の称号を与え、東突厥の可汗と同等の扱いをしました。

隋の裏切りに激怒した始畢可汗は615年(大業11年)に隋との国交を断絶を決意。戦争が避けられなくなりました。

煬帝を助ける

615年。煬帝が北方の長城を視察。始畢可汗はそれを知ると騎兵を率いて南下。雁門郡の39の城を落としました(雁門郡には41個城がありました)。義成公主は煬帝に使者を送り始畢可汗が出陣したことを連絡しました。煬帝はすぐに雁門城に入りました。

始畢可汗率いる突厥軍は煬帝の雁門城を包囲。煬帝は各地に援軍要請するとともに、義成公主に使者を送って助けを求めました。すると義成公主は「北方で緊急事態発生」と始畢可汗に嘘の報告をしました。隋の援軍も続々と到着します。そのため始畢可汗は軍を撤退させました。

義成公主は始畢可汗の妻ですが密かに隋の味方をしていました。でも始畢可汗は義成公主を信頼していたので自分の行動は妻に話していましたし、義成公主が嘘の報告で軍を撤退させても義成公主を罰しませんでした(嘘だと気づいてなかったのかもしれません)。

ところが隋で反乱が起きて煬帝は江都に避難。隋は内乱状態になりました。

竇建徳・王世充・薛挙・李軌・劉武周・梁師都・高開道など隋に反乱を起こした者たちは東突厥を頼り、始畢可汗は彼らに称号を与えました。李淵も挙兵後は東突厥の援助を受けました。

618年(大業14年)5月。煬帝は臣下の宇文士及(うぶん・かきゅう)に殺害されました。蕭皇后と孫の楊政道は宇文士及の監視下におかれました。

618年6月。李淵が皇帝を名乗り唐が建国。

619年。宇文士及は夏王を名乗る竇建徳(とう・けんとく)に破れ蕭皇后は竇建徳に捕らえられました。

ところが619年に始畢可汗も死去。始畢可汗の子・什鉢苾(しゅうはつひつ)は幼かったので、後を継いだのは弟の処羅可汗(しょらかがん)でした。

 

処羅可汗(しょらかがん)の時代

義成公主は突厥の慣習に従って処羅可汗と結婚しました。

隋の復興を助け「後隋」を建国

義成公主は祖国が滅んだことを嘆き、煬帝の妻・蕭皇后たちがどうなったのか心配していました。蕭皇后が竇建徳のもとにいると聞き使者を派遣するように処羅可汗を説得。

620年。処羅可汗は竇建徳に使者を派遣。竇建徳は突厥の使者に宇文士及の首と蕭皇后、楊政道を託して義成公主のもとに送り届けました。

義成公主は届けられた怒りのあまり宇文士及の首を晒し首にしました。さらに処羅可汗に隋を再興するように説得。

処羅可汗は楊政道を「隋王」に任命、定襄城を与えました。隋王・楊政道には突厥領内で暮らしていた漢人が配下として与えられ、楊政道の勢力は「大隋」を名乗りました。歴史上は「後隋」と呼ばれます。以後、東突厥が滅亡するまでの間、後隋は存在し続けます。

でも後隋の領土は県ひとつ分しかありません。そこで処羅可汗は唐から并州を奪って楊政道に与えようとしました。臣下は反対しました。でも処羅可汗は「私の祖先は国を失ったが隋のお陰で国を持つことができた。今こそ助けなければいけない」と言って出兵の準備をします。しかし処羅可汗は病に倒れました。義成公主は処羅可汗に薬を勧めましたが、やがて処羅可汗は亡くなってしまいます。

この頃になると義成公主は東突厥でも影響力を持つようになっていました。

義成公主は処羅可汗の息子・奥射設の母が唐の出身だったので、虚弱なことを理由に可汗にはせず。処羅可汗の弟・咄苾(とひつ)を次の可汗に選び即位させました。

 

頡利可汗(けつりかがん)の時代。

620年。咄苾(とひつ)は頡利可汗(けつりかがん)として即位。

突厥の習慣によって義成公主は頡利可汗と結婚。可賀敦(かがとん=皇后)になりました。始畢可汗の子・什鉢苾(しゅうはつひつを突利可汗(とつりかがん)にしました。

義成公主の弟・楊善経は突厥に仕えていました。このころ李淵と敵対する王世充の使者・王文素が突厥をおとずれていました。

義成公主は楊善経、王文素とともに。頡利可汗の祖先は隋のお陰で可汗になれた。今の天子(唐 李淵)は隋文帝の子孫ではない。隋王・楊政道を立てて唐を攻撃し、隋の恩に報いるべきと説得。

このころになると隋末期に各地に誕生した武装勢力も淘汰され。李淵の唐が抜き出た存在になっていました。突厥としては中原に統一王朝ができてほしくありません。

そこで頡利可汗は毎年、唐を攻撃。その激しさに唐では遷都を検討するほどでした(遷都は秦王・李世民の反対で実現しませんでした)。

唐は東突厥を分断させようとしましたが義成公主の地位が揺らぐことはなく。逆に義成公主は頡利可汗と奥射設を仲違いさせました。

頡利可汗は唐を攻め、唐高祖・李淵から貢物を得ていました。

626年にも太宗 李世民に変わった直後の唐を攻め、渭水の盟で唐から貢ぎ物を得ることに成功しました。

義成公主と東突厥の最期

しかし頡利可汗は性格が横暴で、西域の商人を優遇し突厥貴族の反感をかったことなどから。次々と離反者が出ました。周辺部族に重税を課していたので部族の反乱が怒ります。さらに寒波が突厥を襲いモンゴル高原では大雪が降って多くの家畜が死にました。民や部族が頡利可汗のもとを次々と去っていきました。

629年。唐太宗 李世民は今が弱った突厥を叩くときと考え大規模な軍を派遣。東突厥を攻撃。
630年にも唐太宗は東突厥を攻撃。頡利可汗は敗北。唐に捕らわれました。

この戦いで義成公主は唐の将軍 李静に捕らえられ殺害されました。

東突厥は滅亡。隋王・楊政道と蕭太后は唐に降伏。

隋を復興するという義成公主の夢は消えました。

 

テレビドラマ

長歌行 2021年 演:楊明娜 役名:奕承公主

 

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