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婉容(えんよう) ゴブロ皇后は清朝最後の悲劇の皇后

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

婉容(えんよう)は清朝最後の皇帝、宣統帝 愛新覚羅溥儀の正室。
大清帝国と満洲帝国の皇后です。

姓の郭布羅(ゴブロ)氏からゴブロ皇后とも言われます。

清朝が帝政を失い、中華民国で清朝皇族が残っていた時代に愛新覚羅溥儀と結婚。

その後、紫禁城から追い出され。天津で暮らしましたが溥儀とは不仲になりアヘンに頼るようになります。

やがて溥儀の満洲国皇帝就任とともに皇后になりましたが。婉容は監視下におかれ、不自由な生活からますますアヘンに頼るようになります。

終戦により満州帝国は崩壊。中国軍に捕まり獄中で死亡しました。

時代や様々な人たちに翻弄された悲劇の人物です。

史実の婉容はどんな人物だったのか紹介します。

 

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婉容(えんよう) の史実

いつの時代の人?

生年月日:1906年11月13日
没年月日:1946年6月20日
享年:39歳

姓:郭布羅(ゴブロ)氏
名:婉容(えんよう)
字:慕鴻
称号:孝恪愍皇后
地位:大清皇后、満洲皇后
旗籍:満洲正白旗
父:栄源(ルンユワン)
生母:愛新覚羅氏
継母:愛新覚羅 恒香(金仲馨)
夫:愛新覚羅溥儀

子供:女児、早世

清王末期から中華民国時代の人物です。

日本では明治から昭和になります。

おいたち

清朝末期の光緒32年9月27日(1906年11月13日)。北京で生まれました。

父の栄源(ルンユワン)は満洲正白旗の旗人(貴族)で兵部の役人。
郭布羅(ゴブロ)氏の出身で満洲化していますがモンゴル系のダウール族の血筋をひいています。民族的には契丹の大賀氏と関係があるのではないかとも言われます。

生母は清朝皇族の愛新覚羅氏
 愛新覚羅 毓長の娘。

婉容出産後に病気で死亡。

父の再婚相手の恒香(後に金仲馨に改名)に育てられました。
恒香は清朝皇族の貝勒 毓朗の次女。

恒香は婉容を非常に可愛がり、婉容に大きな影響を与えました。

1912年。清朝滅亡。

1913年。婉容の一家は天津に移住しました。
天津ではアメリカのキリスト教系学校に通い、英語を学び、ピアノを弾き、特にジャズ音楽が好きだったといいます。

清の皇后になる

1922年。17歳のとき溥儀と結婚。清朝の皇室と中華民国政府は「清室優待条件」を結んでいました。溥儀は皇帝の地位を退きましたが、民国政府は溥儀を各国の君主と同じように扱うと決めていました。袁世凱が民国で権力を握っている間は清朝皇室にもそれなりの権威はありました。溥儀には地位や権力はないものの、世界各国から見ればまだ皇帝あつかいですし。紫禁城の中では皇帝です。なので婉容も皇后あつかいになりました。同時に文繡が側室になりました。結婚式は清朝のしきたりで行われました。

婉容は紫禁城で中国生まれの米国人イザベル・イングラムの教育を受けました。「エリザベス」の英語名を与えられました。

婉容は天津での暮らしを紫禁城に持ち込みました。自転車に乗ったり、写真をとっていました。紫禁城に来たばかりのころは、希望をもって宮廷ぐらしを楽しんでいましたが。溥儀と会うことはほとんどなく。主にメモのやりとりを行なっていました。二人は英語ができたので英文のメモをやり取りしました。

溥儀は性的に問題があったともいわれ子供は生まれませんでした。

結婚生活に不満があったのか婉容は紫禁城にいるときからアヘンを吸うようになりました。はじめは溥儀に隠れてアヘンを吸っていました。やがて吸っていることが隠せなくなり。溥儀も頭痛や生理痛などをやわらげるという治療目的でアヘンを吸うのは認めました。紫禁城内でアヘンを吸う姿が目撃されています。

もともと父の栄源が遺伝性の精神疾患のため治療目的でアヘンを吸い、いくらか治療効果があったとされています。婉容は結婚前にアヘンの吸い方を覚えたようです。

 

紫禁城を追い出されて天津へ

1924年。中華民国内でクーデター(北京政変)が起こり。中国国内は内乱になりました。北京を占領した「清室優待条件」を廃止。北京を占領した馮玉祥たちによって清朝皇室は紫禁城を追い出されてしまいます。

溥儀と婉容を受け入れてくれるところはどこもなく。日本だけが受け入れを認め、溥儀と婉容たちは天津の日本租界で暮らし始めます。天津の租界地は中華民国政府の権限が及ばない治外法権の場所なので。中国国内では内乱が続いていましたが、日本租界には内乱の影響を及びませんでした。

紫禁城の外に出た婉容はチャイナドレスを来たりパーマをかけたりして新しい文化を楽しみました。

外出には日本の護衛(監視)が付きますが、街に出て買い物を楽しみました。どうせ溥儀が支払うというので散財しました。

ところが婉容と文繡は張り合うようになり。溥儀の「我が半生」では二人の買い物を「競争買い」と表現しています。婉容と文繡の喧嘩も増えました。

1931年。文繡は溥儀との生活が嫌になって「離婚」を発表。溥儀は離婚を認めましたが対面を傷つけられた溥儀は文繡が出ていったのは婉容のせいにしました。

 

溥儀の関係が悪化してアヘンに頼る

婉容は海外での生活を希望していましたが。溥儀は国内に残って日本の力を借りて皇帝への復活を目指していました。婉容は今更皇帝になるのは反対でした。でも溥儀は彼女の意見は聞こうとしません。溥儀は自分に反対する婉容を嫌うようになり疎遠になっていきます。

そんな溥儀との生活にも疲れや婉容はアヘンに頼るようになり、中毒症状がでるようになり、しだいにやつれていきます。

 

満洲国皇后になる

1931年暮れ。溥儀は新しい国の皇帝になるため日本陸軍の要請をうけて天津を出て満洲に移動。

婉容も後から来るように言われましたが。婉容は満洲には行きませんでした。今さら溥儀と生活したくもないし、皇后にもなりたくなかったのです。

関東軍の要請をうけた川島芳子(かわしま よしこ、本名:愛新覚羅顯玗(あいしんかくら・けんし))が「皇帝(溥儀)が亡くなったので葬儀に出席して欲しい」と嘘をついて婉容を大連につれていきました。でも溥儀は生きていました。婉容は逃げようと思いましたができませんでした。

1934年3月1日。溥儀が「満洲国皇帝」になると婉容は「満洲国皇后」になりました。ところが関東軍は婉容を皇后に相応しいと認めず、公の場に出ることはありませんでした。

6月7日。満洲を訪問した秩父宮雍仁親王は勲章伝達式を行いました。関東軍は婉容を出席させないつもりでしたが。日本政府の要請で婉容は出席しました。このときは心配されたアヘンの中毒症状は見られず健康そうに見えました。

しかし監視付きで自由のない生活には絶えられず、アヘンへの依存は高まっていきます。

溥儀の弟・溥傑(ふけつ)の妻・嵯峨 浩(さが ひろ)の日記によると、1937年ごろには婉容は食事中に意識が朦朧とするなど中毒は進んでいました。

 

子供を奪われる

不自由な生活と孤独から婉容はやがて侍従と不倫関係になり。婉容は娘を出産しました。

婉容はこの子を溥儀の子供だと言いましたが、溥儀は認めず婉容を責めました。溥儀は相手が誰なのか問い詰めましたが婉容は黙秘を貫きます。やがて不倫を疑われた2人の元侍従が追放されました。

生まれたばかりの子供は連れて行かれました。婉容には親族のもとで育てられると伝えられましたが。実際には溥儀の命令でボイラーに投げ込んで殺されました。

満州帝国末期の婉容は髪はボサボサ、ほぼ視力を失ってていたといわれます。溥儀は婉容を廃そうかと考えたといいます。

 

婉容の最期

1945年8月。満洲にソ連軍が侵攻。溥儀と溥傑は日本に亡命しようとしましたが失敗。ソ連軍に捕まりました。

婉容は嵯峨 浩や宮中の者たちに連れられ、満州帝国の首都・新京(現在の吉林省長春)から陸路や海路で日本に向かおうとしましたが途中で八路軍(中国の共産ゲリラ)に捕まりました。

婉容は吉林省の八路軍の収容所に送られ、嵯峨浩とも別の牢に入れられました。このときには婉容は精神錯乱状態におちいっていたといいます。その後、中国の内乱で各地の収容所を移動。

その後、釈放されました引き取り手がなく軍の留置場で暮らしました。やがて世話に来た嵯峨浩のこともわからなくなっていたといいます。

1946年6月20日。留置場で死亡。具体的な場所は明らかにされていません。そのため遺骨もありません。

その3年後。婉容の死はソ連で囚われていた溥儀に伝えられました。しかし溥儀は関心はなさそうだったということです。

2004年。愛新覚羅家により「孝恪愍皇后」の称号が贈られました。

 

 

ドラマと映画

映画

ラストエンペラー(The last Emperor) 1987年、伊・中・英・仏・米 合作。 演:ジョアン・チェン

映画では婉容が川島芳子と同性愛のような描写がありますが。そのような事実はありません。

末代皇后 1987年、香港 演:潘虹
川島芳子(Kawashima Yoshiko)1990年 、香港 演:陳玉蓮

 

ドラマ

末代皇帝傳奇 2014年、中国 演:蔣林靜
東方戦場 2016年、中国 演:劉璇
老酒館 2019年、中国 演:袁姍姍

 

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