呉三桂(ご・さんけい)は明朝の武将です。
親も明の将軍でした。
明朝末期は混乱した時代で、各地で反乱が起こる中。
国の外では女真族が力をつけて後金を建国、万里の長城を越えて中原を目指そうとしていました。そんな時代に呉三桂は後金・清との戦いで活躍しました。
ところが呉三桂が遼寧地方で戦っている間に、国内で最大規模の反乱が発生。
ついに北京を反乱軍の李自成軍に占領されてしまいます。
李自成からは仲間になるように言われましたが、お互いに相手を信用できないまま戦闘が始まります。
明を失った呉三桂は清とともに李自成と戦う道を選びました。
史実の呉三桂はどんな人物だったのか
呉三桂の誕生から、李自成の反乱の時代までを紹介します。
呉三桂の史実
いつの時代の人?
生年月日:1612年6月8日
没年月日:1678年10月2日
姓 :呉(ご)氏
名称:三桂(さんけい)
国:明→清→周
地位:→平西王→周皇帝
称号:
父:呉襄
母:祖氏(祖大寿の妹)?
妻:張氏(張皇后)
妾:陳円円、他
子供:応熊、応麒、他
彼は明朝末期~清朝初期の武将です。
日本では江戸時代になります。
呉三桂のおいたち
呉家はもともと高郵(江蘇省)の出自でした。
明朝末期の1612年(万暦40年)。呉三桂は遼東で生まれました。
幼い頃から武術を学び乗馬や弓矢も得意でした。
父・呉襄(ご・じょう)は明の武官。
呉襄は遼東に居住することが多く、錦州駐屯軍の総司令官でした。
父・呉襄は明の将軍・祖大寿(そ・だいじゅ)の妹と再婚。
祖大寿の妹が呉三桂の母といわれます。
祖家は遼寧西部の名門一族。呉襄・三桂親子は祖一族の強力な後ろ盾を得ました。祖家も呉家の武力を味方にできました。
父・呉襄と伯父・祖大寿の教育を受けて20歳になる前に武官になりました。
遼寧地方は後金・清の国境を接する地域。明を満洲人から守る重要な地域でした。遼西にある山海関は万里の長城の東端になり。ここを越えられると北京まではすぐです。
明を守って清と戦う呉三桂
1631年(崇禎4年)。伯父・祖大寿は大凌河で清軍と戦っていました。
城に立て籠もる祖大寿を助けるため、呉襄は援軍として駆けつけましたが敗退します。呉三桂もこの戦いに参戦して撤退戦で敵の包囲を破る活躍をみせたといいます。
しかし、祖大寿の救援は失敗。祖大寿は1年も籠城したあと清に投降しました。
父・呉襄は責任を追求されて免職されます。
1632年(崇禎5年)。呉襄は軍に復帰して山東で戦いました。呉三桂も遊撃部隊に加わりました。
1635年(崇禎8年)。呉三桂は鋒右営参将になりました。このとき23歲。
その後、呉三桂は功績を重ねて出世します。
1639年(崇禎12年)。寧遠団練総兵になりました。このとき27歳。
1640年(崇禎13)。明軍と清軍が杏山で戦いました。このとき呉三桂は優れた指揮を見せましたが、清軍の猛攻にさらされます。お互いに多くの犠牲を出して戦いは終わりました。
1641年(崇禎14年)。提督として遼西の寧遠州城(現在の遼寧省興城市)で明軍を指揮しました。
このころ清軍は錦州を包囲するようになりました。呉三桂たち明の指揮官は危険をおかして錦州に食料を運びました。
1643年(崇禎16年)。清に降伏している祖大寿から手紙が来て、清に降伏するように勧めてきました。ホンタイジが書かせたものです。
このときは呉三桂は降伏を断りました。後の降伏の伏線になります。
春になると清軍は万里の長城の手薄なところから侵入。明の城を次々と落としていきました。呉三桂たちは孤立してしまいます。
李自成の反乱と呉三桂
首都・北京が占領され明朝が滅亡
明では1620年代から各地で反乱がおきていましたが。最大規模のものが李自成の反乱です。
李自成は1641年には洛陽を占領。
その後も開封、西安など大都市を次々と陥落させ。自ら「順王」を名乗り。国名を「順」にしました。
すでに弱体化していた明は後金・清との戦いで精一杯。反乱軍を止める力はありません。
1644年(崇禎17年)。李自成軍が北京に近づいているとの報告を受けた朝廷は呉三桂を平西伯に任命。首都北京の防衛を任せることにしました。
旧暦3月19日。順軍に追い詰められた明の崇禎帝は自害。明朝は滅亡します。
呉三桂が山海関から北京に向かっている途中。灤州まできたところで「北京が陥落した」と報告を受け、山海関に引き返しました。
呉三桂は仕える主を失ってしまいます。
李自成と清どちらにつくか
李自成は北京にいた父・呉襄を捕らえて呉三桂に「北京に戻るように」と手紙を書かせました。また李自成は呉三桂に「一緒に満洲族を討とう」と呼びかけたともいいます。
呉三桂は親と家族を李自成に人質にとられ、東からはドルゴン率いる清軍が迫ってきます。呉三桂は窮地に立たされました。
呉三桂は李自成が嘘をついていた場合のため、ドルゴンとも取引して黄河を境に南北に領土を分ける提案をします。このときは呉三桂は清と同盟を結ぶつもりでした。
旧暦4月13日。北京にいた李自成は清軍が来るのを恐れ、6万の兵を率いて出陣しました。李自成は呉三桂と戦うつもりでした。
呉三桂は李自成軍が動いたのを知ると、呉三桂は使者を送り降伏すると伝えさせ清軍が到着するまでに時間稼ぎをさせました。
呉三桂も李自成に従うつもりはありません。呉三桂からみれば李自成はただの略奪者です。各地の領主を襲って殺し、奪った食料や金品を農民や人々に配っていました。
もちろん李自成にはそれなりの理由があるのですが。順の方針が農民からは税をとらず裕福な者や豪商からだけ税をとるというのも、呉三桂は納得いきません。国民の大半が農民なのにそれで国を維持できるはずがありません。呉三桂にとっては李自成が現実離れした理想を言って人気取りをしているだけに思えたことでしょう。
気がかりなのは人質になっている家族です。ならず者の彼らが約束を守る保証はありません。現実に李自成は大軍を率いて山海関に向かっています。
ドルゴンとともに李自成と戦う
呉三桂はドルゴンに使者を送り早く山海関に来るように伝えました。
4月21日。呉三桂軍は山海関にやってきた順軍と戦闘になりました。呉三桂は苦しい戦いを強いられます。
4月22日朝。僅かな騎兵をつれてドルゴンの陣地に助けを求めに行きました。呉三桂はドルゴンに土下座しました。
ドルゴンは呉三桂が苦しい立場なのを知り、呉三桂に頭を剃らせて満洲人の髪型にさせ、ホンタイジの娘・建寧公主を呉三桂の息子・呉応熊に嫁がせると約束しました。呉三桂は清の同盟者ではなく清の臣下になったのでした。
ドルゴンは李自成軍を奇襲をかけて李自成軍を敗走させました。呉三桂はドルゴン側について戦いました。
美女が理由で李自成と対立?
呉三桂が李自成ではなく異民族の清に味方したのは漢人たちの間でも納得がいかなかったらしく。後になって様々な物語が作られました。
有名なものに 陳円円の話があります。
陳円円は蘇州の歌姫。絶世の美女でした。陳円円を見初めた呉三桂は自分の妾にしました。呉三桂が遼寧に行くことになり、陳円円は呉襄の屋敷で暮らすことになりました。その後、李自成の反乱が起きました。北京を占領した李自成軍は呉襄の屋敷にいた陳円円を連れ去ってしまいます。偵察からそれを聞いた呉三桂は、自分の妾を奪われたことに怒って李自成と敵対。清の味方になった。
という話です。清朝時代にまとめられた「明史」にもこの話が載っていて他にも様々なバージョンが出回っていました。
陳円円についてはほとんど詳しいことがわかっていません。伝わっている話もほとんどが作り話です。
呉三桂は漢人と満洲人の両方から評判が悪く、呉三桂の評判を陥れるために書かれた可能性が高いです。「呉三桂が異民族に寝返ったのは女のため」にしたほうが中国人にはウケが良かったのです。
呉三桂は清とともに北京入城
山海関の戦いの後。呉三桂は清軍を先導して北京に向かいます。
破れた李自成は呉襄を殺して首を晒し者にして、呉三桂の家族を殺害しました。
4月29日。李自成は「大順」の「皇帝」に即位。翌日、北京を放棄して西安に退却しました。
旧暦6月6日。呉三桂と清軍は北京に到着。順治帝フーリンが紫禁城の主になりました。
ドルゴンは呉三桂を平西王に任命しました。
呉三桂は親や一族を李自成に殺されました。幸いにも幼い応熊は無事でした。
紫禁城に入った清に明の役人たちは次々に服従。呉三桂も明の皇太子を支持するのをやめました。
呉三桂は他の清に降伏した臣下と違い大量の兵を持っていました。そのため清は呉三桂を警戒し、李自成と戦うための部隊を率いさせただけでした。
呉三桂はまだ完全に清に服従したわけではありません。南京に残る明の残党との連絡はとっていました。
まずは父の仇を討つため李自成軍を倒すのが目的でした。
テレビドラマ
龍珠伝 2016年、中国 演:劉立偉
鹿鼎記 2020年、中国 演:于荣光
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