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呉応熊・三藩の乱を起こした呉三桂の息子はホンタイジの娘婿

大清 1.5 清の重臣・役人・男達

呉応熊(ご おうゆう)は呉三桂の息子。

呉三桂は明の将軍でしたが、李自成が反乱をおこしたときに清に投降します。

呉応熊はホンタイジの娘と結婚。清朝の娘婿になりました。

ところが父・呉三桂が反乱を起こします(三藩の乱)。

呉応熊は投獄されましたが、しばらくは生かされていました。

でも呉三桂を鎮圧する覚悟を決めた康熙帝の命令で処刑されました。

史実の呉応熊(ご おうゆう)はどんな人物だったのか紹介します。

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呉応熊の史実

いつの時代の人?

生年月日:1634年
没年月日:1674年

姓 :呉(ご)氏
名称:応熊(おうゆう)

国:明 → 清
地位:額駙(王女の婿)

父:呉三桂
母:張氏
妻:建寧公主(ホンタイジの第14皇女)

子供:
男:呉世霖、呉世璠
女:呉氏(恭親王・愛新覚羅常寧の側女)

彼が生きたのは清の第3第皇帝・順治帝~康煕帝時代です

日本では江戸時代になります。

おいたち

父は明の将軍・呉三桂(ご・さんけい)。

母は張氏。

1644年。反乱軍の李自成(り・じせい)が紫禁城に突入。明の崇禎帝(すうていてい)は李自成軍に譲位を迫られましたが自害。明が滅亡しました。
李自成は「順」を建国。

当時、呉三桂は明を守るため万里の長城の東端にある山海関で清と戦っていました。明の部隊の中でも呉三桂軍はかなり強い部隊でした。でも呉三桂が忠誠を尽くす明の皇帝はすでにいません。

呉三桂は賊に従うくらいなら異民族の王朝に降伏したほうがマシ。と清に降伏しました。

摂政王ドルゴンは順治帝の異母妹・建寧公主(崇徳帝ホンタイジの第14皇女)を呉応熊に嫁がせる約束をしました。

このとき呉応熊は10歳。幼い呉応熊は祖父・呉襄(ご・じょう)たちと一緒に北京にいたはずです。

呉三桂はドルゴンとともに北京に進軍。李自成の軍を破りました。

呉三桂が李自成に味方しなかったので祖父・呉襄や家族は李自成軍に殺害されました。呉応熊も殺されてもおかしくありませんが、幼かったためか呉応熊は無事でした。

呉三桂は北京入城の最大の功労者になりました。ドルゴンから平西王の称号を与えられ優遇されました。

順治9年(1653年)。孝荘皇太后ブムブタイが主導して、呉応熊は建寧公主と結婚しました。このとき呉応熊は19歳。

呉三桂は領地の雲南で暮らしましたが、駙馬(王家の婿)になった呉応熊は北京で生活しました。事実上の人質です。清に味方したとはいえドルゴンも呉三桂を完全に信用したわけではありません。

順治10年(1654年)。呉応熊は三等子爵の爵位を与えられました。

順治14年(1658年)。少保兼太子太保になりました。

康熙7年(1668年)。少傅兼太子太傅になりました。位は高いですが実際の権限はありません。

清では王女の婿なったら政治に参加できず名誉職のような位を与えられるのが普通でした。

平西王・呉三桂、平南王・尚可喜、靖南王・耿仲明。3人の漢人の将軍は広大な領土と様々な特権を与えられ藩王と呼ばれていました。呉三桂の領土は小国並に大きく独自に外国と貿易して蓄財しています。その気になれば独立国を作ることができるくらい大きくなっていました。清の軍団というより、独立国のようになっていました。

康煕帝は力をつけすぎた呉三桂たち藩王を危険だと考え、呉三桂たちから特権を奪い将軍として朝廷に仕えるように命令しました。

当然特権を奪われるのが嫌な呉三桂は反対しました。

父・呉三桂が反乱をおこして投獄される

康熙12年(1673年)11月。呉三桂は「周王」を名乗り挙兵。「女真族を追い出して漢民族の国を作ろう」と呼びかけます。でも清を北京につれてきたのは呉三桂ですし、南明の皇帝を殺したのも呉三桂です。説得力がありません。

この反乱を三藩の乱といいます。

呉三桂が挙兵を決意した時。妻の張氏が息子の呉応熊が北京で人質になっているのに殺されてもいいのですか」と言いいました。

でも父・呉襄(応熊の祖父)を見殺しにして清に投降した呉三桂ですから、息子一人を失うのは覚悟していたでしょう。

呉応熊は投獄されました。

重臣のミンジュ(納蘭 明珠)は呉応熊と長男・呉世霖の処刑を主張しました。康煕帝はすぐには処刑しませんでした。

1673年から1674年にかけて呉三桂の快進撃が続き、尚可喜や耿仲明も反乱。台湾に逃げていた明の残党も彼らを援助しました。

清軍は苦戦します。重臣たちの中には北京を放棄して満洲に撤退しようと言い出す者までいましたが、康煕帝は北京を手放すつもありはありません。この時期、徹底抗戦を主張して康煕帝を支えたのがミンジュ(納蘭 明珠)です。

康煕帝は呉三桂に味方しなかった漢人将軍を採用して呉三桂たちと戦わせました。徐々に清が優勢になります。

呉応熊の最期

康熙14年(1675年)。清軍は呉三桂の拠点のひとつ湖南を攻め落とします。清が有利になりました。呉三桂は領地の一部を清に譲り渡して和睦しようとします。

康煕帝は和睦を拒否。康熙帝が呉三桂に望むのは将軍として仕えること。独立国は認めません。

康煕帝は呉応熊と息子たちの処刑を決定。

康熙14年(1675年)4月13日。呉応熊と呉世霖は絞首刑になりました。

もはや呉三桂との和睦はありません。康煕帝は呉三桂を賊軍として叩き潰す決意を固めました。

他の幼子は死刑は免れましたが、官位を没収されました。

呉応熊らの処刑後。康熙帝は建寧公主に「呉応熊は謀反をおこしたので処刑した」と伝えて慰めました。

 

その後の三藩の乱

その後、各地で反乱軍は鎮圧されます。

1678年(康熙14年)。追い詰められた呉三桂は「皇帝」を名乗りました。国名は「周」です。でも年内に死亡。

呉三桂の後を継いで周の第二代皇帝になったのは呉応熊の次男・呉世璠でした。
父・呉応熊に「太宗」の廟号と「孝恭皇帝」の諡号を贈りました。

1681年(康熙17年)。自称・周皇帝 呉世璠は清に攻められて自害。

三藩の乱は終わりました。

 

テレビドラマ

鹿鼎記 2014年、中国 演:古 斌
皇帝の恋 2016年、中国 演:芮偉航
 このドラマでは玉箸の恋人の設定。劇中ではすでに処刑された事になってます。

鹿鼎記 2020年、中国 演:郭乙桓

 

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