中国ドラマ「王女未央」に登場する魏の国は古代中国南北朝時代の国です。歴史上は北魏(ほくぎ)といいます。拓跋(たくばつ)氏が作った国です。
歴史上は魏という名前の国はいくつかありました。このときの魏は「北魏」とよばれています。
拓跋氏は「元」の漢風姓を使っていたので「元魏」と呼ばれることもあります。
晋(西晋)の滅亡から隋の統一まで、約400年の間。中国大陸には統一された国がなくいくつかの国に分かれていました。
その中で北魏は386年から534年の148年ほど、華北に存在した国です。
北魏はどんな国だったのか。北魏を治めていた拓跋(たくばつ)とは一族だったのか紹介します。
北魏(ほくぎ)とはどんな国?
存在した時代
北涼が存在したのは古代中国の五胡十六国から南北朝という時代。魏普南北朝ともいいます。
漢・三国時代の後。
隋・唐の前の時代です。
4世紀から6世紀になります。
このころの中国大陸は三国志の時代が終わり。三国時代を統一した晋も滅び小さな国がいくつもできて争っていました。
日本では古墳時代。正確な年代はわかりませんが、大和朝廷の勢力範囲を拡大した仁徳~雄略天皇の世代に近いようです。
朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が争っていた時代になります。
存在した場所
北魏は北はモンゴル高原、南は黄河流域その間に広がる平野部が主な領土です。
五胡十六国時代
三国志で有名な三国時代を終わらせ中国を統一したのは司馬氏の晋でした。晋も長くは続かず、304年に劉淵や李雄が独立。晋は分裂していくつもの国が乱立する戦国時代のようになりました。
晋が分裂した304年から、北魏が439年に華北を統一するまでを五胡十六国時代といいます。
華北からモンゴル高原のあたりに住んでいた鮮卑(せんぴ)の拓跋氏(たくばつし)が作ったのが”魏”です。三国時代の魏(曹魏)と区別するために北魏あいは元魏と呼びます。
鮮卑は中国北部からモンゴル高原のあたりに住んでいた遊牧民族。鮮卑もいくつかのグループに別れていました。有力なグループのひとつが拓跋部でした。そのため拓跋鮮卑ともいいます。
五胡十六国時代になって力をつけた拓跋氏は「代」という国を作りました。代は376年に前秦に滅ぼされますが、王族の拓跋珪が生き延びて386年に「北魏」を建国しました。当時は内モンゴルの一部を支配する小弱国でした。
北魏は後燕や西燕など周辺の国と同盟したり対立したりして領地を拡大しました。北魏が同盟していた西燕が後燕に滅ぼされ、後燕が優勢になったかに思われました。
395年。北魏は攻めてきた後燕軍を壊滅させました。後燕国内で内紛が起きたこともあり、後燕が弱体化。
北魏は華北で一番有力な国になりましたが、まだ統一する力はありません。その後も華北では北魏、北燕、南燕、後秦、夏が入り乱れる混乱した時代が続き、いくつかの国がほろびました。
太武帝の時代になると華北で北魏に対抗できるのは夏くらいになりました。
428年。太武帝は夏を滅亡させます。華北で残ったのは後仇池・北燕・北涼くらいです。でも単独で北魏に対抗できる力はありません。
436年。北燕が滅びました。
北燕は馮太后(馮心児のモデル)の父は北燕の王族でした。北燕が滅びる前に内乱が起きて北魏に逃れていました。
439年。太武帝が北涼の都を攻め、北涼が滅びました。
「王女未央」ではこちらが馮心児の出身国になってます。
「王女未央」のストーリーが始まるのはこのあたりからです。
後仇池は華北か華南かあいまいなので、歴史上は北涼が滅んだ439年を華北が統一された年とします。
小さな国が入り乱れた五胡十六国が終わりました。
442年。後仇池が滅びました。
南北朝
華北の北魏、華南の宋。
中国大陸で二つの国が対立する南北朝時代になりました。
太武帝の時代
華北を統一したあとの太武帝の時代は大きな戦争がなく国内は安定していました。漢民族をとりこみ、遊牧民族らしい部族の集まりのような国から、中国王朝のような貴族制(支配階級がその他の人々を治める国)の王朝に国を作り変えました。太武帝は仏教を弾圧して道教を国の宗教にしました。
全盛期
452年。太武帝は家臣の宗愛に暗殺されます。その後、宗愛に担がれあとを継いだのは拓跋 余(たくばつ よ)でした。しかし宗愛に殺害され、わずか7ヶ月の在位期間でした。そのため正式な皇帝と認めれず「南安隠王」と呼ばれます。
452年。宗愛を排除した重臣たちに担がれて即位したのは第6代皇帝の文成帝・拓跋濬(たくばつ しゅん)。
「王女未央」のドラマはかなり内容は違いますが、時期的にはこのあたりまで。
文成帝はあまり戦争を行わず、国力の回復につとめました。仏教を国の宗教にします。しかし若くして病死します。
465年。即位したのは息子の献文帝・ 拓跋弘(たくばつ こう)。
幼かったので丞相の乙渾らが政治を行っていました。孝文帝の妃・馮太后(馮小児のモデル)が乙渾を殺害、政治の実権を握ります。
471年。献文帝は馮太后に脅迫され・譲位。あとをついだのは息子の孝文帝・拓跋宏。
476年。献文帝は馮太后と対立しましたが毒殺されました。
馮太后は実権を握り政治を行います。国内の仕組みをととのえ、北魏の全盛期の基礎を作ります。
献文帝は成人すると自ら政治を行いました。さらに進めて中国王朝式の政治を行います。姓を漢風の「元」に改めました。
493年。平城(現在の大同)から洛陽に遷都しました。
このあたりが北魏の全盛期です。ところが献文帝は鮮卑族の服装や言葉まで禁止したため不満を持つ人が増えました。六鎮の乱の原因になったともいわれます。
北魏の衰退
499年。献文帝が死去。
523年。8代孝明帝の時代。大きな反乱が起こります(六鎮の乱)。皇帝は力を失い北魏は衰退します。
東魏と西魏に分裂、その後の国々
534年。北魏は相続争いがもとで二つに分裂しました。どちらも「魏」を名のっていますが、区別のため東魏、西魏と呼びます。華北を統一した国としての「北魏」は消滅します。
550年。東魏は斉(北斉)にとって変わられ。
556年。西魏は周(北周)にとって変わられ。
拓跋氏(元氏)の国、北魏を受け継いだ国は滅亡しました。
577年。北斉は北周に攻められ滅亡。北朝が統一されます。
581年。北周の楊堅が王座を奪い隋を建国。
588年。隋は南朝の陳を滅亡させ。南北朝が統一。
晋(西晋)の滅亡から、およそ400年ぶりに統一国家が出来ました。
日本と北魏の関わり
日本で「魏」というと、ほとんどの人は三国志の「魏」を想像するでしょう。三国志の魏は「北魏(元魏)」とは違う「曹魏」です。
卑弥呼が使者を送った魏の国も「曹魏」です。
倭国(当時の日本列島の国)と北魏が直接交流なかったようです。
北魏は高句麗など朝鮮半島の国とは交流がありました。古代朝鮮の歴史書「三国史記」も北魏の記録を引用するという形で書かれています。
当時の中国大陸の国では、倭国は北朝よりも南朝を重視していたようです。
倭の五王が南朝側の宋に使者を送ってました。
倭国は高句麗や新羅と対立していた時期も多かったです。そのため陸路を使って北魏に行くことはできません。日本列島から直接北魏に行くのはかなり難しいのです。南朝なら船で行けます。それでも当時としては危険な旅だったでしょう。
北魏と日本が全く関係なかったかというとそうではありません。
日本は飛鳥時代には高句麗や百済から僧が来ました。朝鮮半島の国は北魏の影響を受けています。
日本にも法隆寺の仏像など北魏の影響の強いものがあります。高句麗・百済など朝鮮半島をとおして間接的に影響を受けているのですね。
もちろん日本にも南朝様式もあります。隋も文化的には北魏の影響を受けていたかもしれません。北魏だけが全てではありませんが、日本に仏教が伝来したのも北魏が仏教に力を入れていたからといえますね。
仏教だけではありません。国の制度も朝鮮半島の国々は北魏の影響を受けています。北魏の制度が朝鮮半島を経由して日本に伝わっているともいわれます。
奈良京の平城京は北魏の都・平城がモデルという説もあります。平安京の東半分(左京)は古い呼び方で洛陽城といいます。西半分(右京)は長安城(こちらは唐の都)。
北魏が平城から洛陽に遷都したのと関係ありそうですね。
その仏教を再興させ熱心だったのが「王女未央」に登場する拓跋濬(たくばつ しゅん)なのです。拓跋濬が仏教に熱心でなかったら日本への伝来はもっと送れていたかもしれません。
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