包拯(ほう・じょう)は北宋時代の政治家で裁判官。
町奉行みたいなものです。
地方行政を担当して悪人の不正を暴いて罰していました。
自らは賄賂をとらず、贅沢もしません。
日本でいうと大岡越前や遠山金四郎のような名奉行です。
包拯は生前から評判のいい役人でしたが、死後。ますます神格化が進みました。物語の題材にもなって有名になりました。道教では神のように崇拝されています。
史実の包拯はどんな人物だったのか紹介します。
包拯 の史実
北京: 故宫博物馆出版社. wikipedia
生年月日:999年3月5日
没年月日:1062年7月3日
享年 :63歲
姓 :包(ほう)
名称:拯(じょう)
字 :希仁(きじん)
国:宋(北宋)
別名: 包文正、包希仁、包青天、包龍圖、包黒子、包公、包府千歲、閻羅天子など
父:包令儀
母:張氏
妻:李氏(病死)
再婚:董氏
妾:孫氏
子供:包繶(母:董氏),包绶(母:孫氏)
女子2人。
彼が活躍したのは北宋の 3代 仁宗~4代 真宗の時代です。
日本では平安時代になります。
若いころは学問と親孝行にあけくれる
真宗の時代。
咸平2年(999年)。廬州合肥(現在の中国安徽省合肥市)で生まれました。
父は役人の包令儀。母は張氏。
包拯は父の包令儀が39歳のときに生まれた子供でした。包拯は末っ子だったようで、少なくとも二人の兄がいたことがわかっています。
若いころは学問にはげんでいました。科挙の試験を受ける人が行う学問とは。四書五経(儒教の経典)を呼んで丸暗記、本の解釈の練習、漢詩を詠む(漢詩も試験科目の一部)ことなどです。
仁宗の時代。
天聖5年(1027年)。29歳のとき。 科挙に合格。
大理評事 建昌知県(県知事)に任命されました。
ところが包拯の両親はすでに高齢でした。そこで包拯は故郷の合肥の近くで仕事をするように頼んで税務監督者として和州(現在の安徽省)監税に就職しました。
ところが包拯の両親の介護が必要になったので包拯は辞職して家に帰りました。その後は両親の世話をしました。
1033年。父の包令儀が死亡。母も相次いで死亡。包拯は両親の墓のそばに小屋を建てて喪に服しました。
儒教では親が死亡したら親一人につき3年間喪に服します。3年間仕事をせずに喪服を来てひたすらおとなしく過ごします(儒教では喪の期間はあれをやってはいけない、これをやってはいけないという決まりがあります)。
包拯だけが行っているのではなく、科挙を受ける人、儒教を熱心に信じる人がやっていることです。もちろん3年間働かなくても生きていける人でなければできません。
喪の期間が終わりましたが包拯はそれでもその場を離れがたい気分でした。
包拯の親孝行ぶりは故郷で評判になりました。
38歳で役人人生が始まる
景祐3年(1036年)。38歳の時。包拯は就職。天長知県になりました。
慶曆元年(1041年)。端州知府(府知事)になりました。端州は硯(すずり)の名産地です。ところが歴代の知府は中央に納める分の数十倍の硯を作らせ、自分の物にして朝廷の有力者に賄賂として贈っていました。
でも包拯は中央に納める分だけを作らせ、一つも持ち帰りませんでした。
慶曆元年(1043年)。都で殿中丞になりました。大臣の王拱辰の推薦で監察御史になりました。
包拯は「契丹に毎年年貢を払うのではなく、軍を鍛え、将軍を選び、国境警備を充実させる努力をすべき」と朝廷に進言したことがあります。
宋は1004年に契丹との戦争に負けて毎年絹20万疋・銀10万両を契丹に贈ることになっていました(澶淵の盟)。包拯はそれをやめてその分で軍隊を強くしようというのです。当時の宋は軍が弱いのですが、経済的に裕福だったので「金で解決するならいいじゃないか」という雰囲気が強く。包拯の意見は採用されませんでした。
契丹はお金で許してくれましたが、後に北宋は金に領土の北半分を奪われ、元によって滅ぼされます。包拯の心配は的中しました(多少軍事力を強化したくらいでは遊牧民国家に勝てないくらい宋の軍は堕落していましたけれど)。
地方の役人の採用制度を変えて、汚職した役人の追放、恩蔭(手柄をたてた臣下や高官の子供が本人の能力や手柄に関係なく一定の役職につける制度、親の七光り)で職に継いた者を評価し直して置き換えることなどを提案しています。
その後も、様々な役職を経験しました。
名奉行伝説の誕生
嘉祐元年12月(1057年1月)。包拯は開封府尹代理になりました。権力者や富裕層、役人の違法行為を容赦なく取締りました。
包拯が開封府にいたのは嘉祐3年6月まででしたが。その短い間に実績を残して人々から称賛されました。
もともと不正をしない真面目な役人として知られていました。このときの活躍が広まって名奉行物語伝説が生まれました。
庶民にとっては、高官にも容赦せず、不正を行う役人を罰してくれる人物が現実にいるのは痛快です。
嘉祐3年(1058年)6月。右諫議大夫、御史中丞になりました。
包拯は仁宗に早く皇太子を決めるように進言。仁宗は当時58歳でしたが、息子たちが若くして亡くなり跡継ぎがいませんでした。誰が次の皇帝になるか決まっていません。当然、多くの人々が不安に思っています。
仁宗から誰を皇太子にしたらいいか聞かれましたが、包拯は「私は無能なのでわかりません。ただ早くお決めください」とだけ答えました。包拯は政治的な争いには加わろうとしなかったようです。
このとき包拯は「私は60歳になりますが、息子を亡くしています。私は将来の事は考えていません」と答え。それを聞いた仁宗は笑い「このことはゆっくり考えることにしよう」と答えました。
他にも、侍従の数を減らすこと、無駄な経費を削減すること、各省の監督規定を設けること、朝廷が自ら役人を指名できるようにすること、役人の年間休暇日数を減らすことを進言しました。
結局、皇帝の後継者は決まらないまま仁宗は死去するのですが。包拯が訴えた宮廷の経費削減や役人の処遇については実行されました。
嘉祐6年(1061年)。北宋の最高意思決定機関(從二品樞密副使)で働きました。
包拯は出世しても衣服や食事は出世する前と同じの質素な生活を続けました。
嘉祐7年5月24日(1062年7月3日)。包拯は病気のため死亡。享年63。
礼部尚書を追贈されました。
隠し子?
包拯の嫡子・包繶はすでに亡くなっています。
包拯は晩年になって侍女の孫氏に手を出したあと、実家に送り返していました。その孫氏が男子を出産。息子・包繶の妻・崔夫人の援助をうけて育っていました。
包拯が60歳になったときに崔夫人から息子の存在を知らされ。喜んでひきとり包绶と名付けて育てました。
包拯が死亡したとき包绶は5歳でした。包绶は崔夫人たちが育てました。
名奉行と言われる包拯ですが「人としてどうなの?」という逸話もあります。
包拯の額に三日月はなかった
包拯の顔には特徴があります。黒い顔。口ひげ。そして額に三日月形の傷跡があります。でもこれは物語で作られたイメージ。
古い肖像画などでは包拯の顔は黒くありません。三日月の傷もありません。
額に三日月の謎
初期の演劇では包拯の額には「陰陽魚=太極」がありました。その陰陽魚が変化して三日月になったと言われます。包拯の仮面に陰陽魚(太極)があるのは道教で包拯が神として崇拝されたからです。
色黒の謎
京劇では「白い仮面」は陰湿・卑怯者を意味します。「黒い仮面」は反骨・強い意志を意味します。
京劇の包拯の仮面は黒い顔をしています。
そこから「実在の包拯の顔も色黒だった」と言われるようになったようです。
娯楽時代劇の演出
黒い顔に白黒で陰陽魚(太極)を描くと白い部分が目立って額に三日月があるように見えるのです。
つまり包拯の色黒で三日月の傷のある顔は道教の民間伝承や京劇の仮面でアレンジされたものでした。
最初から三日月の印があったのではないのです。
遠山の金さんの桜吹雪と一緒です。史実の遠山金四郎景元 には何らかの入れ墨があったのでは?という説もありますが(ないという説もあります)。
包拯の額の三日月の傷は完全な作り話です。
作り話を事実として信じてるのは中国にはよくあります。というより中国では「事実よりも信じていることの方が重要」なので史実の包拯がどうだったかは関係ないのです。
でも、いくら史実と違っても「桜吹雪のない金さんは遠山の金さんじゃない」のと同じで。時代劇のお約束と思って楽しみましょう。
ドラマ
中国では包拯は有名人。日本の大岡越前や遠山金四郎みたいなものです。数多くのドラマや小説・演劇の題材になってます。
日本で公開されているものだけ紹介します。
開封府・北宋を包む青い天 2017年、中国 演:ビクター・ホァン
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