孝懿王后(ヒョイ王妃) 金(キム)氏は李氏朝鮮の王妃。
第22代国王・正祖(イ・サン)の正妻です。
頭のよい女性だったと言われ、儒教社会では模範的な妻とされました。
その一方では個人的は幸せだったとはいえないエピソードもあります。
史実の孝懿(ヒョウィ)王后 金(キム)氏どんな人物だったのか紹介します。
孝懿王后(ヒョイ王妃) 金氏の史実
プロフィール
姓:金(キム/きん)
名:不明
称号:孝懿王后(ヒョウィワンフ/こういおうこう)
生年月日:1754年1月5日(乾隆18年12月13日)
没年月日:1821年4月10日(道光元年3月9日)
享年:67
王妃在位:1800年~1821年
本貫:清風金氏
父:金時黙
母:唐城府夫人洪氏
夫:正祖
子供:なし
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に22代正祖の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1754年(英祖30年)に産まれました。
父は金時黙。
18代顕宗の妃・明聖王后(粛宗の母)の親戚でした。
母は唐城府夫人 南陽洪氏。
イ・サンの母は豊山洪氏なので親戚ではありません。
イサンの妻になった経緯
粛宗の母の親戚
1761年(英祖37年)。王世孫 李祘 の世孫嬪を選ぶため揀擇(カンテク)が行われました。
王妃や世子嬪を選ぶ行事。初揀擇、再揀擇、三揀擇の三段階で行われるのが一般的。再揀擇で3人まで絞り込まれ最終選考の三揀擇で決定。政治的な思惑が働き揀擇は形だけのときもあります。
英祖は「王世孫の妻には清風金氏から迎えたい」と思っていました。理由は顕宗の正妻で粛宗の母・明聖王后が清風金氏。英祖の父方の祖母が清風金氏だからです。
そのため明聖王后の親戚 金時黙の娘も候補になりました。このとき金氏は9歳。
天然痘にかかり周囲を心配させる
ところが金氏は二揀擇まで進んだところで天然痘にかかってしまいます。
なんとその直後、11月に世孫イサンまで天然痘を発病。天然痘は致死率が高い病気なので周囲は心配しました。幸いにも二人の症状は軽く12月には二人とも回復します。
金氏が天然痘になったとき、周囲には「金氏は世孫と縁が薄い」と陰口を言う人もいました。でも世孫も天然痘になり二人共回復したの逆に二人には不思議な縁があると金氏が注目を集めることになります。
「天と祖先が助けて二人とも順番に天然痘を克服したのは、またとない慶事」と喜ぶ姿が恵慶宮洪氏「閑中録」に書かれています。
世孫が回復した12月には三揀擇が行われ金氏が世孫嬪に選ばれました。
歳が明けて1762年(英祖38年)旧暦2月に嘉礼が行われ、正式に金氏が王世孫・李祘(イ・サン)の正妻になります。このとき金氏は10歳(数え歳)。
おめでたいときに行う大きな行事。ここでは王族の結婚式のこと。
金氏が世孫嬪になった後、彼女の従妹も恵慶宮洪氏の弟と婚姻。清風金氏と王室は二重三重に姻戚関係を結ぶことになります。
世孫 イ・サンの正妻になった金氏
壬午禍変では義母とともに行動
1762年(英祖38年)旧暦2月。王世孫・李祘と結婚。世孫嬪になりました。
その年の旧暦5~閏5月。壬午禍変(じんごかへん)が起こりました。
思悼世子が米櫃に入れられて死亡した事件。
このとき英祖は恵慶宮洪氏と世孫嬪金氏に実家に戻るように言います。ところが世孫嬪金氏は実家には戻らず義母と一緒に居たいといいました。英祖は世孫嬪が恵慶宮洪氏の実家に行くことを許可します。
その後、英祖から王宮に戻るように言われたので2人は王宮に戻りました。
幼い世孫嬪は世孫の父・思悼世子が死亡したときには王宮にいなかったのです。英祖の思いとしては。当時は王宮が騒がしい時期でしたし、義父が死亡する所を見せてくなかったのでしょう。
また幼い世孫嬪が義母と一緒にいると言ったことに英祖は感動しました。。両班の子供は幼い頃から儒教の教育を受けていました。そのためか世孫嬪金氏は非常にもの物分りのいい子供だったようです。
世孫嬪金氏は「模範的な嫁」として英祖からの評判は非常に高かったようです。
最初はイサンとはあまり仲が良くなかった
ところが肝心の王世孫との仲はあまり良くありませんでした。
恵慶宮洪氏の書いた「恨中録」によると
若いころのイ・サンは淡々とした性格で、世孫嬪には興味を持たなかったようです。
英祖は2人が仲良くなって子供が産まれることを願っていました。英祖は世孫には世孫嬪と仲良くするようにと言っていたといいます。でも、世孫としてはそう言われるとますます反発したくなったのかもしれません。
世孫嬪の父も夫婦が仲良くして早く元子(跡継ぎ)が生まれるのを望んでいました。
また”和緩翁主(ファワンオンジュ)は「世孫は子供ができない病気でいらっしゃる」と言いふらしていました。「恨中録」では和緩翁主のことを「人びとを惑わしている。意地悪で凶悪な女だ」と書いています。
その英祖が1776年(英祖52年)に他界しました。
王妃になる
孝懿王后と正祖の仲が良くなる
1776年。夫の李祘(イ・サン)が即位しました。22代国王・正祖です。
金氏は王妃(孝懿王后:ヒョイワンフ)になりました。当時22歳。
正祖の即位後。孝懿王后と正祖の仲は徐々に良くなっていきました。周囲の様々な人間関係が2人の仲に影響していたようです。
孝懿王后と正祖は仲睦まじい夫婦になったといわれます。
跡継ぎ誕生のプレッシャーで想像妊娠
しかし正祖は30歳近くになっても跡継ぎはできませんでした。
そのプレッシャーは正妻の孝懿王后にのしかかってきます。
このころ側室たちにも跡継ぎ誕生のプレッシャーはかかっていました。和嬪尹氏は妊娠して産室庁が設置されましたが、30ヶ月近くも子供が誕生せず解散になったことがあります。
1787年(正祖11年)。孝懿王后が妊娠したと発表になりました。臣下たちが産室庁の設置を求めましたが、正祖は和嬪尹氏のこともあり身長になっていました。臣下が2度請願しても却下。3度目で産室庁を設置しました。
ところが1788年(正祖12年)。孝懿王后は想像妊娠だったことがわかりました。
このころは、跡継ぎを期待する周囲の圧力が大きく王妃や側室たちにも過剰な期待がかかっていたようです。
1796年(正祖20年)。「蛔気」という病気になり。非常な心配性になり、不安と苛立ちがなかなか収まらなかったようです。
このとき42歳。さまざまなストレスがあったのでしょう。
王妃暗殺?
1799年(正祖23年)。元嬪洪氏が死亡。
ドラマ「イ・サン」では妹の元嬪(ウォンビン)を失った洪国栄(ホン・グギョン)が、孝懿王后(ヒョイ王妃)を逆恨みして暗殺しようとする話が出てきます。もちろん失敗します。
野史には「洪国栄が孝懿王后の食事に毒を入れようとして失敗、その結果没落した」という話がありますが、この話も19~20世紀になって作られた話なので信憑性はありません。
史実では洪国栄が王妃を暗殺しようとしたという記録はないのです。
王妃の暗殺未遂は史実ではないといえます。
民間に伝わる噂話や誰かが書いた作り話を集めた物。
李玜(純祖)の嫡母になる
正祖と孝懿王后の間には子供はいませんでした。
そこで綏嬪朴氏が産んだ李玜(後の純祖)養子にしました。
1800年(正祖24年)。正祖が死去。
純祖 李玜が即位。
孝懿王后は王大妃になりました。
1821年。死去。享年61。
テレビドラマ
大王の道 1998年 演:イ・エジョン
イサン 2007 演:朴 恩恵(パク・ウネ)
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