定宗は李氏朝鮮王朝の2代目の国王。李芳果(イ・バングァ)といいます。
李芳果は勇敢な武将でしたが、普段は温厚で野心のない人でした。父のためには勇敢に働きますが、自分で権力を持とうとは思わない武将だったのです。
ところが父が国王になったことから人生が変わってしまいます。弟・李芳遠が起こした反乱で国王にされてしまいます。でも李氏朝鮮では長い間、王として認められていない人物だったのです。
史実の定宗(李芳果)はどんな人物だったのか紹介します。
定宗 李芳果(イバングァ)の史実
プロフィール
生年
生年月日:1357年7月18日
没年月日:1419年10月15日
在位期間:1398年~1400年
名前
名前:李芳果(イ・バングァ)
称号:定宗(チョンジョン)
永安大君(ヨンアンテグン)
家族
父:太祖
母:神懿王后
正室:定安王后金氏
他 側室あり
彼が生きたのは1357年~1419年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の2代目国王です。
日本では室町時代の人になります。
李芳果(イバングァ)の家系図
定宗 李芳果(イバングァ)の親兄弟。全州李氏の始祖を含めた祖先の家系図は以下のようになります。
○数字は国王に即位した順番です。
定宗 李芳果(イバングァ)の生涯
1357年。高麗の武将・李成桂(イ・ソンゲ)と第一夫人・韓氏との間に生まれました。
李芳果は勇敢な武将でした。温厚で知略に優れていたといいます。
父・李成桂とともに数々の戦場で戦いました。特に倭寇と戦いで功績がありました。
1389年。李成桂たちが昌王を排除して恭讓王を即位させたときにも活躍しました。
1392年。李成桂は恭讓王を排除して自らが王になりました。李氏朝鮮の初代国王・太祖です。李芳果は永安君の称号を与えられました。王の息子たちも重臣たちとともに政治に参加していました。
太祖は8男の李芳碩を世子にしました。李芳碩は李成桂の2番めの妻・神徳王后康氏の息子です。最初の妻(この時すでに他界)神懿王后韓氏の息子たちは反対しました。特に5男の靖安君(李芳遠)の不満は強かったといいます。
1398年。鄭道伝と対立していた靖安君(李芳遠)が反乱を起こしました。鄭道伝を殺害、李芳碩らも殺害しました。(第一次王子の乱)
この事件の後、嫌気がした太祖は王位を退いてしまいます。
事件の首謀者・李芳遠は自分は王にならずに李芳果を次の王に推薦しました。李芳果は断ろうとしましたが、押し切られてしまいまいました。
国王になった李芳果
李芳果は2代目国王となりました。しかし権力は李芳遠が握っていました。李芳果はますます権力を集めるように政治を行います。李芳果は名目だけの王になっていました。
李芳遠は私兵を禁止して全ての兵を王のものにしようとしました。もちろん李芳果には権力はないので実質的には李芳遠の権力が更に高まります。
1400年1月。私兵の禁止に反発した4男の李芳幹(イ・バンガン)が反乱を起こしました。街の中で激しい戦いの後、反乱は鎮圧されました。李芳幹は流罪になりました。(第二次王子の乱)
この戦いで李芳遠に対抗できるものはいなくなりました。
李芳果には側室から産まれた子供は何人かいましたが、正室から産まれた子供はいません。李芳遠が世弟となりました。
李芳果は政治に関心を示さくなり、毎日、狩りやスポーツ、宴会をして暮らしました。政治の世界から遠ざかることが生き延びる方法だと考えたのです。
正室の金氏もいつ自分たちが殺されるか怯えていました。形だけの王妃に心苦しさを感じた金氏は李芳果に譲位を勧めたといいます。
12月。ついに李芳果は王位を弟の李芳遠に譲り上王となりました。
上王となった李芳果は野心は持たず、狩りやスポーツ、宴会などをしながら暮らしました。
19年の間、上王として生き延びたのでした。
名前のなかった王
朝鮮王朝の2代目の国王となった李芳果でしたが、王としての廟号は与えられませんでした。
中継ぎの存在だと考えれ、正式な王だとは思われていなかったのです。
「定宗」の称号が与えられたのは1681年。粛宗の時代でした。
300年もの間、王として認めてもらえなかったのです。
テレビドラマ
国 KBS 1983年 演:ナム・ソンシク
朝鮮王朝500年 MBC 1983年 演:イ・ヨウンフ
龍の涙 KBS、1996年 演:テ・ミンヨウン
大王世宗 KBS、2008年 演:ノ・ヨウングク
大風水 SBS、2012年 演:オ・ヒジュン
鄭道伝 KBS、2014年 演:イ・テリム
六龍が飛ぶ SBS、2015年 演:ソ・ドンウォン
私の国 JTBC 2019年 演:キム・ソウォン
太宗 イバンウォン KBS 2021年 演:キム・ミョンス
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