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昭顕世子は不審な死をとげた悲劇の王子

朝鮮王族 3 李氏朝鮮の王子

昭顕世子は16代朝鮮国王仁祖の長男。王位継承者でありながら謎の死をとげ、家族が処刑されるという悲劇の王子です。

清との戦争に負けた朝鮮から人質として送られました。人質生活が終わって朝鮮に戻ってみると歓迎してくれる人は朝廷にはいませんでした。しかも帰国して2ヶ月後に死亡しています。家族が処刑されるなど不幸が相次ぎます。

「馬医」の第1話で死にそうになってるのが昭顕世子なんですね。「華政」や「宮廷残酷史」でも昭顕世子の死は大きな事件として扱われます。

史実の昭顕世子について紹介します。

 

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昭顕世子(ソヒョンセジャ)の史実

プロフィール

名前:李汪(イ・ワン)
称号:昭顕世子

生年月日:1612年2月5日
没年月日:1645年5月21日

朝鮮王朝(李氏朝鮮)の光海君~16代仁祖の時代の人です。

日本では江戸時代の初期。3代将軍・徳川家光(1604~1651)時代の人になります。

昭顕世子の家族

父:仁祖
母:仁烈王后韓氏
妻:愍懐嬪姜氏

子供
慶善君 (ソクチョル,1636-1648年)
慶完君 (ソクリン,1640-1648年)
慶安君 (ソクギョン,1644-1665年)
慶淑郡主 (1637-1655年)
慶寧郡主 (1642-1682年)
慶順郡主 (1643-1697年)

昭顕世子の家系図

仁祖・孝宗 家系図

 

おいたち

1612年。綾陽君(ヌンヤングン)の長男として生まれます。もともとは王位とは無縁の王族でした。しかし父・綾陽君が西人派に担がれクーデターを起こしたことから人生が変わります。

1623年。父・綾陽君がクーデーターを起こし光海君を倒して王(仁祖)になりました。
1625年。李汪は世子になります。

王になった仁祖は明と友好的な態度を取る一方、後金とは対立しました。

1627年。後金は朝鮮に攻めてきました。このときは和議を結びました。後金と朝鮮は兄弟の関係でした。(丁卯の役)

1627年末。姜氏と結婚。

後金は清と名を変えました。朝鮮に対して君臣の関係を求めました。朝廷内では強硬派の意見が強くなり、清に宣戦布告します。

1636年。清のホンタイジは10万の兵で攻めてきました。朝鮮軍は追い詰められます。

1637年1月30日。朝鮮は降伏。三田渡にある清軍本営で朝鮮王がひれ伏して忠誠を誓いました。三跪九叩頭の礼といいます。3度ひざまずき9回頭を地につける行為でした。朝鮮にとって清にこの行為をするのは屈辱的なことでした。

降伏の条件には朝鮮が王の息子を人質を出すことも含まれていました。昭顕世子は嬪宮姜氏、次男・鳳林大君、鳳林大君の妻、三男・麟坪大君とともに清の都・瀋陽に行きました。息子たちと別れるとき、仁祖は涙を流して悲しんだといいます。

清での人質生活

清の都・瀋陽で8年間生活しました。

昭顕世子は朝鮮と清を仲介する役割を果たしました。朝鮮の代表としてイングルダイ(塔喇英俄爾岱、朝鮮語ではヨンゴルテと発音、清の摂政ドルゴンの腹心)と交渉を行い、清の情報を朝鮮に送るとともに、清が朝鮮に危害を加えないように努力しました。

清で捕まっている朝鮮人の保護にも多くの力を使いました。その中には清で投獄された金尚憲(キム・サンホン)も含まれます。奴隷として売られている朝鮮の人々を買い取りました。彼らを労働者として雇い清国内で経済活動をはじめました。しかしこのことが朝鮮に伝わると仁祖の昭顕世子に対する不信感が高まります。

現代では考えられませんが儒教思想では商売は卑しい仕事でした。王族が商売をすることは王室を汚す行為だと考えられました。ドラマ「花たちの戦い宮廷残酷史」では朝鮮の重臣が世子一家が農業をしていることに怒っていましたが、儒教思想では商売はもっと下なんです。日本でも「金儲けはみっともない」という考えがありますが、これは江戸時代に広まった儒教思想の名残なんです。だから「士農工商」の順なんですね。

さらに昭顕世子はモンゴルの言葉を学び、清の西域遠征にも同行しました。

1644年。清軍と共に明の都・北京に入ります。北京ではアダム・シャールらイエズス会宣教師と交流し西洋の文化に触れました。朝鮮に西洋文化を導入すること前向きで宣教師に手紙を送っていたといいます。

昭顕世子一行には朝鮮の帰国許可が出ました。人質は朝鮮が明に味方しないようにするためのものでした。明が滅んだので人質は必要なかったのです。

帰国と冷たい王の仕打ち

1645年2月。朝鮮に帰国しました。昭顕世子は朝鮮の民衆からは人望がありました。仁祖は快く迎えてくれませんでした。

昭顕世子は清や西洋の文明を朝鮮に持ち込み、朝鮮を発展させようとしました。しかし仁祖は清や西洋の文化の良さを力説する昭顕世子に対してスズリをぶつけたといいます。

清に対して恨みを持つ仁祖や重臣たちからは、昭顕世子は清の文化に溶け込み清に友好的に思えました。清に恨みを持っている仁祖や重臣にとっては裏切り者です。またキリスト教や西洋文明を野蛮だと考え、それらを素晴らしいと感じる世子を理解できなかったともいわれます。

帰国して2ヶ月後、昭顕世子は突然息を引き取ります。体のあちこちに黒い斑点が出て出血がみられることなどから毒殺されたのではないかと考えられます。

死の3日前に診察したイ・ヒョンイクは貴人趙氏の実家に出入りした記録があります。仁祖あるいはキム・ジャジョムがイ・ヒョンイクを使って毒殺したのではないかといわれます。

昭顕世子が亡くなった後の対応も異常でした。

1645年6月。昭顕世子よりも遅れて帰国した鳳林大君(ポンニムテグン)に対して、仁祖は鳳林大君を世子に任命しました。鳳林大君は反対の上訴を行いました。しかし昭顕世子から世子の位を取り上げて、鳳林大君を世子にしました。

昭顕世子の葬儀は大幅に簡略されたものになりました。仁祖は死ぬまで一度も昭顕世子の墓に行きませんでした。

昭顕世子の3人の息子は済州島に流刑になりました。嬪宮姜氏の兄弟は流刑の後死罪。嬪宮姜氏は身分を平民に落とされて死罪となりました。

昭顕世子と血筋、関係者に対する執拗なまでの弾圧は昭顕世子の暗殺説の根拠ともなってます。

作られた逸話

朝鮮にはこのような逸話が伝わっています。

昭顕世子と鳳林大君が朝鮮に戻るときに清の皇帝は何がほしいか訪ねました。昭顕世子は皇帝の愛用しているスズリ。鳳林大君は朝鮮人の人質がほしいといいました。2人は帰国して、清から受け取った贈り物を報告しました。すると仁祖は怒って昭顕世子が受け取ってきたスズリを世子にぶつけました。という逸話です。

しかし昭顕世子が死んだ後。鳳林大君が王としてふさわしい人物なこと。昭顕世子は清国かぶれの人物と思わせるために作られた話です。

そうまでして昭顕世子を王にしなかったことを正当化したかったんですね。

登場作品

イルジメ 一枝梅 SBS2008年 演: キム・ジワン
必殺! 最強チル KBS2008年 演: イム・ホ
タムナ  MBC2009年 演:  ソ・ヨンドン
推奴 KBS2010年 演: カン・ソンミン
馬医 MBC2012年 演: チョン・ギョウン
花たちの戦い-宮廷残酷史 JTBC2013年 演: チョン・ソンウン
三銃士 tvN2014年 演: イ・ジヌク
華政 MBC2015年 演:  ペク・ソンヒョン

 

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