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仁元王后(イヌォン王妃)は英祖のもう一人の母

仁元王后(イヌォン王妃)は粛宗の3人目の妃です。

16歳で王妃になりました。厳格な性格で強い意志の女性だったといいます。

淑嬪崔氏とも親しくし、延礽君(ヨニングン・後の英祖)の保護者となりました。

仁元王后がいなければ、延礽君は派閥争いに巻き込まれて死んでいたかもしれません。

英祖の育ての母と言ってもいい存在です。

史実の仁元王后(イヌォン王妃)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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仁元王后(イヌォン王妃)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1687年11月3日
没年月日:1757年5月13日

称号:仁元王后
父:金柱臣(キム・ジュシン)
母:チョ氏
夫:粛宗

子供:なし

彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗の妃です。

日本では江戸時代の人になります。

 

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イヌォン王妃の生涯

1687年。司憲府の監察をつとめた金柱臣(キム・ジュシン)の娘として産まれました。金柱臣は少論派でした。

1701年。仁顯王后が亡くなります。
1702年。粛宗の妃になりました。16歳でした。

淑嬪崔氏や寧嬪金氏と親しかったといいます。

淑嬪崔氏の死後。淑嬪崔氏の息子だった延礽君(ヨニングン・後の英祖)の母親的な存在になりました。

1720年。粛宗が亡くなり景宗が即位しました。
仁元王后は大妃になります。

当時、延礽君に味方していたのは老論派でした。

仁元王后は少論派重臣の娘でした。

でも、彼女自身は老論派となり、延礽君を守ろうとしました

1721年。延礽君を世弟になりました。もともと粛宗の時代から景宗が即位したら延礽君が世弟になることは決まっていました。

しかし少論派の反対でなかなか世弟に決まりませんでした。景宗には子がなく、一番近い王族は延礽君でした。仁元王后が延礽君を世弟にすることを強く支持して8月に世弟になりました。

景宗の即位後。景宗を支持する少論派の力が有利になり、老論派の粛清が行われました。

味方を失った延礽君を守ったのは仁元大妃でした。仁元大妃は延礽君を自らの養子に迎えました。

延礽君は仁元大妃の保護のもと生き延びて支持者を増やしました。

1724年。もともと病弱だった景宗が亡くなり、英祖が即位しました。

仁元大妃は英祖とその妃の貞聖王后から親孝行をうけました。

1757年。義理の娘にあたる貞聖王后が65歳で亡くなります。

その1ヶ月後、仁元大妃は71歳で亡くなりました。

テレビドラマの仁元王后

大王の道 MBC 1996 演:キム・ヨンニム
トンイ MBC 2010 演:オ・ヨンソ

 

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王妃・側室
この記事を書いた人

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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