貴人 南氏・成宗の側室は中宗の時代まで居残った

2 李氏朝鮮の妃・側室

貴人 南氏は 9代朝鮮王・成宗の側室。

成宗の死後も10代燕山君、11代中宗の後宮にいました。

先代の側室でありながら燕山君とはよくない噂も流れ。
中宗の時代には朝廷の役人からの評判はよくありません。

でも後宮には親しい人もいてそれなりに後宮ライフを送っていたようです。

史実の貴人 南氏はどんな人物だったのか紹介します。

 

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貴人 南氏 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1531~1536の間。

姓:南(ナム)
称号:
父:南忻(ナム・フン)
母:全州李氏(孝寧大君のひ孫)
妻:

彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に9代成宗~11代中宗の時代です。

日本では室町時代末期、戦国時代の人になります。

成宗~燕山君時代の淑儀南氏

父・南忻(ナム・フン)は監察でした。

母・全州李氏は孝寧大君のひ孫。

孝寧大君は朝鮮太宗・李芳遠(ウバンウォン)の次男。世宗の兄です。

貴人南氏は南忻の長女か三女です。

南氏がいつ成宗の側室になったのは分かっていません。

1480年(成宗11年)。父の南忻は孝寧大君の妾の梅花と密通して解雇されまいた。

1482年(成宗13年)。南忻が再び採用されました。

490年(成宗21年)。南忻は同副承旨になりました。

南氏は1480~1490年の間に成宗の側室になったと思われます。

南氏は成宗の側室になって淑儀になりました。成宗時代は淑儀のままです。

成宗の死後も宮中に残りました。

 1506年(燕山君12年)。燕山君と密通したと書かれています。このときも淑儀です。

もしこれが本当なら燕山君が失脚したときに一緒に追放になっていないとおかしいですが。本当でしょうか。でも燕山君と親しくしてよくない評判はたっていたのでしょう。

燕山君の死後も宮中に残りました。

中宗時代の貴人南氏

中宗時代にも後宮にいたようです。朝鮮王朝には出家も殉葬もないので先代の側室たちは後宮に残ります。テレビドラマには先代の側室たちは出てきませんが。実際の後宮には大勢の人がいたことになります。

中宗の生母・貞顕王后(大妃) 尹氏が同世代の側室たちの面倒をみていたようです。

南氏は中宗の時代に貴人になりました。

1527年(中宗22年)。司憲府から弾劾を受けました。

先王(成宗のこと、燕山君は廃されたので王扱いされていません)の側室たちは優遇されている。それも大妃(中宗の生母・貞顕王后 尹氏)のおかげだ。でも貴人南氏はずる賢くいつまでもくっついてきています。長い間家族のふりして宮中をぐちゃぐちゃにしている。世論(と言っても役人たちですが)がそう言ってるのだからなんとかするべき」

と訴えられました。もちろん大妃が生きている間は役人が騒いでもどうにもなりません。

朝廷の役人からは評判の悪かった貴人南氏ですが、章敬王后(中宗の2番めの正室)の姉・坡平県夫人尹氏とは母娘のように親しい間柄でした。

坡平県夫人尹氏は、月山大君(世祖の孫)の息子・徳豊君の妻です。

1515年。章敬王后の死後。章敬王后の娘・孝恵公主を坡平県夫人尹氏と共に娘のように育てました。

1531年に孝恵公主が娘の善玉(ソンオク)を産み産後の病気で亡くなると坡平県夫人尹氏と共に善玉の面倒を見ながら孝恵公主の財産を管理しました。

貴人南氏は死の間際、坡平県夫人尹氏に孝恵公主の財産を渡し、孝恵公主の娘・善玉が成人したら返すように言い残しました。

 

南氏の死後におきた遺産相続問題

その後、坡平県夫人も死亡。

坡平県夫人の子らで遺産を分けました。

ところが遺産相続で揉めて坡平県夫人の息子・桂林君 李瑠が兄弟の妻が文定王后(中宗の3番めの正室)に訴え、文定王后は桂林君を呼びだして叱りつけました。その後、桂林君 は政変で文定王后の政敵とともに処分されます。

おかしな流れになってますが。
遺産の行方は貴人南氏のせいではないのでおいといて。

この記録からわかるのは。
孝恵公主が死亡した年は1531年。
坡平県夫人尹氏が死亡した年は1536年。
貴人 南氏は1531年から1536年の間に死亡したことです。

宮中では評判の悪かった貴人南氏ですが。章敬王后(中宗の2番めの正室)の姉とは仲が良く、章敬王后の娘・孝恵公主やその娘・善玉を育てたように。親しい人には親切だったようです。

相手によって態度や行いが極端に変わる人なのでしょう。

テレビドラマ

師任堂(サイムダン) 2017年、SBS 演:キム・ヘスク 役名:ナム貴人

 

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