哲仁王后・安東金氏最後の王妃はひっそりと暮らした

2 李氏朝鮮の妃・側室

哲仁王后(てつじんおうごう、チョルインワンフ)は李氏朝鮮王朝の25代国王・哲宗の正室。

明純王后(めいじゅんおうごう)と呼ぶことともあります。

哲仁王后が生きた時代は朝鮮王朝末期の混乱した時代。

安東金氏や豊壤趙氏といって一部の一族だけが富と権力を独り占めして民衆が搾取に苦しんでいた時代です。王に代わって一部の一族が政治権力を独占することを勢道政治(せいどうせいじ)といいます。

哲仁王后も安東金氏の富と権力を維持するため期待されて王妃になりました。

ところが哲仁王后は政治には関わらず実家に有利な活動をすることもなく大人しく暮らしていました。

史実の哲仁王后はどんな人物だったのか紹介します。

 

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哲仁王后(てつじんおうこう)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1837年4月27日
没年月日:1878年6月12日

名前:金(キム)
称号:哲仁王后(てつじんおうごう、チョルインワンフ)
本貫:安東金氏
父:金汶根(キム・ムングン、永恩府院)
母:驪興閔氏(興陽府夫人)
夫:哲宗(25代朝鮮王)

子供:隆俊

彼女が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に24代憲宗~26代高宗の時代です。

日本では江戸時代から明治時代になります。

おいたち

1837年4月27日(憲宗3年、道光17年3月23日)に生まれました。

父親は金汶根。安東金氏の一族です。

母親は驪興閔氏。

1849年6月6日。24代朝鮮王・憲宗が跡継ぎのいないまま死去。

6月9日。純元王后の指名で江華島に流されていた李元範が25代朝鮮王・哲宗になりました。

哲宗は正祖の異母弟・恩彦君の孫。恩彦君は「謀反を企んだ」という理由で江華島に島流しになっていました。哲宗は王族の一族でしたが、罪人の子孫なので王族としての生活はできず農業を行って生活していました。

哲宗は19歳。自分で政治を行える年齢でした。でもついこの間まで農民だった青年がいきなり宮廷に連れてこられたのです。漢字も読めませんし政治ができるはずがありません。

そこで純元王后は「哲宗は政治経験がない」という理由で垂簾聴政を行いました。

実際に政治を主導したのは純元大妃の兄・金左根です。

14歳で王妃になる

1851年(哲宗2年)。憲宗の喪があけると早速王妃選びが始まりました。

安東金氏はもちろん同じ一族から王妃を出そうとします。

金左根の親戚・金汶根の娘が王妃に選ばれました。それが 哲仁王后 です。

哲宗はただ純元大妃や金左根に言われるがままに王妃を迎えました。

こうして

23代 純祖の妃・純元王后
24代 憲宗の妃・孝顕王后
25代 哲宗の妃・哲仁王后 と

三代続けて安東金氏から王妃が誕生しました。

大妃だらけの後宮でひっそりと暮らす

安東金氏の権力を維持するため王妃になった哲仁王后でした。

彼女自信は口数が少なく、実家の肩をもつこともなく、政治的な行動を行っていません。

彼女に求められたのは安東金氏をさらに栄えさせること。

ところが哲仁王后が王妃になったときに後宮にいたのは

純元大王大妃 金氏(純祖の妃) 63歳。
神貞大妃 趙氏(憲宗の生母) 44歳。
孝定大妃 洪氏(憲宗の継妃) 21歳。

たちです。

ちなみにドラマ「カンテク」はほぼ純祖・憲宗の時代をモデルにしています。ドラマ「カンテク」「哲仁王后」のヒロインたちの行いが失敗したら実現してしまうのが現実の純祖~憲宗~哲宗の時代。

逆にいうと現実の歴史があまりにも醜いのでまともにはドラマにできません。正祖から後の時代のドラマがほとんどないのはそのため。そこで「こうだったらいいなあ」と変えたのがドラマ「カンテク」や「哲仁王后」です。

現実の話に戻すと。

哲宗の時代は大妃だけでも3人います。名門出身の大妃だらけの後宮で 14歳(数え年)の哲仁王后に何かができるでしょうか?

哲仁王后は自分の感情を押し殺して大人しく生きていました。

おかげで大妃たちからは「孝行な娘だ」と褒められました。

豊壤趙氏が勢道政治の主役に

1857年 純元大王大妃 金氏が死去。

趙氏が大王大妃になり、後宮の最長老になりました。大王大妃 趙氏は安東金氏と熾烈な権力争いをしている豊壤趙氏の出身です。

純元大王大妃がいなくなれば、哲仁王后が安東金氏の利益のために活動しなくてはいけません。

ところが哲仁王后は30歳も年上の大王大妃 趙氏と張り合えるほど気は強くなかったようです。

哲仁王后は実家の肩をもつことなく大人しくしていたと言われます。

待望の長男が生まれる

1858年(哲宗9年)10月。22歳のとき。男子を出産。哲宗にとっても長男です。もちろん哲宗は大喜びです。

哲仁王后も跡継ぎの生母になれば発言力も高まります。

1859年(哲宗10年)1月。元子が生まれて100日目。哲宗は益豊府院君・洪在龍(憲宗の正室・孝定王后の父親)のもとに行って、一族の長や親族・重臣の主な者を集めるように言いました。そこで元子の幼名を決めることになりました。

領議政の鄭元容は「洪、福、長、祿」の字を推薦。
哲宗は「胤、重、隆、俊」の名を候補にしました。

最終的に元子の幼名は「隆俊」と決まりました。

1859年(哲宗10年)4月。ところが生まれて6ヶ月で元子の隆俊が死亡しました。死因は不明です。

さらに。不幸は続きます。

1863年。哲宗が死去。享年33(数え歳)。

28歳で未亡人になりました。

哲宗の死後もひっそりと暮らす

王が跡継ぎを残さずに死去した場合。大妃に次の王の指名権があります。このとき指名権を主張したのが後宮の最長老・大王大妃 趙氏でした。

大王大妃 趙氏は興宣君の息子・李命福を次の王に指名。

李命福はまだ12歳。李命福の父・興宣君は王族とはいえ物乞いをするほど落ちぶれた家でした。大王大妃 趙氏はあえて落ちぶれた王族を後継者に選びました。そのほうが操りやすいからです。

安東金氏も興宣君とその息子をあなどっていました。

12歳の李命福が王になれば垂簾聴政をするしかありません。

大王大妃 趙氏は57歳。でも哲仁王后はまだ27歳。しばらく我慢すれば哲仁王后が垂簾聴政して安東金氏の時代が来ると考えました。

安東金氏の重臣・金左根も他の重臣たちも大王大妃 趙氏が指名した李命福の即位に従いました。

1863年。わずか12歳の李命福が即位しました。26代朝鮮王・高宗の誕生です。

垂簾聴政を行ったのは大王大妃 趙氏です。

1866年(高宗3年、同治五年)。「明純大妃」の称号が与えられました。

このころ。興宣大院君は大王大妃 趙氏の垂簾聴政をやめさせてしまいます。興宣大院君は豊壤趙氏と争って政治の主導権を奪いました。

興宣大院君の変わりように驚いたのは豊壤趙氏だけでなく、安東金氏も同じです。

大王大妃 趙氏ですら手に負えない興宣大院君ですから、もちろん明純大妃も何もできません。

1868年。日本では明治に改元。東アジアにも欧米が押し寄せ、世界は大きく変わっていました。そんな世界の動きとは関係なく朝鮮国内では両班たちの権力争いが続いています。

 

驪興閔氏が権力の主役に、安東金氏は力を失う

高宗の妃・明成王后 閔氏とその一族の驪興閔氏が興宣大院君を激しく批判、争っていました。

そして驪興閔氏の勢力は興宣大院君を政治の場から引退させてしまいます。

実家の安東金氏も驪興閔氏との争いに劣勢にたたされてしまいます。

勢道政治の主役が安東金氏や豊壤趙氏から驪興閔氏に変わっただけでした。

この間、明純大妃は後宮でひっそりと暮らして目立った動きは何もしていません。安東金氏にはかつての力はなくなっていたようです。

1878年6月12日(高宗15年、光緒4年5月12日)。昌慶宮養和堂で死去。享年42。

諡號は 明純徽聖正元粹寧敬獻莊穆哲仁王后。

 

有力一族出身でも存在感の薄かった王妃

哲仁王后(明純大妃)金氏は若いときは純元王后 金氏、神貞王后 趙氏の影に隠れて目立たない存在でした。

晩年は 14歳年下の明成王后 閔氏と興宣大院君の争いに加わることなくひっそりと暮らしました。

哲仁王后 金氏には純元王后 金氏、神貞王后 趙氏、明成王后 閔氏ほどの野心も強さもなかったのでしょう。

ドラマ「哲仁王后」では主役になりました。

でも、ほぼ同じ時代を描いた「風と雲と雨」では哲仁王后は登場しません。劇中の「壮洞金氏」が史実の「安東金氏」になります。哲宗の時代、一世代前の 趙大妃 や一世代後の 閔玆暎(後の明成皇后)が登場するにもかかわらずです。

史実の哲仁王后も長生きしたわりには、ほぼ記録がない人でドラマにはしにくいです。実際にはそのくらい存在感のなかった王妃なのでしょう。

もしかすると争いは好まない人物だったのかもしれません。

 

テレビドラマ

明成皇后 2001年、KBS 2 演:兪惠暎 


哲仁王后 2020年、tvN 演:申恵善 役名:キム・ソヨン(金昭容)
 タイムスリップ、男女入れ替わりもののバリエーション。現代人の男ボンファンの魂だけが朝鮮時代のキム・ソヨン(金昭容)に乗り移ってしまいます。哲宗ともに大妃や政敵達を排除。最後にボンファンは現代に戻ってきます。本来の魂を取り戻した哲仁王后と哲宗は大妃たちから権力を取り戻し、哲宗は良い政治を行って名君になります。他のタイムスリップものと違って現代人が過去に介入して歴史を変えてしまいました。

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