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嬪宮姜氏(ピングン・カン氏)はひどすぎる仕打ちを受けた昭顕世子の妻

朝鮮王族 2 李氏朝鮮の妃・側室

嬪宮・姜氏(カン氏)は朝鮮第16代国王仁祖の息子・昭顕世子の正室です。ゆくゆくは王妃になるはずでした。夫の昭顕世子が謎の死をとげたばかりか、姜氏は王を毒殺しようとしたと濡れ衣をきせられ処刑されてしまいます。姜氏の兄弟も処刑され息子たちは流罪になりました。

昭顕世子が父に疎まれて謎の死を遂げたことは有名な事件です。なので「馬医」や「華政」などドラマで描かれれました。でも姜氏の死を描いたドラマは殆どありません。「華政」では姜氏は登場しましたがあまり出番はありませんでした。昭顕世子が死んだあとは出番がなくなりました。

嬪宮姜氏を描いたドラマといえば「花たちの戦い~宮廷残酷史」が印象深いですね。このドラマでは嬪宮姜氏が昭顕世子よりも目立っています。主人公のヤムジョンは嬪宮姜氏と対立した貴人趙氏。嬪宮姜氏と王の対立も物語の軸になっています。

史実の嬪宮姜氏もドラマに負けず劣らずひどい扱いを受けている人です。史実の嬪宮姜氏とはどんな人だったのか紹介します。

 

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世子嬪・姜氏(カン氏)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1611年4月18日
没年月日:1646年4月30日

称号・愍懐嬪姜氏
父:姜碩期(カン・ソクギ)
夫:昭顕世子(ソヒョンセジャ)

子供
慶善君 (ソクチョル,1636-1648年)
慶完君 (ソクリン,1640-1648年)
慶安君 (ソクギョン,1644-1665年)
慶淑郡主 (1637-1655年)
慶寧郡主 (1642-1682年)
慶順郡主 (1643-1697年)

朝鮮王朝(李氏朝鮮)の光海君~16代仁祖の時代の人です。

日本では江戸時代の初期。3代将軍・徳川家光(1604~1651)時代の人になります。

おいたち

右議政・姜碩期(カン・ソクギ)の娘でした。

1623年。仁祖がクーデーターを起こし光海君を倒して王になりました。
1625年。仁祖の長男・李汪は世子になります。
1627年。16歳で昭顕世子と結婚。世子嬪になりました。

清での人質生活

1636年。清との戦争で負けた朝鮮は人質を出すことになりました。昭顕世子、嬪宮姜氏、鳳林大君、鳳林大君の妻とともに清の都・瀋陽に行きました。

清に滞在する間、昭顕世子は清が朝鮮に危害を加えないように交渉し、清に捕まった人々を保護しました。姜氏も世子の活動を助けたといいます。

人質生活している間も姜氏と昭顕世子との間には5人の子供が生まれました。二人の仲は良かったようです。人質生活とはいえ、もしかするとこの時期が一番幸せだったのかもしれません。

1644年。明が滅亡しました。
1645年。年が明けると昭顕世子と嬪宮姜氏は人質生活を開放されて朝鮮に帰国しました。

8年間の人質生活でした。

帰国後の苦難

ようやく国に戻って、ほっとしたのもつかの間。仁祖は世子を暖かく迎え入れてくれません。いつのまにか仁祖は世子を憎むようになっていました。

昭顕世子は清の文化を勉強してカトリックと西洋文化を朝鮮の国作りのために役立てようと考えました。ところが仁祖は昭顕世子を「清にかぶれている」として快く思わなかったのでした。清との戦いに破れ、屈辱的な思いを持つ重臣たちも仁祖に同調しました。故郷に帰ってきたものの世子を支持するものはいませんでした。

昭顕世子の死亡

1645年4月12日。昭顕世子はイ・ヒョンイクの針治療をうけた3日後に亡くなりました。34歳と短い生涯でした。世子の死亡原因は不明とされています。

イ・ヒョンイクは貴人趙氏の実家に出入りしていた医師でした。貴人趙氏とその後ろ盾だったキム・ジャジョムが関係しているといわれます。

嬪宮姜氏は世子死亡の真相調査を望みました。ところが仁祖は拒否しました。はやばやと入棺させて葬儀をやってしまいました。世子にもかかわらず平民並みの簡素な葬儀でした。参列者も制限されました。以後、世子の死亡の件については口にすることを禁じられてしまいました。

奪われた息子の王位継承権

その後、鳳林大君が世子になりました(後の17代孝祖)。鳳林大君は世子になることに反対しましたが、仁祖は強引に鳳林大君を世子にしました。

本当なら昭顕世子の息子である慶善君が世孫になるはずです。姜氏の衝撃は大きかったに違いありません。夫を失ったばかりでなく、息子の王位継承まで奪われてしまったのです。

8月。仁祖は姜氏の兄弟を流罪にしました。

孤独になった姜氏ですが攻撃は収まりません。嬪宮姜氏と対立していた貴人趙氏は昭顕世子を毒殺したのは姜氏だといいふらしました。

仁祖も姜氏を疎ましく思っていました。仁祖に取り入ろうとしたキム・ジャジョムはある計画をたてます。

アワビ事件で処刑される

1646年正月。キム・ジャジョムは仁祖の食事のアワビに毒を入れ、姜氏の侍女が入れたことにしました。

姜氏の侍女は毒を入れた疑いで過酷な拷問にかけられました。姜氏は弁解の機会も与えられず身分を奪われ平民に格下げになりました。実家に戻された姜氏は毒を飲まされ死亡します。35歳の若さでした。

すでに流罪になっていた姜氏の兄弟たちも処刑されました。

3人いた息子も済州島に流刑になります。長男の慶善君 (ソクチョル)は10歳、次男慶完君(ソクリン)は6歳、三男の慶安君(ソクギョン)は4歳でした。

流刑後の息子と姜氏名誉回復への道のり

16代仁祖の時代

1646年。姜氏が処刑され、息子たちが流刑になったその年。

南人派の重鎮・洪宇遠(ホン・オウォン)が訴えを起こします。「姜氏の罪は捏造。流罪になった昭顕世子の3人の息子は釈放すべき」と主張しましたが、仁祖の怒りをかって左遷されました。

幼い子供たちにとって流刑生活は過酷でした。

1648年。ソクチョルが死亡しました。

清のヨンゴルテはソクチョルを引き取って育てたいと考えていましたが、ヨンゴルテも1648年に死亡しました。

同じ年にソクリンも病気で亡くなりました。3男ソクギョンは生き延びました。

17代孝宗の時代

1650年。17代王・孝宗が即位しました。昭顕世子の弟。かつての鳳林大君です。

孝宗は即位したときから昭顕世子の話題を禁止しました。

キム・ジャジョムの一派が粛清されると姜氏の名誉回復と生き残っている息子の慶安君の釈放運動が起こります。

1651年。宋時烈(ソン・シヨル)は昭顕世子一家は不当な扱いをうけた無念の死だと考えました。宋浚吉(ソン・ジャンギル)ら西人派にも昭顕世子に同情的な考えが広まります。

孝宗は「留意するようにする」として保留にしました。重臣からは上訴を問題視する意見も出ましたが、孝宗は宋時烈を処分しませんでした。孝宗も内心不愉快に思っていたようですが、宋時烈は孝宗の守役でもありましたから処分しませんでした。

昭顕世子に同情的な西人派の主張に対して、南人派は孝宗の正当性を否定しようとする陰謀だとして反論がおきます。その後、西人派と南人派の間で論争になります。

1654年末~1655年にかけて。金弘郁(キム・ホンウク)が、姜氏のの名誉回復と慶安君(ソクギョン)の釈放を訴えました。

孝宗はキム・ホンウクを投獄し処分しようとします。

西人派の金集(キム・ジプ)、宋時烈、宋浚吉は、直訴した家臣を害しては行けないとキム・ホンウクの赦免運動を起こします。

南人派のホン・オウォンもギム・ホンウクを処分してはいけないと釈放をもとめました。

しかし孝宗はギム・ホンウクを拷問にかけ処刑しました。

1656年。赦免運動のおかげもあって、慶安君(ソクギョン)は釈放されました。

孝宗の時代、昭顕世子の息子が生きている間は王位継承問題に爆弾を抱えることになってしまいました。

「華政」などのドラマでは鳳林大君と昭顕世子は仲のいいように描かれます。でも王になってからの孝宗は昭顕世子の息子には冷たかったようです。「花たちの戦い・宮廷残酷史」では誰の味方かわからない人物に描かれるのもそのような経緯があるからなのでしょう。

鳳林大君が世子暗殺に関わっていたとは思えませんが、後ろめたい気持ちはあったのでしょう。あまり触れたくなかったんでしょうね。それでも生き残った慶安君(ソクギョン)を釈放したのは良心があったからなのかもしれません。

18代顕宗の時代

馬医の後半に登場する王様です。

この時代、服喪問題が起こりました。孝宗が死んだとき、荘烈王后の喪に服す期間をどうするかで西人派と南人派で大論争になりました。

服喪問題とは。
西人派の主張:孝祖は次男なので服喪期間1年 
南人派の主張:孝祖は王位を継いだから3年 

というもの。このとき昭顕世子の息子・ソクギョンが生きていました。南人派は西人派の主張を認めると孝祖(とその息子の顕宗)の正当性を脅かしかねない問題だと考えました。「昭顕世子が死んだとき、長男の息子がいたのに次男が継いだのはまずいんじゃないの?」という雰囲気を出したくなかったんですね。そこでなかなかまとまらなかったのです。最終的には1年を採用。西人派と南人派の対立が激化する原因のひとつになったとも言われます。

宮廷内でどうでもいいような内容が議論されている間、ソクギョンは貧しい暮らしを強いられていました。それでも結婚して2人の子供ができました。

1665年春。ソクギョンは入浴後に発病。その年の9月に亡くなりました。

顕宗は子どもたちを気の毒に思い残されたソクギョンの子どもたちのために家を建て土地を与えました。

19代粛宗の時代。

チャンオクチョン、トンイの時の王様です。

宋時烈がまたしても昭顕世子と嬪宮姜氏の名誉回復の訴えを起こします。
その後、宋時烈は禧嬪張氏の王妃昇格に反対して島流しになって亡くなります。

粛宗は晩年になって嬪宮姜氏は無罪だと認め”愍懐”という称号を与えました。

1718年のことでした。

嬪宮姜氏が無念の死をとげて72年後。ようやく名誉は回復されたのです。なんと長い道のりだったのでしょうか。

テレビドラマ

最強チル KBS、2008年 演:ヤン・ソミン
チュノ KBS、2010年 演:ギムハユン
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC 2013年、演:ソン・ソンミ
三銃士 tvN、2014年 演:ソ・ヒョンジン
華政 MBC、2015年 演:キム・ヒジョン

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コメント

  1. あさやん より:

    実に詳しく書いてあります カン氏はドラマでは 強き勝気な女性として描かれていましたが 実際はどうであったのか と気になりました
     改革を急ぐあまり あまりに性急に世子を追い詰め さらに仁祖を否定する 姿勢は愚かでと言うしかありません
    カン氏の兄弟たちにも策謀家はおらず西人派重臣を軽んじて

    反対派の陰謀にはまる
     待ちの姿勢があり あの漢時代の呂皇后に対した陳平の様な 知恵があれば
    もっと政治は変わっていた、 人の愚かさ仁祖の愚かさ 貴人趙氏の策謀を見抜く眼力があれば 流れは変わっていた、 これは当世から見た感想であり当時の当事者たる眼ではないが 時には 待つということ 辛抱我慢忍耐が勝利を導くことを 教えてくれる大事な歴史の一コマであるように思える。

    • フミヤ Fumiya より:

      あさやんさん、こんにちは。韓国のドラマはもともと史実と違う部分が多いです。「宮廷残酷史」も大げさなくらいに誇張されてると思います。カン氏があそこまで強気な人だったとは思えないです。でも仁祖からは疎まれていたようなので、なにか仁祖の気に食わない部分があったのでしょうね。

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