端宗(タンジョン)は李氏朝鮮 第6代の国王です。
12歳で王になり、17歳でこの世を去った悲劇の王様です。
首陽大君に王座を奪われ、王族としての身分を取り上げられたうえに最後は謀反人として処刑されました。
史実の端宗(タンジョン)どんな人物だったのか紹介します。
端宗(タンジョン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1441年8月9日
没年月日:1457年11月7日
名前:李弘暐(イ・ホンウイ)
称号:端宗(タンジョン)
父:文宗
母:顕徳王后
妻:貞順王后
子供
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の6代国王です。
日本では室町時代になります。
おいたち
1441年。4代国王・世宗の孫として生まれました。
父のイ・ヒャン(後の5代国王・文宗)は当時王世子でした。
母の顕徳王后(当時は世子嬪)は体が弱く、ホンウィを産んですぐに亡くなりました。
祖父・世宗は昭憲王后と相談して、ホンウィを恵嬪楊氏に育てさせました。
ホンウィは祖父の世宗から大変可愛がられました。
世宗は息子の文宗が病弱で長くは生きられないと思っていたため、孫のホンウィの将来を心配していました。
世宗は、もし文宗が死ぬと、首陽大君をはじめ野心を持つ息子たちが何か起こすだろう。孫は生きていけないかもしれないと考えていました。
そこで世宗は信頼している皇甫仁(ファンボ・イン)、金宗瑞(キム・ジョンソ)、成三問(ソン・サンムン)、朴彭年、申叔舟(シン・スクチュ)らに王世孫を守るように言いました。
1448年。王世孫になりました。
1550年。世宗が死亡し、父・文宗が即位しました。
ホンウィは王世子になりました。
父・文宗が生きている間は首陽大君たちは野心を見せませんでした。
ところが文宗が即位して2年あまりで病死しています。世宗が予想していたとおりになってしまったのでした。
6代国王・端宗(タンジョン)の誕生
1452年。ホンウィは12歳で即位しました。
本来なら母か祖母が摂政となって政治を行うところですが、母も祖母も既に他界していました。妻の実家が政治に関わることもありますが、幼い端宗はまだ結婚していません。誰も頼るものがいませんでした。
文宗が死ぬ間際、領議政 ファンボ・イン、左議政 南智(ナム・ジ)、右議政 キム・ジョンソたちを顧命大臣に指名して後を任せました。その結果、数人の顧命大臣に権力が集中しました。
幼い端宗は自分で政治を行うことができません。議政府の重臣たちが決めたことを追認するだけでした。
黄標政事
新しい人事を行う場合、候補者を書いたリストを作成します。そのときに予め黄色で印がつけられていました。端宗は予めつけら得た印の上から黒で印をつけるだけでした。
幼い王は自分で決めることが出来ず、重臣たちの言いなりになっていました。
「王は指一つ動かせない操り人形になっている」
「役人たちは議政府は知っていても、王のことは知らないのだ」
と噂されるようになりました。
王族と重臣の争い
このようなことが続くと王族や役人たちからも不満が出てきました。
ソン・サンムンたち学者も議政府を批判していました。
中でも目立つのが叔父の首陽大君と安平大君の動きでした。父・文宗の在位中は目立つ動きをしていませんでしたが、次第に人を集めるようになりました。
首陽大君は親族の代表として端宗をそばで支える保護者だと考え、密かに兵士を育てました。
安平大君の元には多くの学者達が集まりました。叔父たちがそれぞれに派閥を作って対立をはじめました。
安平大君はキム・ジョンソたちと手を組みました。首陽大君はそれが面白くありません。
少ない味方は姉の敬恵公主
宮中では大人たちの争いが続き、心が休まることはありませんでした。端宗が落ち着けるのは姉といるときだけでした。
敬恵公主は端宗にとって5歳年上の姉。鄭眉壽(チョン・ミス)と結婚して王宮の外に暮らしていました。端宗は即位した後もたびたび敬恵公主の屋敷に遊びに行きました。
癸酉靖難
1453年10月。首陽大君はクーデターを起こし、キム・ジョンソ達を殺害しました。
端宗はその日も敬恵公主の家に泊りがけて遊びに来ていました。
首陽大君は端宗のもとに行き、安平大君が謀反を起こしたと報告します。安平大君は捕らえられ流刑になったあと、死罪になりました。
安平大君とキム・ジョンソら対立する重臣を始末した後、首陽大君は自ら領議政になりました。
要職は首陽大君の側近たちが独占しました。宮廷の大人たちは求心力のある首陽大君に集まりました。
叔父の錦城大君が首陽大君の行いに不満をもち、恵嬪楊氏、恵嬪楊氏の息子たちと協力して端宗を助けようとします。
1454年。ところが首陽大君は錦城大君に謀反の疑いをかけて捕らえて流刑にしました。
端宗に味方する者はいなくなってしまいました。
14歳で譲位・上王になる
この事件の後、首陽大君の側近たちは端宗に譲位すべきと訴えるようになります。端宗は自分が殺されるのではないかと不安に思うようになりました。
1455年。譲位の圧力に耐えられなくなった端宗は譲位を決断しました。
端宗は首陽大君に譲位して上王となりました。
14歳の端宗はが上王となり、38歳の首陽大君が王というあり得ないことが起こったのです。
これで死の恐怖から逃れて安らかに暮らせると思ったのですが。時代は彼をそっとしておいてくれません。
1456年。ソン・サンムンたちが首陽大君に対して謀反を起こしました。端宗を復位させるためです。しかし計画が事前にばれてソン・サンムンたちの計画は失敗しました。(死六臣事件)
この事件のあと。1457年。端宗は上王の位を剥奪され、魯山君(ノサングン)に降格。流刑になりました。その後、王族としての身分も剥奪され庶民にされました。
1457年9月。今度は叔父の錦城大君が端宗を復位させようと計画しました。この計画も事前にばれて錦城大君は死罪になりました。この計画に協力した姉の夫・チョン・ミスも死罪になってます。
端宗の死
10月。謀反に関わったとして端宗に死罪の命令が出ました。死因はよく分かっていませんが刺客によって絞殺されたといわれています。
首陽大君には表向きは端宗が自殺したことにしました。
端宗の遺体は埋葬もされず打ち捨てられていました。家臣の嚴興道(オム・フンド)が端宗の遺体を探し出して埋葬し、質素な墓を作りました。
1516年。成宗によって正式な墓が作られました。
1698年。粛宗によって王としての身分を回復しました。このとき「端宗」の諡をあたえられています。それまでは「魯山君」と呼ばれていただけでした。
まとめ
幼いころ将来を心配されていた端宗。世宗の悪い予想通りの結果になってしまいました。
父が死んだ後は叔父たちによって地位を脅かされ、死の恐怖を味わいます。王位を譲った後も復位させようとする者たちが現れました。彼らの行動が結果的に端宗の寿命を縮めてしまいました。
端宗自身は王には戻りたくなったでしょう。静かに余生を過ごしたいだけだったのかもしれません。
しかし、錦城大君が行動を起こさなくても首陽大君と側近達は口実を付けて端宗を始末しようとしたはずです。もともと首陽大君は王になれるはずのない立場です。首陽大君が王であることを正当化するためには正当な王位後継者がいては困るからです。
首陽大君がキム・ジョンソ達を殺害した時点で端宗の運命も決まっていたのかもしれません。
テレビドラマ
1983年 MBC 根の深い木 演:イ・ミヌ
1984年 MBC 雪中梅 演:シン・ソンウォン
1990年 KBS 独裁者への道 演:張徳秀
1994年 KBS ハンミョンフェ 演:チョン・テウ
1998年 KBS 王と妃 演:チョン・テウ
2007年 SBS 王と私 演:イ・プンウン
2011年 KBS 王女の男 演:ノ・テヨプ
2011年 JTBC インス大妃 チェ・サンオ
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