都正宮(トジョングン)慶原君 李夏銓(イ·ハジョン)は19世紀、李氏朝鮮王朝末期の王族。
憲宗、哲宗はともに後継者がいなかったので李夏銓が王位後継者として注目されました。
当時の朝鮮は安東金氏と豊壌趙氏の有力な一族が争い、権力を独り占めにしている時代でした。
李夏銓を指示していたのは豊壌趙氏でした。
しかし外戚として権力をもっていた安東金氏からは疎まれ、最終的に「謀反を企んだ」という罪をでっち上げられ死罪になりました。
都正宮に住んでいたので「都正宮 大監」ともよばれます。
史実の李夏銓はどんな人物だったのか紹介します。
李夏銓の史実
プロフィール
生年月日:1842年2月15日
没年月日:1862年8月20日
享年:21
名前:李夏銓(イ·ハジョン)
称号:慶原君
本貫:全州李氏
父:李時仁(イ·シイン)
母:慶州金氏
妻:徐氏
子供(養子)昌山君 李海昌
彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に25代哲宗、26代 高宗の時代です。
日本では幕末~明治時代になります。
都正宮(トジョングン)とは
李夏銓(イ·ハジョン)は都正宮(トジョングン)と呼ばれることがあります。
都正宮は屋敷の名前です。
かつては11代 中宗の息子で14代 宣祖の父・徳興大原郡が暮らしていた屋敷。
徳興大原郡の没後は代々、王族が受け継いで暮らしました。
李夏銓は13代目の当主になります。
李夏銓の人生
1842年(憲宗8)。漢城(ソウル)で生まれました。
父は李時仁(イ·シイン)
中宗の八男・徳興大院君(宣祖の父)の13代目の子孫です。
1849年。憲宗が死去。
憲宗には跡継ぎがいませんでした。そこで誰を後継者にするかで安東金氏と豊壌趙氏は争いました。
当時8歳だった李夏銓(イ·ハジョン)が王位後継者として注目されました。李夏銓を支持していたのは豊壌趙氏でした。
ところが安東金氏の勢力が勝って江華島にいた李元範(哲宗)が王になりましました。
李夏銓は安東金氏の監視をうけながら暮らしました。
敦寧府参奉になりました。
1856年。敦寧府参奉となりました。
以後、元陵嶺、3月7日に敦寧府主簿などを務めました。
1857年(哲宗8)。敦寧府主簿になりました。敦寧府とは王家の親族を管理する部署です。
その後も様々な役職を歴任します。
1860年(哲宗11)。忠勳府都事などを歴任。その後、昇進し都正などを務めました。
王位後継者争い
国王に訴え
しかし哲宗には後継者がいなかったので再び有力王位継承者として再び注目されるようになりました。
李夏銓は安東金氏に都合のいい人事が行われているのに怒って哲宗を訪問。
「この国は李氏の国ですか?金氏の国ですか?」と王に訴えました。
それを知った安東金氏とその勢力は李夏銓を批判。李夏銓は謝罪に追い込まれます。
濡れ衣で謀反人にされる
李夏銓はかつて豊壌趙氏から王位後継者として強く推されていました。自分たちに都合のいい王位後継者を選ぼうとしている金左根は李夏銓を邪魔な存在だと考えました。
1862年6月金左根は、五衛将の李載斗に「前の五衛将の金順性、李兢善が李夏銓をかついで王にしようとした」と密告させました。
7月19日。李夏銓は義禁府に逮捕され、7月23日まで尋問を受けました。
1862年7月25日。哲宗は「李夏銓が反乱を起こしたという決定的な証拠が不十分」として「死罪ではなく、済州島に追放して監禁」の命令を出しました。
いくら王が命は助けたいと思っても流罪を認めてしまえば極刑が確定したも同じ。重臣たちは調子にのって李夏銓にとどめを刺そうとします。
8月1日。司憲府や司諫院から「李夏銓を死罪にしろ」という弾劾が繰り返し起こりました。
結局、哲宗は安東金氏の圧力に耐えられず。
8月11日。哲宗は李夏銓を賜死にすると命令しました。
8月20日。死薬を飲んで死亡しました。
享年21。
こうして安東金氏は有力な王位後継者を処分するのに成功しました。ところが1863年12月8日、哲宗は跡継ぎを残さないまま死亡。安東金氏は権力の源を失ってしまいます。
1864年(高宗1)7月。興宣大院君が政治を行う時代に復権しました。
テレビドラマ
風と雲と雨 2020年テレビ朝鮮 演: イル
コメント