韋妃は唐朝時代の妃。
唐の10第皇帝・粛宗の皇太子時代の妃です。
韋妃の一族は唐の皇室とも縁戚関係にある一族でした。
最初は忠王・李亨の妾でした。でも李亨が皇太子になると、太子妃になります。
韋妃の兄・韋堅は有能な役人と評価も高い人物で、夫・李亨とも親しくしていました。
兄妹で太子を支え将来は安泰かと思われましたが。
皇太子・李亨に反感を持つ宰相によって陥れられてしまいます。
史実の韋妃はどんな人物だったのか紹介します。
韋妃の史実
韋妃のプロフィール
生年月日:不明
没年月日:757年
姓 :韋(い)氏
名称:不明
国:唐
地位:妾→孺人→太子妃→庶人
父:韋元珪(い・げんけい)
母:不明
夫:粛宗 李亨(り・きょう)
兄:韋堅(い・けん)、兄
子供:絳王 佺、永和公主、永穆公主
彼女は粛宗 李亨の皇太子時代の妃です
日本では奈良時代になります。
韋妃のおいたち
生年は不明。
父は兗州刺史(地方行政を監督する役人)の韋元珪(い・げんけい)。
唐の粛宗・李亨(り・きょう)が忠王だったころ(727年~738年ごろ)。
李亨の妾になり、孺人の称号を与えられました。
730年。忠王・李亨の妾の呉氏が亡くなりました。呉氏には3歳の娘がいました。
韋孺人が呉氏に変わってその娘を育てました。後の「和政公主」になります。
738年。忠王・李亨が皇太子になりました。
韋孺人は太子妃になりました。
天宝年間。宰相の李林甫(り・りんぽ)は壽王・李瑁(り・ぼう)を太子にしようと思っていました。
でも皇帝の玄宗は李亨を太子にしました。
玄宗の決定が不満な宰相・李林甫は李亨を失脚させようと考えました。
兄・韋堅は有能な役人だったが
韋妃には兄・韋堅(い・けん)がいました。
韋堅は陝郡太守、水陸轉運使を務め、玄宗からも高い評価を与えられていました。運河の工事も行い物資の輸送を改善しました。
しかも韋家は皇室と親戚です。
韋家が功績をあげれば李亨にとっても心強い味方になります。
このころ韋妃が皇太子妃になりました。
李林甫と彼らの仲間は、力をつける李亨とその仲間が気に入りません。
宰相の李林甫は韋堅を刑部尚書(警察・裁判書の長官)にしました。
表向きは出世したように見えますが、韋堅を場違いな部署に異動させたのです。
韋堅は役職替えが不満でした。玄宗の目の前で李林甫を批判しました。
李林甫は韋堅や李亨を失脚させるための材料を集めました。
韋堅は運河の工事をしたときに民家を壊したことがありました。そのため韋堅に不満を持っている民衆もいました。
李林甫はそうした情報を集めて韋堅を陥れよう考えたのです。
韋堅が謀反で訴えられ、韋妃は離縁される
旧暦1月の満月の夜。
李亨は韋堅を誘って外出しました。遊びに出かけただけのようです。
ところがこのとき。
李林甫は玄宗に「皇甫惟明と韋堅が皇太子の李亨を担いで謀反を起こそうとしている」と報告しました。もちろん皇太子の部下たちを陥れる材料も集まっていたでしょう。
李林甫の報告を信じた玄宗は激怒。
太子の部下が太子を担いで悪事を働いていると考えました。
玄宗は韋堅と、太子派の皇甫惟明を朝廷から追放。二人は護送途中に処刑されました。
韋堅の弟も処刑されました。
李亨は自分も謀反を疑われるのではないかと怖くなりました。
そこで。
「妻の韋妃とは仲が悪い」
という理由で韋妃を離縁しました。
直前まで韋家とは仲良くしているのですから。本当に離縁しなければいけないほど仲が悪かったわけではないでしょう。
でも李亨は「謀反を疑われた韋家とは関係ない」と言いたかったのです。
玄宗は李亨に同情して離縁を認めました。
韋妃は剃髪して出家。
俗世との縁を断って寺院で暮らしました。
安禄山の反乱の最中に死亡
755年。安禄山が反乱を起こしました。
756年。長安が安禄山の軍に占領されました。韋妃は捕虜になってしまいます。
757年。粛宗の軍が長安を奪還しましたが。
同じ年、韋妃は長安で死去しました。
このとき韋妃に何がおきたのかはわかりません。
混乱の最中に命を落としたのかもしれません。
李亨は自分の身を守るため、妻を見捨てました。玄宗皇帝も息子をに同情して息子の言い分を認めました。子が子なら親も親ですね。
玄宗は若いころは名君と言われたのですが、晩年はすっかりもうろくしていたようです。
テレビドラマの韋妃
麗王別姫 2016年、中国 演:方曉莉
役名:太子妃→了緣師父
劇中では李俶の養母。
李倓、李婼の母。
ドラマでは李倓、李婼の母になってますが、史実では違います。
史実では韋妃が李俶を育てたという記録もありません。
和政公主のように若くして亡くなった妃嬪の子供を育てることはありました。あってもおかしくはない設定といえますね。
劇中では兄を訴えたのは李林甫ではなく、楊國忠。一家は処刑されてしまいます。
麗王別姫には李林甫が登場しないので悪い宰相の立場は楊國忠にまとめてしまったようです。
謀反に巻き込まれるのを心配している太子李亨と離縁。出家して剃髪するのは同じ。
その後、玄宗は韋家が冤罪だったことを認めます。
反乱が起こると都の争いに巻き込まれるのを避けて地方に移住、余生を過ごします。
史実と似た流れですね。
でも史実の方が残酷です。
史実通りにすると玄宗と粛宗の印象がさらに悪くなってしまうのでアレンジしたのでしょう。
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