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太祖 李成桂(イソンゲ) の家系図と生涯・朝鮮建国者の苦悩

イ・ソンゲの家系図 1 李氏朝鮮の国王

李成桂(イ・ソンゲ)は高麗を倒し李氏朝鮮最初の王になりました。

高麗時代は伝説的な活躍をみせた将軍でした。

チョン・モンジュやチョン・ドジョンといった思想家やイ・バンウォンら息子たちとともに高麗に対して反乱を起こし。王に即位。朝鮮を建国しました。

後世の人からは太祖大王(テジョ大王)として敬われましたが、実在の彼の後半生は身内の争いが絶えない寂しい晩年になってしまいました。

史実の李成桂(イ・ソンゲ)はどのような生涯をおくったのか紹介します。

イソンゲの家系図も紹介します。

 

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李成桂(イソンゲ)の史実

いつの時代の人?

生没年

生年月日:1335年10月27日
没年月日:1408年6月18日

在位期間: 1392年8月5日~1398年10月14日

李氏朝鮮の初代国王です。彼が生きたのは1335年~1408年。高麗末期から朝鮮王朝(李氏朝鮮)の初期の人物です。

日本では室町時代になります。

名前

姓:李(イ:り)
名:成桂(ソンゲ:せいけい)→旦(ダン:たん)
廟号:太祖(テジョ:たいそ)

 

家族

父:モンゴル名: 吾魯思不花(ウルスブハ)、高麗名:李子春
母: 懿恵王后(永興崔氏)
妻:神懿王后(安辺韓氏)、神徳王后(谷山康氏)

子供:
母:神懿王后
鎮安君定宗、益安君、懐安君、太宗、徳安君、慶慎公主、慶善公主
母:神徳王后
撫安君、宜安君、慶順公主
他、女子2人

 

李成桂(イソンゲ) 家系図

李成桂(イソンゲ)の家系図を紹介します。

太祖 イソンゲ 家系図

太祖 イソンゲの家系図

李成桂の読み方

李成桂の読み方は日本語では「り・せいけい」

現在韓国では「イ・ソンゲ」といいます。

でも本来は「リ・ソンゲ」と発音するのが正しいはず。現代韓国語では「Li」の子音が脱落して母音だけになるからです。

中国、北朝鮮、ベトナムでは現在も「リ」あるいは「リー」と発音します。北朝鮮とベトナムにも「李」由来の名字はありますが発音は「リ」「リー」です。

ラ行の子音が脱落するのは朝鮮半島南部の方言だったとも言われます。

李成桂は女真族に近い朝鮮半島北部の出身。地元では「リ・ソンゲ」と名乗っていたのでしょう。でも李氏朝鮮は漢城(ソウル)を都にしました。

言葉も南部式の発音になり以後は「イ・ソンゲ」と呼ばれることになります。

 

李成桂(イソンゲ)の生涯

おいたち

1335年。元の和寧府(今の北朝鮮 咸鏡南道)で元の武将・吾魯思不花(ウルスブハ)の次男として産まれました。吾魯思不花(ウルスブハ)はモンゴル名。高麗名は李子春です。

当時の高麗は元の支配下にありました。和寧府はもともとは高麗の領土でしたが、この時期には元の直轄地になってました。

李子春は 千戸という千人の兵を率いる身分でした。李子春の支配する地域には女真族が多く暮らしていました。李子春の家臣にも女真族の者がいまいました。

李成桂(イソンゲ)が育った時代は元の支配力が弱まっていました。元の国内では各地で反乱が頻発。

そこに目をつけたのが高麗の恭愍王です。吾魯思不花(ウルスブハ)を味方につけて和寧府を取り戻すことにしました。

1357年。李成桂は父とともに高麗に寝返り、和寧府を高麗の領地にすることに成功。李子春一家は高麗の有力者になりました。

1361年。紅巾軍が高麗に攻めて来て高麗の都・開京が陥落。李成桂(イソンゲ)は都奪還に加わり大きな手柄をたてました。

 

女真族の兵を率いる無敵の武将

李成桂(イソンゲ)の家は代々女真族を支配下に置いていました。女真族は馬に乗り、弓矢を得意とする民族です。女真族の騎兵は戦いでは非常に強かったといいます。李成桂(イソンゲ)自身も弓矢が得意でした。

1362年。女真族出身で元の将軍・納哈出(ナハチュ)軍が高麗に攻めてきました。一度は逃げられましたが、再び攻めて来たところを撃退しました。

1363年。元は反抗的な恭愍王を廃位して元に友好的な徳興君を王にしようとしますが高麗は拒否。

1364年。元は高麗出身の崔儒に兵を預けて高麗を攻めさせました。李成桂(イソンゲ)は崔瑩(チェヨン)とともに崔儒を撃退。元は高麗を服従させることを諦めました。

女真族が高麗に侵入。和寧より北を占領されました。

1369年。李成桂(イソンゲ)は女真族を討つために遠征しました。このとき一緒に遠征したのが鄭夢周(チョン・モンジュ)です。遼東の中心地・遼陽城まで占領しました。

1374年。恭愍王が元に友好的な家臣によって殺害されました。恭愍王の息子・禑王が即位しました。

1377年。朝鮮半島南部に攻めてきた倭寇との戦いで功績をあげます。

1380年。倭寇が500隻の大軍で攻めてきました。高麗は軍隊を派遣しましたが将軍が撃たれるなどして敗退。李成桂(イソンゲ)が総司令官に任命されました。李成桂(イソンゲ)は倭寇の大将・アキバツ(阿只抜都)の軍と戦い撃退しました。アキバツとは高麗側の呼び方です。正体は分かっていません。日本人、モンゴル系、高麗系との説もあります。

その後も倭寇や女真族との戦いで功績をあげます。李成桂(イソンゲ)は地方豪族や若い官僚たちから支持を集めるようになりました。

 

王への反抗、威化島回軍

1388年。明は朝鮮の北部を渡すように一方的に要求してきました。禑王や崔瑩(チェ ヨン)は遼東地域を支配下にして明に抵抗しようとしました。

李成桂(イ ソンゲ)は右軍都総使、曹敏修(チョ ミンス)が左軍都総使になり、出兵することになりました。李成桂は反対しましたが禑王は出兵を強行しました。出兵する将兵の家族が人質に取られました。

5月。李成桂(イソンゲ)たち遠征軍は鴨緑江河口の威化島に到達。大雨で川が増水して渡れませんでした。例え渡れても遼東を支配する明に勝つのは難しく思われました。逃亡する兵士が増え、食料の補給も途絶えがちになりました。李成桂(イソンゲ)は曹敏修と話し合い、撤退しました。

李成桂(イソンゲ)は遠征失敗は崔瑩の責任だとして、禑王にチェ・ヨンの処罰を要求しました。禑王は拒否。崔瑩将軍との戦いになります。李成桂(イソンゲ)は戦いに勝ちました。チェ・ヨンは流刑になった後に処刑されました。

王禑は内侍を使い李成桂(イソンゲ)の屋敷を襲わせましたが失敗。王禑は追放されました。

曹敏修は禑王の息子・昌王を第33代高麗王しました。しかし李成桂(イソンゲ)は昌王が継ぐことは反対でした。

 

恭譲王擁立

1389年。李成桂(イソンゲ)は曹敏修を生け捕りにして流罪にしました。昌王と禑王を殺害しました。

李成桂(イソンゲ)とは遠戚になる定昌君を第34代国王・恭譲王につけました。

しかし急激な改革を勧めようとする鄭道伝(チョン・ドジョン)と緩やかな改革を目指すチョン・モンジュが対立。李成桂(イソンゲ)はチョン・ドジョンを支持していました。李成桂(イソンゲ)とチョン・ドジョンは田制改革を行なって自分たちを支持する官僚たちに土地を配分しました。

これにモンジュが反発。李成桂(イソンゲ)が落馬して休養中にチョン・ドジョンらを追放しました。しかし5男の李芳遠(イ・バンウォン)らがチョン・モンジュを殺害しました。追放になった者たちを呼び寄せました。

 

李氏朝鮮の始まり

復帰した李成桂(イソンゲ)は恭譲王を追放しました。家臣に李成桂(イソンゲ)が王になるように懇願させて、自らが高麗王に即位しました。自ら進んで王になると王位を奪ったように思われると考えたからです。でも奪った事実は変わりません。

しかし歴代の王は中国(このときは明)から認めてもらわないと王と名乗ることができません。

1393年。王になった李成桂(イソンゲ)は明に認めてもらうため使者を派遣。ところが明の皇帝・朱元璋は李成桂(イソンゲ)を国王と認めません。代わりに与えられたのは「權知高麗國事」という地位でした。仮に高麗を治めている者という意味です。

また、明は王家が変わったので国名を変えるように要求しました。李成桂(イソンゲ)は「朝鮮」と「和寧」を用意して明に選んでもらうことになりました。

「朝鮮」は高句麗より古い時代に朝鮮半島にあったとされる国の名前。「和寧」は李成桂(イソンゲ)出身地の名前です。

李成桂(イソンゲ)は古代に存在した朝鮮の後継者だと名乗りたかったのです。明は朝鮮を選びました。李成桂(イソンゲ)も朝鮮を本命と考えていたようです。李氏朝鮮の始まりです。

李成桂(イソンゲ)は初代国王・太祖になりました。太祖というのは死後に送られた名前です。李成桂(イソンゲ)が在位中は明との仲も悪いままでした。

朝鮮に国名が変わったことは認めてもらいましたが、李成桂(イソンゲ)が朝鮮王になったことは認められないままでした。

李氏が朝鮮の王だと正式に認めてもらったのは3代太宗の時代、1401年のことです。

 

朝鮮の呼び方

李成桂(イソンゲ)が作った朝鮮という国を李氏朝鮮と呼ぶのは古代にあった朝鮮と区別するためです。

日本や中国では李成桂(イソンゲ)から始まる朝鮮を李氏朝鮮。古代の朝鮮を衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮と呼びます。

現在も朝鮮を名乗る北朝鮮は李朝朝鮮や李氏朝鮮と呼びます。

韓国では李氏朝鮮は単に「朝鮮」古代の朝鮮を「古朝鮮」と呼びます。

最近では韓国ドラマの影響や韓国への配慮から日本でも朝鮮といえば李氏朝鮮を意味することがあります。しかし古代に存在した朝鮮と紛らわしいので適切ではないという意見もあります。

 

高麗王家への弾圧

1394年。李成桂(イソンゲ)と重臣たちは恭譲王に謀反の疑いをかけて殺害しました。

他の高麗王家の人々も殺害しました。隠れ住む王一族を呼び出すために、王一族のために島を用意したと宣伝します。集まってきた王一族を船に乗せて沖合で沈没させて皆殺しにしました。

李成桂(イソンゲ)自身は王一族を殺すつもりはなかったようですが、重臣たちの強い意見を認めるしかなかったようです。

集まってこなかった王一族も、王の名字を捨てて隠れ住みました。名字を「田」に変えた人もいたようです。現代でも韓国では王の名字を持つ者はわずかしかいません。もともと王の名字を持つものが少なかったことに加え、李氏朝鮮の行なった弾圧が原因だともいわれます。

鄭道伝の国つくり

新しい王朝で国つくりの中心になったのが鄭道伝(チョン・ドジョン)です。

1394年。古い特権階級の権門勢族があふれる開京を捨てることにしました。漢陽(今のソウル)を漢城と改名して都を移しました。チョン・ドジョンは漢城の宮殿や街を設計しました。

朝鮮の法律「朝鮮経国典」を定めました。国作りに農地改革を行い寺院から土地を取り上げて国のものにしました。チョン・ドジョンは仏教は不必要なものと考え、儒教で国作りを行いました。崇儒廃仏政策を進めます。各地に儒教の学校を作りました。

第一次王子の乱

1398年。李成桂(イソンゲ)は八男の芳碩を後継にしました。長男の李芳雨(イ・バンウ)は1393年に病死していました。

神懿王后がすでになくなっていたのに対し、2番めの妻・神徳王后に対する信頼が大きかったのです。最初は神徳王后の長男(李成桂(イソンゲ)の7男)・李芳蕃(イ・バンボン)を後継者にしようとしました。しかし、チョン・ドジョンはイ・バンボンは性格が凶暴で軽率だとして反対。若い李芳碩(イ・バンソク)を支持しました。

この決定に神懿王后の息子たちが反発します。

また、チョン・ドジョンは王族や家臣の持っている私兵を王の軍隊に合流させるように指示しました。王の力を強めるためです。

気性の激しいイ・バンウォンが素直に従うはずがありません。

神徳王后が病で死亡すると、イ・バンウォンが中心となって反乱を起こし、チョン・ドジョンら重臣が殺害されました。さらにイ・バンボン、イ・バンソクが殺されました。

太祖は心痛のあまり位を退いてしまいます。武将としては無敵の李成桂(イソンゲ)も、政治は得意ではありません。チョン・ドジョンの補佐があったから王を続けられたようなもの。チョン・ドジョンがいなくなっては王を続ける気がなくなったのかもしれません。寵愛していた神徳王后が死んだことで意欲を失った、あるいは抗議の意味も込めた引退だったともいわれます。

イ・バンウォンは次兄の李芳果(イ・バンカ)を後継者に推薦。最年長者が後を継ぐというのが建前です。長男は既に死亡していました。イ・バンカが2代目国王となりましたが形式的なものでした。権力はイ・バンウォンが握っていました。

太祖は上王となり引退、都を離れました。

その後もイ・バンウォンと兄弟たちは争いを続けます。太祖は兄弟や家臣たちを殺し続けるイ・バンウォンを恨みました。バンウォンが使者を送っても使者を殺したと言われます。

1400年。バンウォンが3代国王・太宗になりました。
1402年。太宗と和解して漢城に戻りました。しかし形式的なもので内心は不満だったと言われます。

李成桂(イソンゲ)は仏教の信者でした。チョン・ドジョン達、朝鮮の重臣は儒学者です。仏教を排除して儒教の国を作ろうとしていました。

国の方針とは別に李成桂(イソンゲ)個人は仏教を信じていました。晩年は仏教にのめり込み念仏三昧の日々をおくったといいます。多くの人々の命を奪い、自分の身内や家臣を失いました。その苦しみを救うのは信仰の道に頼るしかなかったのかもしれません。

1408年。死去。享年73。

李成桂(イソンゲ)が革命を起こしたのは私欲だったのか、本当に国を思ってのことかはわかっていません。李成桂(イソンゲ)は高麗王朝時代に活躍した英雄。李氏朝鮮王朝最初の国王でしたが、建国後は身内の争いに悩まされ続けたのでした。

 

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テレビドラマのイソンゲ

開国 KBS、1983年 演:イム・ドンジン
太宗大王 MBC、1983年 演:ギムムセン
龍の涙 KBS、1996年 演:ギムムセン
シンドン MBC、2005年 演:イ・ジンウ
シンイ SBS、2012年 演:オ・ジェム
大風水 SBS、2012年 演:チ・ジニ
鄭道伝 KBS、2014年 演:ユ・ドングン
イニョプの道 JTBC、2014年 演:イ・ドギョン
六龍が飛ぶ SBS、2015年 演:チョン・ホジン
チャン・ヨンシル KBS、2016年 演:ギム・ギヒョン
私の国 JTBC 2019年 演:キム・ヨンチョル
太宗イ・バンウォン KBS 2021年 演:キム・ヨンチョル

 

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