李氏朝鮮王朝500年の歴史を振り返ると、様々な個性を持つ王たちがいました。
今回は、いわゆる暴君というよりも「無能」「暗愚」「危機対応力がない」「政治能力がない」といった側面から、後世に多くの課題を残したとされる5人と候補として残った3人の王を選びランキング形式でご紹介します。
彼らの生涯とその時代に起こった出来事を通して歴史の教訓を探っていきましょう。
なぜ「ダメ王」に注目するのか?
朝鮮王朝には27人の王がいました。その中には目覚ましい功績を残し民に愛された名君がいる一方で、国家を揺るがし問題を残した王も存在します。
この記事では必ずしも悪意があったわけではなかったとしても結果として国家や民衆に苦難を与えたとされる王たちに焦点を当て、彼らの治世を振り返ります。
彼らの経験からリーダーシップのあり方や国家運営の難しさについて、よく考えることができると思います。
この記事における「ダメ王」とは
このサイトでは「ダメ王」という言葉を、ただ乱暴な振る舞いをした王様という意味では使いません。このサイトのダメ王とは国が衰えたり、国民の暮らしが苦しくなったりするような良くない影響を与えてしまった国王と考えます。
具体的には
- 政治を行う上での力が足りなかった「無能」さ
- 理解力や自制心が足りず愚かな行いをしてしまう「暗愚」さ
- 国に大きな問題が起きた時にうまく対応できない「危機対応力の欠如」
という三つの点を重視。
国民にとって、ひどい行いをする王は困ります。でも国をうまく治めることができず、みんなが大変な思いをするのはもっと困ります。
それでは、李氏朝鮮王朝の歴史の中でも政治能力が低かった王・良くない結果を残してしまった王たちを見ていきましょう。
朝鮮王朝ダメ王ランキング トップ5
まずはランキング形式で5人のダメ王たちを紹介します。
記事の演出上順番を付けましたが。視点や評価の仕方によって順番は変わります。順位そのものは参考程度に考え。その王が何をしたか、どういう影響があったかを考えてもらえればいいと思います。
第1位:哲宗(チョルジョン)
簡単な紹介
李氏朝鮮第25代国王(在位:1849年 – 1863年)。流罪になった王族の子孫。江華島で質素な生活を送っていたところ後継者不足のため思わぬ形で王位に就きました。
当時の社会情勢
19世紀半ば、朝鮮社会は安東金氏をはじめとする有力な外戚勢力による政治の私物化が深刻でした。官僚の腐敗は蔓延、民は搾取され人々の生活は困窮を極め各地で不満が高まっていました。
ダメ王の理由
- 政治経験も学識もなかった哲宗は朝廷の実力者である安東金氏の言いなりになるしかありませんでした。
- 自らの意思で政治を行うことができず、外戚による政治腐敗を止めることも民衆の苦しみを和らげることもできませんでした。
- 哲宗の治世下では咸鏡道や全羅道を中心に大規模な民の反乱が頻発しました。でも朝廷は有効な対策をとることができず、社会の混乱は増すばかりでした。
- 官職の売買が公然と行われ、賄賂が横行、国家の規律は大きく乱れました。
無能な理由
王としての教育を全く受けておらず、政治に関する知識や判断力が決定的に不足していました。
民衆・国家への影響
外戚による腐敗政治は国家の機能を麻痺させ、民衆の生活を悪化させました。社会不安の増大は後の動乱の原因になりました。
王の言い分(庇うとしたら)
謀反人の子孫として暮らし王族としての教育や待遇をうけておらず準備期間もありません。未熟な王を導いてくれる人も助けてくれる味方もいません。それで周囲の勢力に逆らいつつ国を統治しするのはほぼ無理だったと考えられます。
歴史の教訓
- 適切な教育と経験のない指導者は様々な問題に対応できず組織を危機に陥れる可能性があります。
- リーダーにも資質と教育が必要という良い見本。
- 選ぶ側も目先の利益ではなく全体を考えて選ぶことが大切です。
第2位:高宗(コジョン)
簡単な紹介
李氏朝鮮第26代国王(在位:1863 – 1907年)。幼くして即位、父の興宣大院君(フンソンデウォングン)が摂政を務めました。閔氏勢力との間で権力争いが繰り広げられ激動の時代を生き抜きました。最後の王は次の純宗ですが事実上は高宗の代で朝鮮は終わりました。
当時の社会情勢
19世紀後半、朝鮮は欧米列強や日本の進出という大きな外圧にさらされていました。国内では開化派と守旧派の対立が激化、社会全体が混乱していました。
ダメ王の理由
- 外からの圧力と国内の混乱という二重の危機にあい、王が中心になって外交政策や内政改革を推し進めることができませんでした。
- その時々で有力な勢力に賛同したり、優柔不断な態度が目立ち、情勢の変化に適切に対応することができませんでした。
- 自国の民の反乱を鎮圧するため外国(清)の軍隊に依頼。
- 目先の問題のために清・日本・ロシア等外国勢力を頼って国内に引き込むのを繰り返した結果、朝鮮は外国勢力の争いの場になってしまいました。
- 立場が危うくなるとロシア公使館に逃げ込み政治を放棄。国内の権益を外国に渡してしまいました。
- その結果、日清戦争や日露戦争を通じて勝者となった日本の圧力に有効な抵抗策を行うことが出来ず退位させられました。朝鮮(大韓帝国)を滅亡させてしまうことになります。
無能な理由
激動する国際情勢を的確に把握して国家の未来を見据えた決断を下すことができませんでした。
民衆・国家への影響
列強の介入を許し、最終的には国家の主権を失うという最悪の結果を招きました。実質的に国を滅亡させた王です。
王の言い分(庇うとしたら)
列強の圧力という当時の状況は非常に厳しく、一国の王としてかなり苦悩したでしょう。国内の意見も分かれる中で最善の策を見出すのは困難だったとも考えられます。また民族主義的な立場からは列強(特に日本)の被害者という評価もあります。
歴史の教訓
- リーダーの意志がぶれすぎると国内もまとめられない。
- その場しのぎで外国勢力に頼るのは危険。
- 外国の軍隊を国内の問題解決に使ってはいけない。
- 大きな脅威に直面した時は指導者の決断力とリーダーシップが集団の命運を左右する。
第3位:仁祖(インジョ)
簡単な紹介
李氏朝鮮第16代国王(在位:1623年 – 1649年)。西人派によるクーデター(仁祖反正)で即位しましたが、その後の治世は多難でした。
当時の社会情勢
17世紀前半。明が衰退し、後金(後の清)が勢力を拡大していました。朝鮮は伝統的に明との関係を重視していましたが、新たな強国である後金との関係をどのように築くかが重要な課題でした。
ダメ王たる所以
- 仁祖は国際情勢を正しく認識することができず親明排清政策にこだわった結果、後金(清)の侵攻を招きました。
- 特に二度目の清の侵攻は朝鮮から宣戦布告してます。
- イグァルの乱・後金・清との戦争で生涯で3度都を捨てて逃げました。
- 清の二度目の侵攻の際には南漢山城に籠城しましたが、清軍に包囲され食糧不足に陥り最終的には清のホンタイジに三跪九叩頭の礼をとって降伏しました。
- 西洋の知識を吸収して戻った昭顕世子を冷遇、発展の機会を潰してしまい。世子の死後は関係者を過剰に粛清しました。
無能な理由
国際情勢の分析を誤り、国家を守るための適切な外交戦略を立てることができませんでした。
民衆・国家への影響
二度の大きな戦乱により国土は荒廃し、多くの民が犠牲となりました。国家の威信も大きく失墜し、清の属国となるという屈辱を味わいました。
王の言い分(庇うとしたら)
当時、明との長年の関係を断ち切ることは国内の強い反発を招く可能性があり、難しい判断を迫られたのかもしれません。
歴史の教訓
- 偏見や過去の慣習にとらわれず現実的な状況を冷静に分析、被害を押さえることを最優先に考える必要があります。
- 自分を過大評価して他人を見下したり挑発しないこと。
第4位:宣祖(ソンジョ)
簡単な紹介
李氏朝鮮第14代国王(在位:1567年 – 1608年)。明宗の後を継いで王位に就きましたが、治世後半には大きな国難に見舞われました。
当時の社会情勢
16世紀末、日本では豊臣秀吉が天下統一を果たし、大陸進出の動きを見せていました。国内では党争(朋党政治)が激化し、国力が低下していました。
ダメ王の理由
- 豊臣秀吉の大陸進出(壬辰戦争、文禄慶長の役)という未曽有の国難に際し、宣祖は開戦前から適切な対応を取ることができませんでした。
- 1年前から豊臣秀吉が攻撃の意志を表して準備しているにも関わらず、勝手にないものと判断して迎撃体制をとっていませんでした。
- 戦争が始まれば都を放棄して逃亡。明に亡命しようとしました。戦時中も優柔不断な態度が目立ち的確な指示を出すことができませんでした。
- 日本軍の侵攻が始まっても迅速な防衛体制を構築できず、多くの城が陥落し国土が蹂躙されました。
- 援軍として呼んだ明軍の横暴にも国民は苦しめられました。
- 実績のある後継者(光海君)がいるにも関わらず、息子への妬みと嫡流への執着から永昌大君への継承を考え、後の争いの元を作りました。
無能な理由
国難に対する危機意識が決定的に不足しており、事前の備えを怠っていました。また戦時下においても自分の保身を優先してリーダーシップを発揮することができませんでした。
民衆・国家への影響
長期にわたる戦乱により国土は荒廃し、多くの人命が失われました。国家の財政も破綻し社会全体が疲弊しました。
王の言い分(庇うとしたら)
豊臣秀吉の意志が固く侵攻の阻止そのものは不可能。そのうえ初めて経験する外国との全面戦争に動揺し、適切な判断を下すことが難しかったのかもしれません。
歴史の教訓
- 国難はいつ訪れるかわかりません。問題が起きたときに被害を最小限に抑えるのもリーダーの役目。
- 偏見にとらわれず、危機意識を持ち備えを怠らないことが重要。
- 問題が起きたら人任せにしない。
- 人の成果を妬まない。
第5位:燕山君(ヨンサングン)
簡単な紹介
李氏朝鮮第10代国王(在位:1494年 – 1506年)。在位期間は短いながらも、その強烈な暴政で知られています。今回は暴君という一面だけでなく、政治的な能力の不足という点にも注目します。
当時の社会情勢
15世紀末から16世紀初頭にかけて朝鮮社会は政治的な安定期を迎えていましたが、燕山君の即位によってその安定が崩れ始めました。
ダメ王の理由
- 反対勢力を徹底的に弾圧、多くの臣下を理由もなく処刑しました(戊午士禍、甲子士禍)。
享楽に溺れ、国政を顧みず、民衆に重税を課しました。 - 自分の意に沿わない臣下を拷問したり、諫言する者を厳しく処罰したりするなど、恐怖政治を行いました。
- 成宗の妃であった廃妃尹氏の死に関する真相を知ると関係者を処刑し、大規模な粛清を行いました。
- 宮廷内で大規模な宴会を頻繁に催し、国家の財政を浪費しました。
無能な理由
臣下の意見を聞き入れず、独善的な政治を行い、国家運営を混乱させました。恐怖政治によって有能な人材を遠ざけ、結果的に自らの政権を不安定にしました。
民衆・国家への影響
恐怖政治は多くの人々に苦痛を与え、社会全体を不安に陥れました。国政の混乱は国家の機能を低下させました。
王の言い分(庇うとしたら)
幼少期の不幸な経験(生母の死)が、彼の性格形成に影響を与えた可能性も指摘されています。儒教社会への不満もあったかもしれません。
歴史の教訓
- 独裁的な政治は必ず人々の反発を招きます。
- 人の意見に耳を傾けることも大切。
朝鮮王朝ダメ王 次点候補
惜しくも?ランキングからは漏れましたが、候補として残った王たちを紹介。彼らも評価の仕方によってはランキング入りしたかもしれません。
純祖(スンジョ)
簡単な紹介
李氏朝鮮第23代国王(在位:1800年 – 1834年)。わずか6歳で即位したため、当初は祖母の貞純王后(チョンスンワンフ)が摂政を務めました。その後も外戚の安東金氏の勢力が強大な影響力を持つ時代でした。
当時の社会情勢
19世紀初頭。朝鮮社会は党争の激化と特定の一族による勢道政治と呼ばれる政治が行われていました。特に安東金氏一門が権力を独占、官職の売買や不正蓄財が横行していました。
ダメ王の理由
- 若くして王位に就いた純祖は自らの力で政治を行うことが難しく、成長後も安東金氏の勢力を抑えることができませんでした。
- 彼らの意向に左右される場面が多く、政治腐敗を食い止めることができませんでした。
- 純祖の治世下では、洪景来の乱(ホン・ギョンネのらん)をはじめとする大規模な反乱が各地で発生、社会を不安に陥れました。安東金氏一門は官職を私物化、不正な手段で財産を蓄え、国家の財政を逼迫させました。
無能な理由
外戚の勢力に対抗するだけの政治力や指導力を持ち合わせていませんでした。
民衆・国家への影響
政治腐敗は民衆の生活を苦しめ社会の不満を高めました。国家の財政も悪化、国力の低下を招きました
王の言い分(庇うとしたら)
若年で即位し周囲を強力な外戚に囲まれていたため、自らの意思を貫くことは難しかったのかもしれません。
歴史の教訓
- 若い指導者の周りには、その権威を利用しようとする勢力が現れやすい。
- 指導者自身が強い意志と力量を持つことが重要です。
- 後継者は早めに作っておくことが大切。
中宗(チュンジョン)
簡単な紹介
李氏朝鮮第11代国王(在位:1506年 – 1544年)。燕山君の暴政を終わらせたクーデター(中宗反正)で即位しました。
当時の社会情勢
16世紀前半。朝鮮社会は燕山君の圧政からの解放を迎えましたが、政治的には不安定さは残っています。勲旧派と呼ばれるクーデター功臣たちの勢力が強く、士林派と呼ばれる新たな勢力と争っていました。治世後半には外戚勢力も力を持ちます。
ダメ王の理由
- クーデターによって王位に就いた中宗は、自らの基盤が弱く常に臣下の顔色を窺う傾向がありました。
- 勲旧派と士林派の対立が激化する中で主体的な政治を行うことができず、結果として己卯士禍と呼ばれる大規模な士林派の粛清を招きました。
- 中宗は当初、趙光祖(チョ・グァンジョ)ら士林派の改革を支持。しかし勲旧派の反発にあうと、勲旧派の圧力に屈して趙光祖らを処刑しました。
- 晩年には外戚の尹任(ユン・イム)を中心とする大尹派と、尹元衡(ユン・ウォニョン)を中心とする小尹派が激しく対立、政局は混乱しました。
無能な理由
自らの権力基盤が弱く、臣下間の対立を調停して国家を安定させるだけの政治力に欠けていました。
民衆・国家への影響
士林派の粛清は有能な人材を失わせ政治の停滞を招きました。また、外戚の勢力が台頭するきっかけともなり後の政治腐敗につながる要因となりました。
王の言い分(庇うとしたら)
燕山君の暴政の後、不安定な状況下で王位を維持するために、やむを得ない判断もあったのかもしれません。
歴史の教訓
- バランスの取れた政治勢力の維持と、指導者自身の強い信念を持つことが重要。
憲宗(ホンジョン)
簡単な紹介
李氏朝鮮第24代国王(在位:1834年 – 1849年)。純祖の孫にあたります。
当時の社会情勢
19世紀前半、純祖の治世と同様に、外戚による勢道政治が続いていました。この時代は豊壤趙氏(プンヤンチョし)一門が権力を握り、政治腐敗が深刻化していました。
ダメ王の理由
- 幼くして即位した憲宗は成長後も豊壤趙氏の勢力を抑えることができず、彼らの意向に左右されることが多くありました。
- 自ら主体的に国政を運営することができず、政治腐敗を食い止めることができませんでした。
- 憲宗の治世下でも官職の売買や不正蓄財が横行、民衆の生活は依然として苦しい状況が続きました。特に目立った業績を上げることもなく、外戚政治の下でその存在感は薄かったと言えま%89。
無能な理由
外戚の勢力に対抗するだけの政治力や指導力を持ち合わせていませんでした。
民衆・国家への影響
政治腐敗は国家の財政を悪化させ、民衆の不満を高めました。社会不安も解消されず、国家の活力を奪いました。
王の言い分(庇うとしたら)
若くして王位に就き、周囲を強力な外戚に囲まれていたため、自らの意思を貫くことは難しかったかもしれません。
歴史の教訓
- 権限の私物化は組織の健全な発展を阻害する大きな原因になります。
本当の「ダメ王」とは?
あなたはこの記事を読んで、他で見かける「朝鮮王朝ダメ王ランキング」とは少し違うと思ったかもしれません。他の記事やメディアでは燕山君や中宗などが上位にランクインすることが多いと思います。確かに彼らはドラマチックで多くのエピソードがあります。
でもこの記事では話題性よりも君主としての能力や実績に注目しました。
その理由は強烈なエピソードを持つ王よりも、無能で問題解決ができず悪化させる王の方が国や民に大きなダメージを与えることがよくあるからです。
つまり国民目線で見て「この人に国の運営を任せて大丈夫か?」という視点で選びました。
そのため哲宗・高宗には気の毒なランキングになってしまいました。もちろん彼らもやりたくてそうしたわけではありませんし。その時代・その立場に生まれた不運もあります。
でも、当時の国民の立場になってみればそんなのは関係ありません。「王ならちゃんとしてくれ」となるでしょう。
朝鮮王朝は高度に中央集権化された国です。国王に多くの権限が集中しています。象徴として存在すればいいという存在ではありませんし。その王が悪意を持つ者の操り人形になって、ハンコを押すだけの機械になれば被害は甚大です。
この記事を通じて、そうした視点から歴史や政治を捉え直すきっかけとなれば嬉しいです。
まとめ:歴史から学ぶ「ダメ王」の教訓
ダメ王は教訓の宝箱
李氏朝鮮王朝の「ダメ王」たちの歴史を振り返ってみました。
強力なリーダーシップの欠如、親族や側近による権力の私物化、変化する社会情勢への無理解、そして何よりも人を思う心の足りなさ。それが国家や社会を衰退させる大きな原因になります。
これは現実社会でも同じ。彼らの失敗から学び、現代社会でも人の声に耳を傾け、公正で透明な政治を行うことが重要だといえますね。
そういう意味ではダメ王は学ぶべきところが多い教訓の宝箱といえます。
順位ではなく内容が大事
歴史上の人物ランキングは評価の仕方や作った人の好みでいくらでも変わります。個人的には歴史上の人物ランキングは意味がないと思っていますが。歴史ものの企画としてはメジャーですし要望も多いようなので作ってみました。
この記事で見てほしいのは順番よりも、その人が何をしたかどんな影響があったかです。
時代や国が変わっても人のすることは同じ
歴史は繰り返すと言われます。時代や国が変わっても人のすることはたいして変わりません。過去の教訓を活かし、より良い未来を築くために私たちは歴史から目を背けることなく真摯に向き合っていくことが大切といえるのではないでしょうか。
いかがでしたか?
他にも、こんなランキングが見たい。こんな企画はどう?というリクエストがあればコメント欄や問い合わせフォームから遠慮なく言ってくださいね。できる範囲で対応します。
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