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朝鮮王朝 ダメ王ランキング:歴史に学ぶ無能な王たち

「朝鮮王朝のダメ王」と聞くと誰を思い浮かべますか?
李氏朝鮮500年の歴史には名君もいれば、判断ミスや無能さで国を危機に陥れた王もいました。

この記事では「暴君」ではなく無能さ危機対応力の無さ国を衰退させた原因に注目!歴史的に評価の低い王をランキング形式で紹介します。

この記事でわかること
  • 朝鮮王朝の「ダメ王」トップ5と候補者
  • それぞれの治世で何が起き、なぜ「無能」とされるのか
  • 現代に生かせるリーダーシップの教訓
歴史を振り返ることで「ダメなリーダー」に共通する特徴が見えてきます。

 

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朝鮮王朝ダメ王ランキング

それではダメ王ランキングを発表します。
この記事で紹介するダメ王は以下の方々です。

順位 王の名前 在位 ダメ王の理由(簡易)
1位 哲宗(チョルジョン) 1849-1863 外戚勢力に翻弄され政治不能、民衆苦難
2位 高宗(コジョン) 1863-1907 優柔不断で外国勢力に依存、国家主権喪失
3位 仁祖(インジョ) 1623-1649 親明排清政策で清の侵攻を招き国土荒廃
4位 宣祖(ソンジョ) 1567-1608 豊臣秀吉の侵攻に無策、国土荒廃・財政破綻
5位 純祖(スンジョ) 1800 – 1834 決断力不足、外戚勢力に主導権を奪われる

※次点候補:中宗(チュンジョン)、憲宗(ホンジョン)、明宗(ミョンジョン)

 

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朝鮮王朝ダメ王ランキング トップ5

まずはランキング形式で5人のダメ王たちを紹介します。

記事の演出上順番を付けましたが。視点や評価の仕方によって順番は変わります。順位そのものは参考程度に考え。その王が何をしたかどういう影響があったかを見てくださいね。

第1位:哲宗(チョルジョン)

簡単な紹介

李氏朝鮮第25代国王(在位:1849年 – 1863年)。流罪になった王族の子孫。江華島で質素な生活を送っていたところ後継者不足のため思わぬ形で王位に就きました。

当時の社会情勢

19世紀半ば、朝鮮社会は安東金氏をはじめとする有力な外戚勢力による政治の私物化が深刻でした。官僚の腐敗は蔓延、民は搾取され人々の生活は困窮を極め各地で不満が高まっていました。

ダメ王の理由

  • 政治経験も学識もなかった哲宗は朝廷の実力者である安東金氏の言いなりになるしかありませんでした。
  • 自らの意思で政治を行うことができず、外戚による政治腐敗を止めることも民衆の苦しみを和らげることもできませんでした。
  • 哲宗の治世下では咸鏡道や全羅道を中心に大規模な民の反乱が頻発しました。でも朝廷は有効な対策をとることができず、社会の混乱は増すばかりでした。
  • 官職の売買が公然と行われ、賄賂が横行、国家の規律は大きく乱れました。

無能な理由

王としての教育を全く受けておらず、政治に関する知識や判断力が決定的に不足していました。

民衆・国家への影響

外戚による腐敗政治は国家の機能を麻痺させ、民衆の生活を悪化させました。社会不安の増大は後の動乱の原因になりました。

王の言い分(庇うとしたら)

謀反人の子孫として暮らし王族としての教育や待遇をうけておらず準備期間もありません。未熟な王を導いてくれる人も助けてくれる味方もいません。それで周囲の勢力に逆らいつつ国を統治しするのはほぼ無理だったと考えられます。

歴史の教訓

  • 適切な教育と経験のない指導者は様々な問題に対応できず組織を危機に陥れる可能性があります。
  • リーダーにも資質と教育が必要という良い見本。
  • 選ぶ側も目先の利益ではなく全体を考えて選ぶことが大切です。

 

第2位:高宗(コジョン)

簡単な紹介

李氏朝鮮第26代国王(在位:1863 – 1907年)。幼くして即位、父の興宣大院君(フンソンデウォングン)が摂政を務めました。閔氏勢力との間で権力争いが繰り広げられ激動の時代を生き抜きました。最後の王は次の純宗ですが事実上は高宗の代で朝鮮は終わりました。

当時の社会情勢

19世紀後半、朝鮮は欧米列強や日本の進出という大きな外圧にさらされていました。国内では開化派と守旧派の対立が激化、社会全体が混乱していました。

ダメ王の理由

  • 外からの圧力と国内の混乱という二重の危機にあい、王が中心になって外交政策や内政改革を推し進めることができませんでした。
  • その時々で有力な勢力に賛同したり、優柔不断な態度が目立ち、情勢の変化に適切に対応することができませんでした。
  • 自国の民の反乱を鎮圧するため外国(清)の軍隊に依頼。
  • 目先の問題のために清・日本・ロシア等外国勢力を頼って国内に引き込むのを繰り返した結果、朝鮮は外国勢力の争いの場になってしまいました。
  • 立場が危うくなるとロシア公使館に逃げ込み政治を放棄。国内の権益を外国に渡してしまいました。
  • その結果、日清戦争や日露戦争を通じて勝者となった日本の圧力に有効な抵抗策を行うことが出来ず退位させられました。朝鮮(大韓帝国)を滅亡させてしまうことになります。

 

無能な理由

激動する国際情勢を的確に把握して国家の未来を見据えた決断を下すことができませんでした。

民衆・国家への影響

列強の介入を許し、最終的には国家の主権を失うという最悪の結果を招きました。実質的に国を滅亡させた王です。

王の言い分(庇うとしたら)

列強の圧力という当時の状況は非常に厳しく、一国の王としてかなり苦悩したでしょう。国内の意見も分かれる中で最善の策を見出すのは困難だったとも考えられます。また民族主義的な立場からは列強(特に日本)の被害者という評価もあります。

歴史の教訓

  • リーダーの意志がぶれすぎると国内もまとめられない。
  • その場しのぎで外国勢力に頼るのは危険。
  • 外国の軍隊を国内の問題解決に使ってはいけない。
  • 大きな脅威に直面した時は指導者の決断力とリーダーシップが集団の命運を左右する。

 

第3位:仁祖(インジョ)

簡単な紹介

李氏朝鮮第16代国王(在位:1623年 – 1649年)。西人派によるクーデター(仁祖反正)で即位しましたが、その後の治世は多難でした。

当時の社会情勢

17世紀前半。明が衰退し、後金(後の清)が勢力を拡大していました。朝鮮は伝統的に明との関係を重視していましたが、新たな強国である後金との関係をどのように築くかが重要な課題でした。

ダメ王たる所以

  • 仁祖は国際情勢を正しく認識することができず親明排清政策にこだわった結果、後金(清)の侵攻を招きました。
  • 特に二度目の清の侵攻は朝鮮から宣戦布告してます。
  • イグァルの乱・後金・清との戦争で生涯で3度都を捨てて逃げました。
  • 清の二度目の侵攻の際には南漢山城に籠城しましたが、清軍に包囲され食糧不足に陥り最終的には清のホンタイジに三跪九叩頭の礼をとって降伏しました。
  • 西洋の知識を吸収して戻った昭顕世子を冷遇、発展の機会を潰してしまい。世子の死後は関係者を過剰に粛清しました。

無能な理由

国際情勢の分析を誤り、国家を守るための適切な外交戦略を立てることができませんでした。

民衆・国家への影響

二度の大きな戦乱により国土は荒廃し、多くの民が犠牲となりました。国家の威信も大きく失墜し、清の属国となるという屈辱を味わいました。

王の言い分(庇うとしたら)

当時、明との長年の関係を断ち切ることは国内の強い反発を招く可能性があり、難しい判断を迫られたのかもしれません。

歴史の教訓

  • 偏見や過去の慣習にとらわれず現実的な状況を冷静に分析、被害を押さえることを最優先に考える必要があります。
  • 自分を過大評価して他人を見下したり挑発しないこと。

 

第4位:宣祖(ソンジョ)

簡単な紹介

李氏朝鮮第14代国王(在位:1567年 – 1608年)。明宗の後を継いで王位に就きましたが、治世後半には大きな国難に見舞われました。

当時の社会情勢

16世紀末、日本では豊臣秀吉が天下統一を果たし、大陸進出の動きを見せていました。国内では党争(朋党政治)が激化し、国力が低下していました。

ダメ王の理由

  • 豊臣秀吉の大陸進出(壬辰戦争、文禄慶長の役)という未曽有の国難に際し、宣祖は開戦前から適切な対応を取ることができませんでした。
  • 1年前から豊臣秀吉が攻撃の意志を表して準備しているにも関わらず、勝手にないものと判断して迎撃体制をとっていませんでした。
  • 戦争が始まれば都を放棄して逃亡。明に亡命しようとしました。戦時中も優柔不断な態度が目立ち的確な指示を出すことができませんでした。
  • 日本軍の侵攻が始まっても迅速な防衛体制を構築できず、多くの城が陥落し国土が蹂躙されました。
  • 援軍として呼んだ明軍の横暴にも国民は苦しめられました。
  • 実績のある後継者(光海君)がいるにも関わらず、息子への妬みと嫡流への執着から永昌大君への継承を考え、後の争いの元を作りました。

無能な理由

国難に対する危機意識が決定的に不足しており、事前の備えを怠っていました。また戦時下においても自分の保身を優先してリーダーシップを発揮することができませんでした。

民衆・国家への影響

長期にわたる戦乱により国土は荒廃し、多くの人命が失われました。国家の財政も破綻し社会全体が疲弊しました。

王の言い分(庇うとしたら)

豊臣秀吉の意志が固く侵攻の阻止そのものは不可能。そのうえ初めて経験する外国との全面戦争に動揺し、適切な判断を下すことが難しかったのかもしれません。

歴史の教訓

  • 国難はいつ訪れるかわかりません。問題が起きたときに被害を最小限に抑えるのもリーダーの役目。
  • 偏見にとらわれず、危機意識を持ち備えを怠らないことが重要。
  • 問題が起きたら人任せにしない。
  • 人の成果を妬まない。

 

第5位:純祖(スンジョ)

簡単な紹介

李氏朝鮮第23代国王(在位:1800年 – 1834年)。わずか6歳で即位したため、当初は祖母の貞純王后(チョンスンワンフ)が摂政を務めました。その後も外戚の安東金氏の勢力が強大な影響力を持つ時代でした。

当時の社会情勢

19世紀初頭。朝鮮社会は党争の激化と特定の一族による勢道政治と呼ばれる政治が行われていました。特に安東金氏一門が権力を独占、官職の売買や不正蓄財が横行していました。

ダメ王の理由

  • 若くして王位に就いた純祖は自らの力で政治を行うことが難しく、成長後も安東金氏の勢力を抑えることができませんでした。
  • 彼らの意向に左右される場面が多く、政治腐敗を食い止めることができませんでした。
  • 純祖の治世下では、洪景来の乱(ホン・ギョンネのらん)をはじめとする大規模な反乱が各地で発生、社会を不安に陥れました。安東金氏一門は官職を私物化、不正な手段で財産を蓄え、国家の財政を逼迫させました。

無能な理由

外戚の勢力に対抗するだけの政治力や指導力を持ち合わせていませんでした。

民衆・国家への影響

政治腐敗は民衆の生活を苦しめ社会の不満を高めました。国家の財政も悪化、国力の低下を招きました

王の言い分(庇うとしたら)

若年で即位し周囲を強力な外戚に囲まれていたため、自らの意思を貫くことは難しかったのかもしれません。

歴史の教訓

  • 若い指導者の周りには、その権威を利用しようとする勢力が現れやすい。
  • 指導者自身が強い意志と力量を持つことが重要です。
  • 後継者は早めに作っておくことが大切。

 

朝鮮王朝ダメ王 次点候補

惜しくも?ランキングからは漏れましたが、候補として残った王たちを紹介。彼らも評価の仕方によってはランキング入りしたかもしれません。

 

中宗(チュンジョン)

簡単な紹介

李氏朝鮮第11代国王(在位:1506年 – 1544年)。燕山君の暴政を終わらせたクーデター(中宗反正)で即位しました。

当時の社会情勢

16世紀前半。朝鮮社会は燕山君の圧政からの解放を迎えましたが、政治的には不安定さは残っています。勲旧派と呼ばれるクーデター功臣たちの勢力が強く、士林派と呼ばれる新たな勢力と争っていました。治世後半には外戚勢力も力を持ちます。

ダメ王の理由

  • クーデターによって王位に就いた中宗は、自らの基盤が弱く常に臣下の顔色を窺う傾向がありました。
  • 勲旧派と士林派の対立が激化する中で主体的な政治を行うことができず、結果として己卯士禍と呼ばれる大規模な士林派の粛清を招きました。
  • 中宗は当初、趙光祖(チョ・グァンジョ)ら士林派の改革を支持。しかし勲旧派の反発にあうと、勲旧派の圧力に屈して趙光祖らを処刑しました。
  • 晩年には外戚の尹任(ユン・イム)を中心とする大尹派と、尹元衡(ユン・ウォニョン)を中心とする小尹派が激しく対立、政局は混乱しました。

無能な理由

自らの権力基盤が弱く、臣下間の対立を調停して国家を安定させるだけの政治力に欠けていました。

民衆・国家への影響

士林派の粛清は有能な人材を失わせ政治の停滞を招きました。また、外戚の勢力が台頭するきっかけともなり後の政治腐敗につながる要因となりました。

王の言い分(庇うとしたら)

燕山君の暴政の後、不安定な状況下で王位を維持するために、やむを得ない判断もあったのかもしれません。

歴史の教訓

  • バランスの取れた政治勢力の維持と、指導者自身の強い信念を持つことが重要。

 

憲宗(ホンジョン)

簡単な紹介

李氏朝鮮第24代国王(在位:1834年 – 1849年)。純祖の孫にあたります。

当時の社会情勢

19世紀前半、純祖の治世と同様に、外戚による勢道政治が続いていました。この時代は豊壤趙氏(プンヤンチョし)一門が権力を握り、政治腐敗が深刻化していました。

ダメ王の理由

  • 幼くして即位した憲宗は成長後も豊壤趙氏の勢力を抑えることができず、彼らの意向に左右されることが多くありました。
  • 自ら主体的に国政を運営することができず、政治腐敗を食い止めることができませんでした。
  • 憲宗の治世下でも官職の売買や不正蓄財が横行、民衆の生活は依然として苦しい状況が続きました。特に目立った業績を上げることもなく、外戚政治の下でその存在感は薄かったと言えま%89。

無能な理由

外戚の勢力に対抗するだけの政治力や指導力を持ち合わせていませんでした。

民衆・国家への影響

政治腐敗は国家の財政を悪化させ、民衆の不満を高めました。社会不安も解消されず、国家の活力を奪いました。

王の言い分(庇うとしたら)

若くして王位に就き、周囲を強力な外戚に囲まれていたため、自らの意思を貫くことは難しかったかもしれません。

歴史の教訓

  • 権限の私物化は組織の健全な発展を阻害する大きな原因になります。

 

明宗(ミョンジョン)

簡単な紹介

明宗は李氏朝鮮の第13代国王です。在位期間は1545年から1567年でした。彼の治世は母の文定(ムンジョン)大妃の垂簾聴政と外戚による政治の私物化が特徴です。

当時の社会情勢

明宗が即位した16世紀の朝鮮王朝は先代の中宗の時代から続く士林派と勲旧派の対立が激化していました。明宗の即位後は母の文定王妃と弟の尹元衡が政治の実権を握り、士林派への弾圧が発生しました。自然災害や飢饉が頻発して民衆の生活は困窮していました。

ダメ王の理由

  • 母の文定王妃による垂簾聴政: 明宗は幼くして即位したため政治の実権は母の文定王妃が握っていました。彼女の政治力は非常に強く、明宗が成人してからも政治に口を出すことはほとんどできませんでした。
  • 外戚の専横: 文定王后の弟 尹元衡が政権を握り、権力基盤を固めるために反対派を粛清しました。官職が売買されるなど国政は腐敗しました。
  • 民衆の不満: 政治の腐敗に加えて災害が頻発。民衆の生活は苦しく、各地で盗賊が横行し治安が悪化しました。明宗はこうした状況を改善するための有効な手を打てませんでした。

民衆・国家への影響

外戚の専横により官僚制度が乱れ、賄賂が横行しました。飢饉や災害が頻発したにもかかわらず、政府の有効な対策がなかったため、民衆の不満が高まりました。

王の言い分(庇うとしたら)

幼くして即位したので自分の意志で政治を行うことができませんでした。文定大妃の死後は外戚の尹元衡を罷免、政治の改革を進めようとしました。でも病死してしまったため成果を上げることができませんでした。

歴史の教訓

  • 権力が特定の個人や外戚に集中すると腐敗が起こります。
  • 部外者(この場合は大妃)を介入させてはいけない。

 

本当の「ダメ王」とは?

この記事における「ダメ王」とは

このサイトでは「ダメ王」という言葉を、ただ乱暴な振る舞いをした王様という意味では使いません。このサイトのダメ王とは国が衰えたり、国民の暮らしが苦しくなったりするような良くない影響を与えてしまった国王と考えます。

具体的には

  • 政治を行う上での力が足りなかった「無能」さ
  • 理解力や自制心が足りず愚かな行いをしてしまう「暗愚」さ
  • 国に大きな問題が起きた時にうまく対応できない「危機対応力の欠如

という三つの点を重視。

国民にとって、ひどい行いをする王は困ります。でも国をうまく治めることができず、みんなが大変な思いをするのはもっと困ります

政治家としての資質と社会全体に与える影響の大きさ

あなたはこの記事を読んで、他で見かける「朝鮮王朝ダメ王ランキング」とは少し違うと思ったかもしれません。他の記事やメディアでは燕山君や中宗などが上位にランクインすることが多いと思います。確かに彼らはドラマチックで多くのエピソードがあります。

でもこの記事では話題性よりも君主としての能力や実績に注目しました。

その理由は強烈なエピソードを持つ王よりも、無能で問題解決ができず悪化させる王の方が国や民に大きなダメージを与えることがよくあるからです。

つまり国民目線で見て「この人に国の運営を任せて大丈夫か?」という視点で選びました。

そのため哲宗・高宗には気の毒なランキングになってしまいました。もちろん彼らもやりたくてそうしたわけではありませんし。その時代・その立場に生まれた不運もあります。

でも、当時の国民の立場になってみればそんなのは関係ありません。「王ならちゃんとしてくれ」となるでしょう。

朝鮮王朝は高度に中央集権化された国です。国王に多くの権限が集中しています。象徴として存在すればいいという存在ではありませんし。その王が悪意を持つ者の操り人形になって、ハンコを押すだけの機械になれば被害は甚大です。

この記事を通じて、そうした視点から歴史や政治を捉え直すきっかけとなれば嬉しいです。

 

まとめ:歴史から学ぶ「ダメ王」の教訓

ダメ王は教訓の宝箱

李氏朝鮮王朝の「ダメ王」たちの歴史を振り返ってみました。

強力なリーダーシップの欠如、親族や側近による権力の私物化、変化する社会情勢への無理解、そして何よりも人を思う心の足りなさ。それが国家や社会を衰退させる大きな原因になります。

これは現実社会でも同じ。彼らの失敗から学び、現代社会でも人の声に耳を傾け、公正で透明な政治を行うことが重要だといえますね。

そういう意味ではダメ王は学ぶべきところが多い教訓の宝箱といえます。

順位ではなく内容が大事

歴史上の人物ランキングは評価の仕方や作った人の好みでいくらでも変わります。個人的には歴史上の人物ランキングは意味がないと思っていますが。歴史ものの企画としてはメジャーですし要望も多いようなので作ってみました。

この記事で見てほしいのは順番よりも、その人が何をしたかどんな影響があったかです。

時代や国が変わっても人のすることは同じ

歴史は繰り返すと言われます。時代や国が変わっても人のすることはたいして変わりません。過去の教訓を活かし、より良い未来を築くために私たちは歴史から目を背けることなく真摯に向き合っていくことが大切といえるのではないでしょうか。

 

いかがでしたか?
他にも、こんなランキングが見たい。こんな企画はどう?というリクエストがあればコメント欄や問い合わせフォームから遠慮なく言ってくださいね。できる範囲で対応します。

今回はダメ王に厳選?して紹介しました。李氏朝鮮王朝には27人の王がいます。朝鮮王朝全体の流れと歴代の王について詳しく知りたい方は、李氏朝鮮王朝の歴代王一覧をご欄ください。

ダメ王とは正反対の聖君もいます。朝鮮の聖君を知りたい方は朝鮮王聖君ランキングをご覧ください。

 

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国王
この記事を書いた人

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールページをご覧ください。
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