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徐達・明建国最大の英雄はガチョウで死んだ?

明 2.3 明の臣下と人々

徐達(じょ たつ)は明朝時代の武将。

建国者の洪武帝 朱元璋とともに戦い、武力面では最も建国に貢献したひとりです。

朱元璋と同じ村の出身。朱元璋が紅巾軍に加わった後、徐達も入隊。朱元璋の配下になって戦いました。元軍や漢人軍閥との戦いで手柄をたてました。多くの戦いに勝ち軍神とまで言われました。

徐達の活躍がなければ明建国はもっと苦しいものになっていたでしょう。

朱元璋は即位後に大規模な功臣の粛清をしましたが。徐達は粛清にもあわずに生き残りました。

実の徐達 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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徐達の史実

いつの時代の人?

生年月日:1332年
没年月日:1385年4月7日

名称:徐 達(じょ・たつ)

国:明
父:徐五四
母:蔡氏
妻:謝氏
妾:孫氏

子供:
長男 徐輝祖
次男 徐添福
三男 徐增壽
四男 徐膺緒
長女 徐皇后
次女 代王朱桂妃
三女 安王朱楹妃

日本では室町時代になります。

徐達の生涯

至順3年(1332年)。徐達は濠州鍾離(安徽省鳳陽)で生まれました。徐家は代々農民です。

徐達は若いころから武術を学びました。

朱元璋の配下になる

至正12年(1352年)。定遠で紅巾軍の郭子興が挙兵。郭子興の軍に朱元璋が参加しました。

至正13年(1353年)。朱元璋は郭子興の命令で郷里に戻り兵を募集。22歳だった徐達は紅巾軍に参加しました。

徐達は朱元璋の配下になり河州各地の攻略で活躍。朱元璋に働きを認められます。

紅巾軍の内紛と朱元璋の勢力拡大

至正十四年(1354年)。紅巾軍で内紛が起こると朱元璋は兵の募集を理由に徐達たち24人と共に南に移動。滁州を占領しました。このとき徐達は率先して戦いました。

その後、徐達は軍を率いて朱元璋の領地拡大に貢献。鎮撫に昇進しました。

囚われた朱元璋の身代わりを名乗り出る

その後、紅巾軍内の争いで孫徳崖が郭子興に囚われ。朱元璋は孫徳崖の部下に拘束されました。徐達は朱元璋の危機を知ると駆けつけて代わりに人質となると申し出ました。様々な人々の努力の結果、朱元璋と孫徳崖は釈放されました。

この事件で徐達が救援に駆けつけたことで朱元璋から称賛され、さらに信頼されました。

朱元璋が韓宋の配下になる

その後、郭子興が病死して朱元璋の軍は小明王 の韓宋の配下になりました。朱元璋は小明王の権威を利用しつつも小明王からは独立して行動しました。

至正16年(1356年)3月。朱元璋は大軍を率いて集慶(現在の江蘇省南京市)を攻撃、元軍を破って集慶を占領。応天府と改称しました。この戦いで徐達は功績をあげ、朱元璋の側近としての地位を高め大将軍になりました。

他の軍閥や元軍との戦い

朱元璋は徐達を大将軍に任命。元軍が守る京口(現在の江蘇省鎮江市)を攻めさせました。徐達らはわずか2日で勝利。徐達は淮興翼統軍元帥に昇進しました。

至正16年(1356年)7月。朱元璋は呉国公を自称。軍事統制機関の江南行枢密院を設置、徐達を同㑒枢密院事に任命しました。

至正21年(1361年)。徐達は陳友諒と江州で戦い勝ちました。陳友諒は敗走。徐達は中書右丞に昇進。翌年、朱元璋は徐達とともに陳友諒を打ち破りました。

至正24年(1364年)朱元璋は呉王を名乗り、徐達は大将軍・左相国に任命されました。

徐達は廬州を攻略。その後、湖南、泰州を占領しました。

張士誠との戦い

張士誠の軍が宜興を占領すると徐達は軍を率いて奪還。さらに進軍して安豊を攻略、元の将軍忻都を捕らえ、左君弼を追放、艦隊を手中に収めました。淮南と淮北を完全に平定しました。

至正26年(1366年)、朱元璋は徐達を大将軍、常遇春を副将軍に任命。徐達は20万の大軍を率いて張士誠を攻撃しました。戦いは翌年まで続き、張士誠を捕らえました。この手柄で徐達は魏国公になりました。

朱元璋は華南をほぼ占領。

残るは元朝です。

至正27年(1367年)11月。朱元璋は徐達を征虜大将軍に任命、25万の大軍を率いて元を討たせました。徐達は山東の元軍を撃破、残る部隊も降伏。山東の多く支配下におきました。

明の建国

 

至正28年(1368年)正月。朱元璋は応天で皇帝に即位。明を建国。

徐達は中書右丞相に任命され。太子少傅も兼任しました。

徐達は黄河を遡って汴梁(河南省開封市)を攻め、守将の李克彝は逃走。洛水の北で元の将軍トユンと戦い、元軍を敗走させました。梁王アルウェンは投降。

その後も徐達は各地を攻略しながら華州に進軍。朱元璋は勝利の知らせが届くと汴梁を巡幸、徐達を招いて酒宴を開き慰労しました。その席で朱元璋と徐達は元の都・大都攻略を話し合います。

 

大都占領

閏7月。洪武帝朱元璋の命令で徐達と常遇春は元の首都・大都を目指しました。道中、元軍と戦いましたが連戦連勝。河西、さらに通州を攻略しました。

元の皇帝・トゴンテムルは奇皇后、皇太子アユルシリダラと側近たちを連れて北へ逃走。

一日後。徐達は兵を率いて大都を占領。宮殿に突入すると降伏を拒否する元朝の重臣たちを処刑しました。

朱元璋は大都を北平と改名します。

 

ココテムルとの戦い、中華統一

その後、徐達は山西を攻略。

徐達は元のココテムルが大都奪回に向かっていると連絡を受け、ココテムルの本拠地・太原が手薄になると考え太原攻撃を決定。引き返してきたココテムル軍を夜襲で打ち破り。ココテムルを敗走させました。

その後も元の残党や洪武帝 朱元璋に従わない勢力を撃破。洪武帝の中華統一に貢献します。

 

モンゴルとの戦い

元をモンゴル高原に追い返したものの、その勢力はあなどれません。元の皇帝も健在です。

洪武3年(1370年)。洪武帝は北伐(モンゴル攻撃)を命令。

徐達は再び討虜大将軍に任命され、西路軍を率いて安定に向かいました。李文忠は東路軍を率いて元の恵宗を追跡しました。

このとき洪武帝は朱元璋は華雲龍たちに雲州を攻撃させ、モンゴルの注意を引き付けて徐達や李文忠の作戦を支援させました。

4月。徐達は安定に到着。ココテムルは蘭州を包囲していましたが、徐達軍が到着すると包囲を解いて北に軍を展開。両軍は激しく戦いましたが一日たっても勝敗はつきません。そこでココテムルが別働隊を派遣して明軍の大本営を奇襲。左丞の胡徳済は混乱して明軍が敗北。

そこに徐達が駆けつけて敵を打ち破りました。その後、徐達は胡徳済の部下を斬って胡徳済を都に護送。見せしめにします。

翌日、徐達は軍を整えて戦い元軍を打ち破りました。ココテムルは数人の従者を連れて北へ逃げました。

その後、徐達は百八渡(陝西省略陽県)、沔州(陝西省勉県)、興元(陝西省南鄭県)などを攻略。李文忠率いる東路軍も戦いに勝利し。元朝の勢力は弱まりました。

11月。徐達らは帰還。朱元璋は自ら龍江に赴いて将兵を迎えました。

徐達は開国輔運推誠宣力武臣、光祿大夫、左柱国、太傅、中書省右丞相、参軍国事になり、「魏国公」の爵位を与えられました。

北の守りを強化

洪武4年(1371年)正月。元の皇帝 アユルシリダラとココテムルはカラコルム(哈剌和林)で合流。軍を再編成しました。

大規模な遠征に敗北

洪武5年(1372年)正月。洪武帝 朱元璋は再び北伐の命令を出しました。

徐達は征虜大将軍として中路から、左副将軍の李文忠は東路から、征西将軍の馮勝は西路から、それぞれ5万の騎兵を率いて遠征しました。馮勝だけが河西走廊を攻撃して勝ちましたが、駱駝や馬を

徐達配下の藍玉はクルン川付近でココテムルの別働隊を破りましたが、勢いに乗る明軍はさらに進撃。ココテムルは後退して軍を建て直すと明軍を迎え撃ちました。

徐達はココテムルの元軍に突撃。しかし数万人の犠牲を出します。徐達はなんとか立て直して守りを固め全滅は避けました。李文忠の軍も戦闘に敗れ撤退しました。唯一馮勝だけが河西走廊を攻撃して勝ちましたが、駱駝や馬を隠したことで罰せられました。

洪武帝は徐達のこれまでの功績が大きかったのでこの敗戦の責任は追求しませんでした。

翌年、徐達は再び遠征。タラカイ(答剌海)で元軍を破り、その後北平に駐留しました。

北方の守りを固める

しかしこれ以降は大規模な遠征は行われず、洪武帝は防御に徹することにしました。

徐達は北平(北京)に3万2000戸を移住させ北平の防衛を強化しました。同時に永平から山海まで三十里の長城を築き、喜峰口などの関所を修復。兵を訓練して北の守りを強化しました。

洪武14年(1381年)。元のナルブファ(乃兒不花)が永平を攻撃したので徐達は湯和らを率いてナルブファ(乃兒不花)を撃退、追い払いました。

功臣の粛清を生き残る

洪武13年(1380年)。重臣の胡惟庸が処刑されました。

朱元璋は中書省を解体して丞相の地位を廃止。徐達に朝政に参加するよう命じました。

朱元璋は疑い深い人でした。明朝の建国後は洪武帝はともに戦った仲間たちを粛清。多くの臣下が消えました。

徐達は法はきちんと守り、出世しても驕り高ぶったりしません。でもあまりにも手柄を立てすぎ地位も上がったので朱元璋から疑われることもありました。

あるとき徐達は洪武帝から屋敷を与えると言われましたが、それが朱元璋が呉王時代に使っていたものだと知り丁重に断りました。もしここで素直に受け取っていたら野心がある・驕り高ぶっていると判断されて粛清の対象になったかも知れません。

朱元璋はこうした試しをときどきしましたが。徐達は全てクリア。粛清を免れました。

 

徐達の最期

洪武17年(1384年)。徐達は北平に駐在中に背疽を患いました。洪武帝 朱元璋はそれを知って特別に徐達の長男・徐辉祖に敕書を携えて慰問させ、閏十月に徐達を南京に呼び戻しました。

洪武18年2月27日(1385年4月7日)。徐達の病状が悪化。その後南京で死去しました。享年54歳。

 

「徐達はガチョウを食べて死んだ」は都市伝説

徐達は洪武帝からガチョウを食べるように勧められ、ガチョウを食べて死んだと言われます。

でも、正史の「明史」にはそんな記録はありません。

ではなぜそんな話が広まっているかと言うと、明朝時代の王文龍の書いた野史「龍興慈記」に次のように書かれているからです。

徐達は晩年に背中の壊疽を患い、ガチョウを食べるることを禁じられていました。それを聞いた朱元璋はわざとガチョウの蒸し物を徐達に与えました。徐達は朱元璋が自分を殺そうとしているのを知り目に涙を浮かべながらそのガチョウを食べ。数日後に中毒で死亡しました。

明朝中期の野史「翦勝野聞」にも徐達は朱元璋の出した食事を食べて死んだと書かれています。

蒸しガチョウに毒があるというのは医学的にも根拠はありません。昔の中国でガチョウの肉が腫れ物に悪いと信じられていたとしても、それが原因で死亡することはありません。
ガチョウの肉は中国や台湾では人気の食材です。もし本当に健康に悪いなら毎年多くの人が死んでいるはずです。でもそんな報告はありません。もしガチョウの肉を食べて死んだとしても腐って食中毒を起こしたか毒が混入していたかのどちらかでしょう。

清朝時代の学者 趙翼はこれらは「根拠のない噂」だと批評しました。でも現代でも徐達がドラマ化されるときはたいていガチョウの肉が出てきますし、中国や日本の歴史好きの間でも信じている人は多いようです。

でも、徐達はガチョウを食べて死んだは都市伝説です。

 

テレビドラマ

真命天子 2016年、中国 演:張鑫
永楽帝 2022年、中国 演:張豊毅

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