PR

韓琦・三代の北宋皇帝に仕えた政治家の生涯とは

宋 4.3 宋の臣下と人々

韓 琦(かん き)は中国北宋の韓琦は11世紀の北宋の政治家です。

仁宗、英宗、神宗の3代に仕えました。

范仲淹とともに西夏の侵攻を防ぎ、慶暦新政を支持、北宋中期の政治に大きな影響を与えました。

一方で王安石の新法には反対するなど。晩年の韓琦は若いころとは違った一面もあります。

史実の韓琦はどんな人物だったのか紹介します。

 

PR

韓琦の史実

いつの時代の人?

生年月日:1008年8月5日
没年月日:1075年8月8日

姓 :韓(かん)氏
名称:琦(き)
字:稚圭
号:贛叟

国:宋(北宋)
地位:宰相
父:韓国華
母:羅氏

 

日本ではになります。

 

おいたち

3代 真宗の時代。
大中祥符元年7月2日(1008年8月5日) 相州安陽県(現在の中国河南省)で誕生。

父は韓国華。開封府判官や右諫議大夫を務めていました。
母は羅氏。諫議大夫 羅延吉の娘。

韓家は代々、官僚の家柄。

韓琦は六男。彼が3歳のとき両親が他界。兄夫婦よって育てられました。

真面目で口数が少なく。自立できるように努力しました。

天聖5年(1027年)。科挙で次席合格。進士になりました。

景祐元年(1034年)。開封府の役人になりました。

その後様々な役職を経験しました。

様々な提言をする

景祐3年(1036年)司諫になりました。司諫は政治の問題点を指摘する役職です。

諫官の任期中に様々な意見を出して多くの提案が朝廷に採用されました。

特に宝元元年(1038年)に提出された「丞弼之任未得其人奏」は最も有名です。

災害や飢饉が頻発。大量の流民が出ていましたが、当時の宰相・王随や陳堯佐、参知政事の韓億や石中立は何も対策ができませんでした。韓琦は四人を猛批判。仁宗はその意見書を読んで四人の大臣たちを同時に罷免しました。「たった一枚の紙で四人の大臣が落ちた」形になりました。この件があって、韓琦は都で名前を知られるようになりました。

当時、横行していた賄賂や慣習、腐敗した役人を批判。余分な役職を廃止して経費を削減すべきと提案しました。これにはなかなか人を褒めない宰相の王曾も韓琦の意見を褒めました。

宋は役人天国で大量の無駄な役人を採用。人件費が朝廷の財政を圧迫しつつありました。それにいち早く気がついた人物の一人でした。

 

西夏との戦い

1038年。宋に服従していたタングートの西平王・李元昊(り・げんこう)が「皇帝」を名乗り「大夏(中国では西夏とよびます)」を建国。国境付近では宋と西夏の争いが起こりました。

宝元2年(1039年)。韓琦は四川から都に戻り陝西の様子を報告。韓琦は陝西安撫使に任命されました。韓琦は現地で重税に苦しむ民の姿を見て税を免除しました。

康定元年(1040年)。西夏の李元昊が延州(陝西延安)に攻めてきました。守備側の宋軍は敗北。

作戦内容で范仲淹と意見が対立

韓琦は范仲淹とともに陝西経略安撫・夏竦の副官になりました。ところが3人の間で意見が別れてしまいます。

韓琦は戦いが長引けば財政が保たなくなるので西夏との決戦に持ち込んで一気に決着をつける方法。

范仲淹は国境の防衛を固めて必要に応じて反撃を主張。

夏竦は韓琦を支持。意見がまとまらず都の仁宗の決断を仰ぐことになりました。仁宗は韓琦の案を採用しました。

好水川の戦いで西夏に敗北

慶曆元年(1041年)。韓基は西夏への攻撃を主張。范仲淹の提案を断って六盤山(寧夏・龍徳)下の濠水河(甘水河)で張元が率いる西夏軍と戦いました。

このとき韓基は隊長の任福に夏軍の背後に回り込み、もし戦えるなら待ち伏せして帰り道を妨害するよう指示。「命令違反したらたとえ功があっても死刑にする」と命令しました。

しかし 宋軍は敗北。任福ら主要な将校16人が戦死、1万人以上の兵士が死亡しました。

夏竦、韓琦、范仲淹は広角になり左遷されました。
その後、宋軍が再び破れ。韓琦、范仲淹は復帰。

慶曆2年(1042年)11月。韓琦は陝西四路の経略安撫および招討使として任命され、范仲淹とともに西部の防衛を担当しました。

好水川の戦いの後は韓琦は范仲淹と行動を共にして彼の意見を聞くようになっていました。韓琦は范仲淹の防御戦略を採用。国境沿いに強力な防衛体制を作り上げました。

 

都に戻り范仲淹たちの「慶暦新政」を支持

1043年4月。防衛の功績が評価され、韓基と范仲淹は都に戻り副枢密顧問官になりました。

当時、朝廷では西夏との和平交渉が進められ宰相の晏殊たち大臣の多くが西夏の要求をすべて受け入れようとしていました。韓琦はそれに反対しました。

さらに韓琦は防衛の強化や人材登用の方針を書いた「論備禦七事奏」を提出。内容的には范仲淹の提出した十項目の改革案とほぼ同じです。

范仲淹と富弼が中心になって十項目の改革が進められました。「慶暦新政」と言います。韓琦もこの改革に賛成しました。

反乱の平定・被災民の対策

この年、陝西省南部を大干ばつが襲い飢えた民衆たちが反乱を起こしました。 仁宗皇帝は韓琦に反乱鎮圧を命令。

韓琦は、官吏を各地に派遣して被災者に救援物資を配り、過酷な税を免除、役人を調べて無能な者を解任し。人件費削減のため軍から戦えない兵士1万余人あまりを解雇しました。

慶暦新政の挫折

慶暦4年(1044年)。韓琦は陝西から都に戻りました。

韓琦は西北辺境防衛のための4つの方針を出して。今は和睦して軍を強化、その後、討伐の計画をするべきだと提案しました。

慶暦5年(1045年)。一方、范仲淹たちの改革は反対派の妨害にあっていました。韓琦は范仲淹たちを弁護しましたが効果はありません。

仁宗は「慶暦新政」の中止を宣言。范仲淹、富弼は左遷。韓琦も枢密副使の役を解かれ、資政殿学士に降格になって揚州に異動になりました。

北方警備

北方では軍の規律が乱を正して再編成。訓練させました。

皇祐五年(1053年)。荊州(現在の山西省太原市)に異動。契丹側の部族が国境を超えて土地を占領していたので、部族長と交渉して取り戻したり。放棄されていた土地を開梱したりしました。

都に戻る

嘉祐元年(1056年)。韓琦は都に呼び元されて枢密使になりました。

嘉祐3年(1058年)。韓琦は同中書門下平章事(宰相)になりました。

後継者問題を解決

韓琦が宰相になって最初に取り組んだのが後継者問題です。仁宗には後継者がいませんでした。

韓琦と参知政事の欧陽修が進言して安懿王 趙允讓の子 趙宗實(趙曙)を皇太子にしました。

嘉祐8年(1063年)。仁宗 趙禎が病死。英宗 趙曙が即位しました。

PR

英宗 趙曙の時代

英宗と曹太后の対立

英宗が即位した初めの頃。英宗は重い病にかかり、慈聖太后 曹氏が摂政を務めることになりました。

一部の宦官たちは曹太后に英宗の悪口を言い、曹太后と英宗が険悪な関係になりました。韓琦と欧陽修は宮廷内の対立を解決するために多くの労力を費やしました。

濮議(ぼくぎ)の争い・英宗の父の称号問題

英宗 趙曙は父・趙允譲にどんな爵位を与えるべきか議論するように命じました。

治平2年(1065年)。韓琦・欧陽脩・曾公亮は英宗の意向を受けて趙允譲に先代皇帝を意味する「皇考」を提案。

ところが司馬光・范純仁・呂大防は皇帝の伯父を意味する「皇伯」にすべきと主張。両者の争いに発展します。さらに曹皇太后が韓琦たちを批判。

韓琦たちの実務を担当する官僚と、司馬光たちを支持する御史台や諌官など本来は政治の不正を正すチェック機関の学者官僚が対立。両者とも譲らず政治は混乱しました。

英宗が曹皇太后を説得。趙允譲と3人の妻妾を「親」扱いにして趙允譲を「皇考濮安懿皇」と呼ぶことで決着。その後、英宗が死去したので趙允譲に皇帝の称号が贈られないままこの問題は終わりました。

宋時代は相手を攻撃して自分の名声を高める議論のための議論、売名行為の論争が多く行われ、政治が滞ることがよくありました。この風潮が宋の衰退を招く原因のひとつになります。

西夏との争い

治平三年(1066年)。西夏が大順城(甘粛省華池県)に攻撃してきました。

韓琦は使者を送り歳賜と和市を停止すると。夏西に伝えました。枢密使の文彦博は仁宗時代の戦争を持ち出して西夏との戦争になると反対しましたが。韓琦は今の西夏皇帝・毅宗 李諒祚は先代の景宗 李元昊ほど賢くないし、今の宋の国境は当時よりも守りが堅い。西夏は折れてくると判断。英宗も韓琦の意見を支持。

すると、毅宗 李諒祚は宋に謝罪してきたので宋は褒美として西夏に絹五百匹、銀五百両を与えました。

西夏は大規模な侵攻はないものの金品目当てに何度も宋を攻撃。宋も西夏が謝れば金品を与え貿易を再開することを繰り返しました。

治平4年(1067年)。もともと病気がちだった英宗が病死。神宗 趙頊が即位しました。

神宗 趙頊の時代

韓琦は司空兼侍中、英宗山陵使になりました。

御史中丞の王陶が韓琦を「君主が弱く、臣下が強い。韓琦は勤務を怠り、威張り散らしている」と弾劾。神宗は韓琦は濡れ衣だと思ったので王陶を解任しました。

でも韓琦は嫌気がして辞職。淮南節度使だけ引き受けました。

そのころ国境を守っていた種諤擅が西夏を勝手に攻撃。綏州を占領しました。

朝廷は韓琦を陝西四路經略使に任命され。西夏との戦いに備えました。朝廷では綏州を守るのは難しいので放棄しようと考えており、韓琦も守るは難しいと考えていましたが。陝西宣撫使郭逵に説得され韓琦は綏州の放棄には反対。そうしている間に、西夏皇帝・毅宗 李諒祚が病死。ひとまずは落ち着きました。

新法の争い

熙寧2年(1069年)。王安石が参知政事になり、政治改革を行い始めました。

朝廷や役人、軍の仕組みを変えて効率化。全体としては減税を目指す改革です。貴族・大地主などの特権や利益を減らし、農民の負担を減らすのを目的にしていますが。特権階級からの反発が大きく。司馬光・文彦博たち朝廷の官吏たちも猛反対しました。王安石は神宗から全権を与えられているので反対派を弾圧しました。

このとき韓琦は王安石の新法に反対しました。

韓琦の家は多くの農場を所有、大地主になっていました。王安石の改革が行われると韓琦のような大地主は損をしてしまいます。だから反対しました。

韓琦はかつて王安石の改革よりも厳しい范仲淹の改革には賛成しました。でも王安石の改革には反対しました。

熙寧8年(1075年)。韓琦が死去。享年67歳

徽宗の時代には「魏郡王」の称号が追贈されました。

 

晩年の韓琦には特権階級を批判していた若い頃の姿はなく。かつて彼が批判した特権にしがみつく人間になっていたのは皮肉です。

 

テレビドラマ

孤城閉 2020年、中国 演:楊玏

 

 

リクエスト歓迎!

アジアのドラマで知りたい歴史上の人物は他にいますか? 人物以外にも出来事・事件や文化・時代背景・民族や国など。アジアの歴史ならOK。中国・韓国以外でもできるだけお答えします。 必ず記事にできるとは限りませんが、できるだけお応えします。コメント欄に書き込んでくださいね。 (リクエストはコメント欄に表示されません)

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました