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川島芳子「男装の麗人」になった清朝の王女

大清 1.4 清の皇女(公主)

川島芳子(かわしま・よしこ)は清朝末期から満洲国時代の人物。

清朝の粛親王 善耆の娘。

日本人・川島浪速の養女になって川島芳子と名乗り日本で育ちました。

清朝の王女ということで日本での注目度の高かった川島芳子ですが。髪を切って男装した姿が有名になり、マスコミの注目を集めます。

満洲国建国後は幾つかの作戦に参加したといわれます。

「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」などの呼び名で知られます。

当時から小説や映画になりイメージが大きく膨らみ、誇張されて伝わっているようです。

史実の川島芳子はどんな人物だったのか紹介します。

 

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川島芳子の史実

いつの時代の人?

生年月日:1906年5月24日
没年月日:1948年3月25日

名前:川島芳子(かわしま・よしこ)
姓 :愛新覺羅(あいしんかくら)
名称:顯玗( けんし)
字 :東珍
漢名:金璧輝

国:大清→中華民国→満洲国
旗籍:満洲鑲白旗

父:粛親王 善耆
養父:川島浪速(日本人)
母:側福普 張佳氏
夫:カンジュルジャップ(離婚)

兄:金壁東(愛新覺羅 憲奎)、
妹:金默玉(愛新覺羅 顯琦)

子供:なし

彼女は清朝末期~日本~満洲国~中華民国

日本では明治から昭和になります。

 

おいたち

1907年5月24日(光緒33年)。北京の粛親王府で誕生。

父は粛親王 善耆

代々親王を名乗る鉄帽子王の家系。祖先は大清帝国2代皇帝 ホンタイジの長男・ホーゲです。

母は側福普 張佳氏

顯㺭は 粛親王 善耆の十四女でした。

1911年。辛亥革命が起こり。
1912年。宣統帝 溥儀が退位しました。

父の粛親王 善耆や恭親王溥偉たちは北京を脱出して溥儀の皇帝復帰を目指して活動しました。

粛親王は日本の参謀本部の協力で旅順に逃れ。粛親王の家族も川島浪速(かわしま なにわ)の協力で旅順に移り住みました。川島浪速は元日本陸軍の軍人・通訳ですが清朝に雇われ北京警務学堂の学長になりました。そのころから粛親王との付き合いがありました。

粛親王は日本をお手本にした立憲君主制を目指していて川島浪速とは意気投合。義兄弟の契をかわしていました。

川島浪速の養女になる

粛親王は娘の顯玗(けんし)を川島浪速の養女にしました。

川島浪速は顯玗に芳子(よしこ)の名を与えて日本で育てました。

清朝のお姫様ということで注目されました。

1915年(大正4年)。来日。東京赤羽で暮らし、豊島師範附属小学校、跡見女学校に通いました。その後、川島浪速が長野県松本市に引っ越し。芳子も松本高等女学校に通いました。父たちの影響で満蒙(満洲とモンゴル)の独立を目指すようになります。

馬で学校に通ったとも言われます。

1922年。粛親王 善耆が死去。学校を長期間休んで葬儀に参列するため出国。ところが松本高等女学校での復学が認められず中退しました。

1923年。北京で愛新覚羅溥儀に会いました。

髪を切って男装

17歳の時。ピストルで自殺未遂の後。髪を切りって男装しました。新聞記者が押しかけ、その後「女を捨てる」という決意文書が新聞に載り世間から注目されました。

芳子のこの行動については諸説あります。様々な男に付きまとわれたり、乱暴な養父の仕打ちに耐えかねて等。川島芳子の目指す理想と女としての現実のギャップに苦しんだと言われます。

自伝には髪を切ったのは復辟(清朝皇帝の復位)への決意。男装は危機からの保護色。と書かれています。

芳子は乗馬、剣道、射撃などに夢中になります。

もともと注目度の高かった川島芳子はマスコミにも大きく取り上げられ熱狂的なファンや彼女を真似て髪を着る女性もでました。

1927年。関東軍参謀長の斎藤恒の仲人でモンゴル人のカンジュルジャップと結婚しました。
カンジュルジャップは内モンゴルの中国からの独立を目指し、川島浪速とも付き合いのあるパプチャップ将軍の次男。ところが夫の家族と馴染めず1年あまりで離婚。

1930年。上海に渡った川島芳子は日本陸軍・上海駐在武官の田中隆吉と出会い交際しました。

婉容の脱出作戦

1931年。満洲事変のあと。愛新覚羅溥儀は関東軍と協力、満洲に渡りました。ところが溥儀の妻・婉容は溥儀とともに満洲で暮らすつもりはありません。

川島芳子はこのとき溥儀の妻・婉容を天津から連れ出す任務を担当。婉容に対して「溥儀が死んだので葬儀のために」と騙して連れ出して旅順まで護衛しました。

川島芳子は田中隆吉のもとで様々な作戦に関り、川島芳子は上海事件の引き金になる作戦を行なったとされますが。田中隆吉は嘘をついたり責任逃れが多いので、田中隆吉の証言は信憑性が低くどこまで本当なのかわかりません。

1932年3月。満洲国建国。川島芳子は女官長に任命されましたが実際には赴任していません。

マスコミで人気

このころ。川島芳子の活躍を描いた小説「男装の麗人」が発表。本人のインタビューでは10倍に誇張されているということですが話題になりました。

1933年。関東軍によって熱河自警団が編成され、川島芳子が総司令になりました。ただし川島芳子は実際には前線には出ていません。

マスコミでは「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれ、大きく注目を集めました。空き時間にはラジオに出演したり、それがもとでレコードデビューしたりしました。

芸能界にも知り合いができて、水谷八重子らと交流しました。作家で活動家の伊東ハンニと交際したと言われますがどこまでが本当かはわかりません。

 

世間から遠ざかる川島芳子

満洲と日本を行き来していた川島芳子ですが。講演会で関東軍や日本政府を批判することもあり。日本国内で様々な要注意人物と会うこともあり日本国内では警察の監視対象者になっていました。

マスコミへの登場も減っていきます。

このころ鎮痛薬のフスカミンを打つようになりまりました。何らかの怪我で足に痛みが出ていたといいます。

1937年7月。日本軍が天津を占領。川島芳子は天津で料亭「東興楼」を経営、女将になりました。このころ国粋大衆党総裁の笹川良一と付き合っていたといいます。

李香蘭(り・こうらん、本名:山口 淑子(やまぐち よしこ))と知り合い。李香蘭を妹のように可愛がっていたといいます。ところが李香蘭の関係者が東興楼への出入りを禁止。二人の交流は減っていきます。

李香蘭に「僕のようになってはいけない。利用されるだけ利用されて捨てられるだけだ」と手紙に書いて渡したといわれます。

第二次世界大戦中は満洲国からは出ず、目立った活動はしていません。

 

川島芳子の最期

1945年8月15日。日本が降伏。

1945年10月。川島芳子は北京に潜伏していたところを中華民国に逮捕されました。

そして「漢奸」(売国奴・国賊の意味)として死刑判決が出ました。

有罪の証拠に小説「男装の麗人」が使われたりするなど普通の裁判ならありえませんが。国民党は最初から処刑するつもりだったと言われます。

その情報が日本に伝わると助命運動がおこなりましたが、占領下の日本では十分な活動ができず。川島芳子が日本人・日本国籍を持っていると証明できれば釈放される可能性はありましたが。(李香蘭は逮捕されましたが日本人なので処刑されませんでした)

川島芳子は日本国籍になってなかったので死刑が実行されることになりました。

1948年3月25日。北平第一監獄で銃殺刑になりました。

享年40歳。

川島芳子は服のポケットに辞世の句を忍ばせていました。

「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん」

川島芳子の遺骨は日本人僧侶の古川大航によって日本に送り届けられ、川島家の墓に葬られました。

 

川島芳子は人気が高いのでその後も生存説があとをたちません。

処刑されたのは替え玉で、「方おばさん」と名乗って吉林省長春市でひっそりと暮らしていた人が川島芳子だという話もありますが。「方おばさん」は芳子本人ではないと言われています。

 

テレビドラマ

ラストエンペラー(The last Emperor) 1987年、伊・中・英・仏・米 合作。 演:ファン・グァン

劇中ではイースタン・ジュエル(東洋の宝石)の名前を名乗っています。

川島芳子は婉容と同性愛関係のように描かれていますが。婉容を連れ出して護衛しただけの関係です。婉容にアヘンを勧めたのは芳子ではありません。婉容はアヘンを紫禁城時代から使っていました。

 

 

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