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栄憲公主・モンゴルに嫁ぎ康熙帝に最も愛された皇女の悲劇

大清 1.4 清の皇女(公主)

 

栄憲公主(えいけんこうしゅ)は清王朝の第4代皇帝・康熙帝の娘です。

モンゴルの王子ウルグンと結婚してモンゴルで暮らしました。

康熙帝から非常に愛されており、側室の娘でありながら皇后の娘と同等の扱いを受けていました。

史実の栄憲公主はどんな人物だったのか紹介します。

 

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栄憲公主の史実

いつの時代の人?

生年月日:1673年
没年月日:1728年

称号:和碩栄憲公主→固倫栄憲公主
父:康熙帝
母:栄妃馬佳氏
夫:ウルグン

子供:一男一女
息子・霖布

彼女が生きたのは17~18世紀にかけて。清王朝の4代康熙帝~5代雍正帝の時代。

日本では江戸時代になります。

おいたち

康熙12年(1673年)。康熙帝(こうきてい)の三女(次女という説もあります)として生まれました。

長女と次女が若くして亡くなったため事実上の長女でした。

母は側室の栄妃馬佳氏(えいひまかし)。
満州正黄旗人の馬佳氏(マギャ氏)の出身。馬佳氏は美しく優しい女性でした。康熙帝からとくに愛された側室です。

栄憲公主も母の美しさを受け継ぎ、優しい女性だったといいます。康熙帝からも大事にされました。栄憲公主は「みんなに愛される真珠」と例えられました。

モンゴルの王子と結婚

康熙20年(1681年)。8歳のとき。モンゴルの王子烏爾袞(ウルグン)と婚約。ウルグンとペアの金の指輪を作りました。

清王朝はウルグンに儀式用の贈り物も与えています。清とモンゴルの同盟は重要でした。

ウルグンはモンゴルの名家ボルジギン氏。

ボルジギン氏はチンギズ・ハンの子孫でモンゴルでは「黄金の一族」と呼ばれ、最も高貴な一族とされます。

祖母は淑慧長公主。大清帝国2代皇帝ホンタイジの娘です。

康熙30年(1691年)。栄憲公主は18歳のとき。ウルグンと結婚。

和碩栄憲公主の称号が与えられました。和碩公主(わせきこうしゅ、満州語:ホショイグンジュ)とは清の皇帝の娘。母が皇后ではなく、妃嬪の娘にあたえられる地位です。

「公主」は王女の意味。中国の他、朝鮮やベトナムの王朝でも使われます。

栄憲公主はモンゴルに嫁ぎましたが夫婦仲は良かったようです。

また子供の教育には厳格だったといいます。

夫のウルグンは清朝への忠誠心が高い人物でした。戦いでも優秀だったので康熙帝はウルグンをよく利用しました。

そのため夫のウルグンは戦いで遠征に出ることが多く、栄憲公主一緒にいる時間は短かったようです。

モンゴルに嫁いだ栄憲公主は頻繁に故郷を訪れ康熙帝に会いました。

皇后の娘と同格の固倫栄憲公主になる

康熙48年(1709年)。康熙帝は病気になります。栄憲公主は急いでモンゴルから清に戻り父を見舞いました。

この年、栄憲公主に固倫栄憲公主の称号が与えられました。

固倫公主(こりんこうしゅ、満州語:グルニグンジュ)は父が皇帝、母が皇后の娘に与えられる称号です。栄憲公主の母・栄妃は側室でした。母が側室でも皇帝から特別に愛された場合は固倫公主の称号が与えられました。

固倫とは天下・世界という意味。固倫公主は「世界の王女」という意味です。

康熙帝はモンゴルに嫁いだ栄憲公主に会うため4回彼女のもと訪れました。康熙帝の娘は他にも4人の娘がモンゴルに嫁ぎました。しかし康煕帝は彼女たちを訪れてはいません。康熙帝は栄憲公主を特別かわいがっていたようです。

康熙60年(1709年)。ウルグンは康熙帝と遠征中に病気で死亡しました。

雍正6年(1728年)。栄憲公主は56歳で亡くなりました。内蒙古の赤峰(現在の内モンゴル自治区赤峰市)にウルグンと共に葬られました。

栄憲公主の息子は彼女のために豪華な墓を作りました。幅45メートル、長さ105メートルもある長方形の大きなものです。

彼女が埋葬されたとき、真珠で飾られた龍の模様のあるドレスと豪華な金色の鳳凰の冠を身に着けていました。モンゴルでは異例の豪華さです。

栄憲公主の墓は死後244年間盗掘に合わず無傷で残りました。

確かに生まれ故郷を離れてモンゴルに嫁いだのは本人の意思ではありません。でも当時としては酷い暮らしだったわけではなく、むしろ恵まれていたほうでしょう。

栄憲公主の悲劇は死後に起きたのです。

 

文化大革命で遺体と墓が破壊

しかし文化大革命で墓は荒らされました。

1949年に毛沢東たちが共産革命を起こして中華人民共和国が誕生。その後、1960年代以降に文化大革命が起こりました。文化大革命とは中国で共産主義政権が誕生した後に起きた粛清と破壊活動のことです。

このとき中国では多くの歴史的文化財が破壊されたり粛清が起こりました。内モンゴルでも過激な活動が起こりました。

とくに内モンゴルや満州に入植した漢民族の過激派はモンゴル族や満州族への暴力や破壊活動をおこなったといいます。

無傷で残されていた栄憲公主の墓は彼らの絶好の標的になってしまいました。

1972年。過激派は栄憲公主の墓を壊して内部に侵入。地下に安置されていた栄憲公主の遺体を墓の外に出しました。

このとき栄憲公主の遺体はミイラ化して腐ってなかったといいます。肌には弾力があり保存状態は良好でした。乾燥地域で外気に触れなかったので腐らなかったのでしょう。

湿気の多い日本では腐ってしまいますが。乾燥地域では何百年も前の遺体が残っていることがあります。

過激派は彼女の遺体から宝物を奪い、遺体を墓の外に捨てました。墓の外に出された彼女の遺体は野鳥や獣の餌になってしまいました。

墓は爆破されたり、ノミで削られたりして徹底して破壊されてしまいます。

その後、栄憲公主の遺体は地元の考古学者によって保健局に運ばれました。考古学者は過激派を批判しました。

しかし過激派は「労働者や民衆に敵対し、封建制力を支持している」として考古学者を批判します。栄憲公主の遺体を奪って路上を連れ回し荒野に捨ててしまいます。過激派の中には古い時代のものは破壊しなければいけない。という考えがあったのです。

その後、多くの遺品類は回収されましたが良好な状態で保存されていた遺体は激しく痛みました。

栄憲公主はドラマでは「国のためモンゴルに嫁がされた不幸な王女」と描かれることが多いです。栄憲公主本人が不幸だと思っていたのかどうか分かりません。

死後、丁重に葬られ盗掘にもあわずにいたのに20世紀の現代になって墓は破壊されました。奇跡的に残った亡骸は墓から引っ張り出されて獣の餌になってしまいます。革命の名のもとに行われた破壊活動の犠牲になってしまったのです。

栄憲公主の最大の悲劇は死後にあったのかもしれません。

 

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